スマホを失くしただけだけど
スマホを失くした。一瞬の出来事だった。
アルバイトの出勤時間まで大学内で暇をつぶしてやろうと考えていた私は、大学の生協で飲み物やお菓子等の嗜好品を買い込み、食休み後はスマホでTwitterのタイムラインをぼーっと眺めていた。
ここまではまだ記憶がある。
出勤時刻が迫り、まだ1ミリも化粧をしていないことに気づいた私は「せっかくならちょっと広くておしゃれな食堂の化粧室でやったるか!」と意気込み、一階の食堂のトイレにむかった。その時スマホはアウターのペラッペラなポケットに突っ込んだ。これも確実に覚えている。
食堂のトイレに到着した後、ほとんど習慣的に個室に入った。その際、ペラッペラなポケットに入っていたスマホが便器に落ちてしまうことを危惧し、トイレットペーパーの上の板になっているところに置いて用を足した。その後、爽快な気分で個室を出、化粧をし、さあ出発かな、今何時だろう、とアウターのポケットに手を突っ込んだ瞬間、全身の血の気が引いていくのを感じた。そう、スマホが無いのだ。
しかし私はこれしきの事では焦らない。予想した場所に物が無いなど日常茶飯時だ。落ち着いた手つきでリュックやズボンのポケットを隈なく探した。無かった。
そんな馬鹿な。いや待て、個室に置き忘れただけではないか?なぁんだよかった、物心ついた頃から絵にかいたようなドジっ子の私だ、大方用を足し終わった後にトイレットペーパーの上の板に置いたスマホを回収し忘れたのであろう。軽い足取りで使用していた個室をのぞく。
無かった。
そんな馬鹿なことがあってたまるか、用を足し終わってから化粧をし終わるまで5分も経っていないぞ、なんでだ?頭の中はもうパニック大混乱、脳内BGMは最近見た今敏監督のアニメ映画「パプリカ」で劇中曲として流れていた平沢進の「パレード」である。
思い出せしのざき、お前がその粗末な顔面を粧しているとき、誰かがお前が使っていた個室に入らなかったか?そういえば食堂のおばさんが入っていたような気がする。…盗られた?
完全に私の中で窃盗犯となったおばさんは、トイレの前でこれみよがしに食堂メニューの張替えをしていた。
「すみません、私のスマートフォンをご存じないですか?」
なるべく不安そうに眉をひそめ、今にも消え入りそうな「被害者ボイスエフェクト」にしておばさんに問うた。窃盗犯ことおばさんは少し考えた後、
「いや、見てないなぁ。もし無いのであれば、学生課に届けられているんじゃないかな?お役に立てなくてごめんなさいね。」
と、とても優しい笑顔で答えてくれた。絶対にこの人は盗みなどしない。完璧におばさんを疑っていた自分がとても恥ずかしくなった。
「そうですか…ありがとうございます。」うなだれた私は、諦めきれずもう一度トイレに戻って探すことにした。するとそこには掃除のおばさんがいるではないか!校内のあらゆる場所を行き来し、数多の落とし物を見てきたであろう彼女ならトイレで突如として消えたスマホの在り処もわかるかもしれない。嬉々として彼女に尋ねた。
「黄色のスマートフォンを落としたんですけど見てませんか?」
「うーん今さっきこのトイレを掃除したんだけど、どこにもないねぇ。汚物入れにも入ってなかったし…。」
…詰んだ。まさしくこれは「詰み」だ。校内のトイレを司る彼女が見ていないというなら本格的に無いのであろう。完全に消失した。
「もし誰かが拾ってくれたんだったら学生課に行くといいけど、今日はもう閉まってるね。」
淡々と事務的に述べ、彼女は掃除用具を抱え去ってしまった。もう打つ手はないではないか。今日は土曜日で、学生課は11:00に閉まってしまう。今は13:30、スマホを失くした時刻はおよそ13:10、スマホが心優しい何者かの手に拾われていたとしても、すでに閉まっている学生課に届けたという可能性は極めて低いだろう。
完全に落ち込んだ私は、トボトボと歩きながら、数分前の自分の行いを省みていた。すると誰かが私を呼んでいる。
「お、しのざきじゃん!お疲れ!」
友人だ。そうやら食堂でサークル仲間と喋って暇を潰していたらしい。これ幸い、とばかりに、「頼むから私の携帯を鳴らしてみてくれないか、どうやら失くしたようだ。」と簡潔に説明し、私のスマホに電話をかけてもらった。
「プルルルル…プルルルル…」
緊張感が辺りに漂う。何千回と漁ったリュックを再度漁りながら、スマホが応答するまで待った。
彼女のスマホにはいつまでも「呼び出し中」とあり、着信音は依然として鳴らない。落とした場所にも行ってみたが、それらしい気配はなかった。
「うーん、無いね…。」
苦笑いで彼女は私の方を向いた。やはり無いのか、完全に失くしてしまったのか。現実を強く突きつけられ、力なくうなだれると、友人は慰めるように私の背中をさすってくれた。やめてくれ、今私に優しくするんじゃない。泣いちゃうだろ。
「もしかしたら学生課の落し物BOXにあるかもよ?見にいこうよ。」
友人が私の手を引く。あまりの優しさに申し訳なくなってきた。私は友人のサークル仲間との談笑タイムを奪ったというのに、アホでしかない私を励まし、支えてくれるなんて。半ば涙声で「ごめんよ、ありがとうね」と呟くと、「いいんだよ、暇だったからね。」と友人は微笑んだ。
結果を言ってしまえば、スマホは消えた。
掃除のおばさんのいう通り、学生課はしまっており、BOXの隅々まで探しても見当たらなかった。ここまで無いといっそ清々しかった。
サークルの時間がきてしまった友人を感謝の言葉と共に見送り、おぼつかない足取りでバイトに向かう。最寄り駅までの道のりをなんとか他のことをして気を紛らわせようとしたが、運の悪いことにウォークマンも忘れてしまっていた。都会の騒音を聞き流しながら鉄のように重い歩を進める。
「ああ…マジか…死にたい」
ポツリと呟いた。私にとっての「死にたい」は「ハワイに行きたい」「人の金で焼肉が食べたい」と同じようなニュアンスである。スマホの無いポケットはやけに軽く、体の左右の重心が取れないようで少しフラフラした。
ショックで靄がかかったような頭でスマホがないことでこれから困る事象を考えてみる。
「まず第一に連絡手段の全てがなくなるな…。もちろんSNSもできない…。バイトから電話が掛かってきたら困るし、第一出なかったら怒られるだろうな。あと電車の時間すら調べられないし、今何時かもわからないじゃないか…だめだもう、死のう。」
視線の先には線路があった。考えてみると意外とデメリットが多い。しかし、ずべては自分の確認不足が招いた出来事だ。考えれば考えるほど自己嫌悪とやり場のない怒りがこみ上げ、思わず下唇をギュッと噛む。
そもそも、スマホを失くしてこんなに不安になるとは思わなかった。
高校時代、クラスメイトや部活仲間の誰よりも携帯電話を買ってもらうのが遅かった私は、「テスト期間中に携帯見すぎて取り上げられた」というクラスメイトの愚痴が理解できなかった。携帯電話というのは連絡手段の一種であって、外出中は肌身離さず持っている必要があるが、家の中で画面を見続けるのはおかしいと考えていたのである。
しかし、いざ自分がスマホを持ってみると、その多機能性に驚いた。スマートフォンは電話をするだけの板ではなく、スケジュールも管理できたり、ゲームもできたり、音楽も聴けた。知らないことが3秒もかからずに調べられ、考えていることを誰かにいつでも発信できた。何年も合ってない人間と久々にコンタクトを取れたり、親にバレないように彼氏と愛を語り合うことだってできた。スマホはただの連絡手段ではなく、コミュニケーションツールとして私の生活の一部、もっと大げさに行ってしまえば身体の一部にもなっていたのだ。
しかし、私はいわゆる「スマホ依存」では無い、という謎の自信があったので、今回スマホを失くしてソワソワしている自分にとてもショックを受けた。それと共に、情けなくもあった。16年間気丈に生きてきた私が、スマホを得て3年間の間にこんな弱い人間へと変わってしまったのだと思うと、ほとほと自分に嫌気がさした。
バイトへ向かう電車に乗り、比較的空いてる座席に腰を下ろす。ふと周りを見回すと、周囲の人たちのほとんどは下を向き、一心不乱にスマホを操作していた。くたびれたサラリーマン、やせぎすのOL、厳しそうなおじさんや上品そうなおばあさん、老若男女がみな一斉に同じ姿勢で首を下げ、スマホを見ている。もちろん私も数時間前までは彼らと同じようにスマホを見ている集団の一人だった。
「老若男女がみな一斉に同じ姿勢でスマホをいじっている。」そう考えると急に恐ろしくなってしまった。彼らは自分の目の前の画面にしか意識がない。見えていないのだ。それは酷く無機質で、冷たいものに感じた。まるで電車で運搬されるロボットのようである。私もそのロボットの一人なのだが。
スマホを使うなとは言えない。正直スマホがない生活は今でも想像がつかない。
しかし、スマホを失った今、一線引いて日常を見てみると、自分がどれだけ下を向いて画面に集中していたのかがよくわかる。こんなにも下を向いて生きていたら、何か大切なものを見落としても気づかないな、と思った。
さて、私のスマホはどこに行ってしまったのかな。
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