認知の歪み と 音楽
・はじめに
子供の頃から、ずっと何かと戦っている感じがあった。
その正体の一つは「認知の歪み」だったように思う。
認知の歪みといっても色々あるが、簡単に言えば世界を正しく捉えられないことだ。
例えば…
「いじめられている方も悪いのでは?」
「露出の多い服を着ていたから痴漢されたんじゃないのか」
という言葉をろくな検証もせずに吐く人たちを見たことがないだろうか。
いじめられた側に何の落ち度もない可能性も、露出を全くしていなかった可能性も大いにある。
それでも人は、事実ではないことをさも事実のように語ってしまう。
あれは認知の歪みが由来となっている。
僕自身も歪んでいる部分はある。
ただ、可能な限り歪まずにいたいという気持ちもある。
「あの頃が一番楽しかったよねー」
「あいつあの頃と変わったよな」
「俺は最初からそうなると思ってたけどね」
「B型のやつってこうだよね」
できるだけ、そういった言葉を使わない人間でありたい。
世界を正しく捉えていたい。
そんな気持ちが僕の中にずっと存在していたのだ。
・自分に馴染む音楽、馴染まない音楽
音楽(主に歌物)を聴く上で、「自分に馴染む音楽」と「自分に馴染まない音楽」があると感じたことはあるだろうか。
僕はある。その馴染む/馴染まないは一体どこで分かれているのだろうか。
昔から、そこにはない希望をあるかのように歌っているものや、特に動機もなくプラスの方向で終わるものがそこまで好みではなかった。
「それでも前を向いて頑張っていこう」みたいな締めの歌詞を見ると、「前を向いて頑張る動機がない」ことが気になってしまう。
最近になって、音楽が馴染む/馴染まないにも「認知の歪み」が関係しているのでは、と考えていた。
今ここにはない希望を描く歌詞は、根本的な原因を解決できるものではなく、大丈夫じゃない状態を「大丈夫だ」と思い込ませるようなものだったりする。
これはある種の歪みと言えないだろうか。
対して、現実的な歌詞には基本的に歪みがないように思う。
音楽がいくら何を訴えても、死んだ人は帰ってこない。
別れた人が戻ってくるわけじゃない。
崩壊した家庭が元に戻るわけじゃない。
仮に問題を解決できたとしても、それは本人の行動や努力によるものだ。
世の中の音楽には、ポジティブなものが多いと感じる。
その中でも「そこにある世界を歪めて描くもの」に関しては、自分には馴染まないのだと気がついた。
僕が好きだったバンドにBUMP OF CHICKENというバンドがいる。特に歌詞が好きだった。
物語的な歌詞たちには「このお話はそもそもフィクションです」という現実的な前提があり、生活感のある歌詞は正に現実的だった。
「ホリデイ」という曲の歌い出しの歌詞をみてみる。
「失敗しない 後悔しない 人生がいいな
少し考えてみただけさ 有り得ないって解ってる」
引用:BUMP OF CHICKEN / ホリデイ
とても現実的だ。
その後の歌詞も全体を通してそれが続く。
「巧くいかない 日々が繋がって いっそ止めたくなって
それもできない そんなモンだって 割り切れた訳でもない」
ホリデイの歌詞にしてもそうなのだが、現実的な歌詞は最後までプラスに向かわないものが多い。
悪く言えばオチがないようにも見える。
でも日常を生きていて、オチがあることなんてそんなにあるだろうか。
他に好きな歌詞を書くバンドにSyrup16gがいるのだが、Syrup16gのほとんどの歌詞にはオチがない。
「でも 心が痛い たまに届かなくて
酷い時は泣いて いいね もう」
引用:Syrup16g / センチメンタル
例えばセンチメンタルという曲はこのリフレインで曲が終わる。
「それでも前を向いて頑張っていこう」みたいな流れの歌詞が多い中で、自分はセンチメンタルのような歌詞に魅力を感じてきた。
前を向いて頑張ったところで、どうにもできないものはどうにもできない。
音楽自体にはそういう問題を解決する能力はない。
先ほども書いたように、解決できる問題だったとしてもそれはその人自身の行動の結果だ。
そこを前提で書かれている歌詞は、どちらかと言えば現実的なものになるのではないだろうか。
僕に馴染む音楽は現実的なものだった。
・作りたい音楽 1
2010年から音楽を始めた。
Suck a Stew Dryというバンドだ。
Suck a Stew Dry / 二時二分
https://youtu.be/o2AXGVLb0OM
思えば最初に公開されたMVの二時二分も認知の歪みをテーマにした音楽だった。
「ポジティブな人の方が世の中を正しく捉えられていない」という実験がある。
被験者にスイッチとランダムに点滅するライトを持たせて、一定時間スイッチを押させる。
ポジティブな人ほど「ライトの点滅をスイッチで操作できた」と答えるらしい。
実際にはライトは勝手に光っているだけなのだが。
二時二分はそれと近いことがテーマになっている。
「現象はただそこで起きているだけなのに、そこに意味があるように捉えてしまう。」
同じような認知の歪みと言えないだろうか。
雨男、雨女のような概念も近い。
そんな認知の歪みに対して最後に「毒されている」で締める。
二時二分は「歪んでるよ、それ」という歌詞なのだ。
結局、この曲自体が他人の認知の歪みに晒されまくって消費されたことは、皮肉な話かもしれない。
「結局誰もがフォロワー」のフォロワーはTwitterのフォロワーという意味ではなくて「よくもわるくも全てのことは先人の二番煎じ」という意味だ。
「個性がない」に関しての歌詞は「欲しがっても欲しがらなくても個は個でしかない」という意味で書いたつもりだ。
この曲は「9mm Parabellum Bulletの命のゼンマイのパクリ」とも色々な人に書かれたが、そもそもこの曲を作ったのも2009年くらいのことだ。(命のゼンマイのリリースは2010年)
そのレベルのことでも、検証できない人間がたくさんいるのだと知る、いいきっかけだった。
・作りたくない音楽
Suck a Stew Dryは2016年に活動を終了した。
ギターが脱退し、残された4人も活動を終了することにした。
当たり前のように「何で辞めたんですか?」みたいなことをたくさん聞かれたが、基本的には僕がもうSuck a Stew Dryという名前を続ける気持ちがなかった。
続けたくなかった理由はいくつかある。
1. 誰かのためにやりたくない
2. バンド名が性的な意味
3. 4人で5人の曲を演奏したくない
4. 作りたくない音楽ばかりになっていた
など。
1.に関しては散々MCなどで話しているが、僕には「僕という人間を愛されたい」という気持ちがほとんどと言っていいほどなかった。
次はなにを言うんだろう、どんなことをするんだろう、と一挙手一投足を拾われるような見られ方をし始めた時に、これを続けていくのは無理だなと感じた。
自分みたいな面白くない人間を、事務所は「こんなに面白いやつなんですよ!」と言って他人に勧めてくれた。
気持ちはありがたかったが、中身のない人間がそれを続けていけるほど業界も甘くなかった。
2.はそのままだ。結果的に復活にあたりTHURSDAY'S YOUTHと改名することになった。
3.に関してもそのままなのだが、特に気になったのは「ギター1人くらいいなくても、4人でやればいいじゃん」とあっさり言ってのける人たちの酷さだった。
そして4.の理由だ。
馴染む/馴染まないの話にもあったが、僕は何の動機もなくプラスのオチに向かうような音楽は作りたくなかった。
なんとか自分に馴染まない音楽にならないようにした。
プラスっぽく聞こえても、実は当然のことを言っていたり。寧ろマイナス面を歌っていたりすることもあった。
しかし、そんな音楽を受け取ってくれた人たちは想像を遥かに超えるポジティブさを持っていた。
「僕が目指すべき道は 誰かが作った通り道
僕が立ち向かう壁も 誰かが先に越えた壁」
僕らの自分戦争という楽曲で上記の歌詞が出てくるのだが、これは「自分がいくら努力して越えた壁だとしても、既に越えた誰かがいるのだから自分は所詮二番煎じなのだ」という歌詞だ。
ある日、楽曲を受け取った人にこんな風に呟かれていた。
「誰かが越えられた壁なのだから自分にも越えられる、と思えて勇気づけられた。」
この呟きを見たときに、自分はアーティストとして死んだのだな、と感じた。
死んだというのはもちろん比喩だが、そのくらいのショックを受けた。
そこにはない希望を希望として歌うような、言ってしまえば一番なりたくないアーティストへの仲間入りを果たしたのだ。
・作りたい音楽 2
先に少し書いたが、今はTHURSDAY'S YOUTHというバンドをやっている。
このバンドでは、「作りたい音楽しかやらない」という縛りを自分に作っているつもりだ。
歌詞で言えば、オチのない生活感のある歌詞を書いている。
もちろん動機もなくプラスに向かうような歌詞は書かない。
音楽的にはテンポの速い日本的ギターロックでもなければ、流行りのシティポップでもない。
THURSDAY'S YOUTHに「明日はきっと大丈夫」という曲がある。
「明日はきっと大丈夫」という言葉で安易に勇気づけようとされても、そんなんで上手に生きていけるわけじゃないだろう、と書いている。
タイトルも実際は「明日はきっと大丈夫なんて言われても」みたいにする方が意味的には正しいのだろう。
歌詞の中の「明日はきっと大丈夫」という言葉自体が、そこにはない希望を歌っているようなアーティストにイコールで繋がっている。
そんな言葉で根本的な原因は解決しないだろ、と。
聴く人の認知を歪めるアーティストに対する、アンチテーゼだ。
・おわりに
僕は音楽に救われたと思ったことがない。
何故なら、僕が求める音楽とは、ない知識を埋めてくれるもの、正確な自分を知るヒントをくれるもの、現実を教えてくれるものだからだ。
ライブハウスでライブをしていても、他のバンドやそこにいるリスナーと、自分が逆行していると感じることがある。
現実逃避を求めているリスナー、それに答えるように現実を忘れさせようとするアーティスト。
でも僕には、現実を忘れさせる力もなければそうしたい気持ちもない。
だってこの世界は、悪いことのあとに良いことが待っているとは限らないし。
「止まない雨はない」と言われても、雨が止んだところで傷は癒えないのだから。
聞こえのいい言葉よりも、ただありのまま現実を提示していくことを選ぶ。
それが僕自身が音楽に求めるものであり、自分が他人に表現できることだと思っている。
THURSDAY'S YOUTH
篠山浩生
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