stroll photo, etc
篠山 椎 / シイ。
短歌やタロットについて
ラフ/ソロ音源集
過去の文章を編集したもの
購入後に全編(01:32:51)を視聴することができます。
人がお互いに完全に同調し合うことはできない。自他境界が曖昧な人は否定したくなるかもしれないが、知識として相手の気持ちを"知ること"はできても"理解する"ことはできない。 食事一つでも人によってこんなに好みが違っているのに、何故それよりも深い部分にありそうな思考や感情が同じになれると思えるのだろうか。そこには「同じだと思いたい」という気持ちが存在しているように思う。
春はいつも生命と再生の象徴として語られる。しかし僕たちが経験する「青い春」は少し違う。成長と破壊。愛と孤独。被害と加害。その狭間で揺れ動く若さはまるで儚い蜃気楼のようで、手に触れれば壊れてしまいそうだ。 感情の渦はまるで消えない傷のように、記憶の中に深く刻まれる。時には相手に利用されていると感じながらも、心のどこかではその関係にしがみついている自分がいる。気が済むまで使われることを望むというのは愛なのか、それとも自己破壊の欲なのだろうか。僕たちは自分がどちらの立場にいるの
"火のないところに煙は立たない"というゴミみたいなことわざがあるが、全力で否定することができる。 火のないところに煙は立つ。本当に。 現象ではなくて、ことわざの方の意味で。 要は何の油断も前触れもなくデマを喰らったりするということだ。そのうちの一つがこの投稿。
「前はああ言ってたじゃん」という言葉ほど不毛なものは少ない。 前は前、今は今でしかない。 コミュニケーションが苦手な人は"前言ったことを覆してはいけない"という思想を持つ人が体感多い。 理由はきっと、その都度コミュニケーションをするのが労力に感じてしまうからだろう。
(仕事以外で)ミスに気づかない人が一定数いる。何人とご飯に行っても一向に付き合えない、とか。付き合えても毎回すぐに振られてしまう、とか。 この原因は"自分の失敗に気づいておらず、理由と向き合えないから"の場合が多い。 原理として、何か失敗が起こる度にその理由を考えられていればこの現象は起きづらくなっていく。
人間が他人に迷惑をかけないことは不可能だ。もしもあなたが完璧主義者だとその部分に引っかかり続けることになる。 迷惑をかけないように生きたいと願うのはいいが、達成目標はせいぜい90%位までにとどめておくべきだろう。100%を目指してしまうと途中で死を選ぶことになる。
嫌な書き方ではあるが、実際生き方としてはかなり正しいよりの投稿だと思う。消費している人間は大体傍に"嫌なもの"を置いてしまっている。 "嫌なもの"は物だけではない。親、恋人、配偶者、子、友人…全てがそれに当たる可能性がある。嫌なものと関わるのは辞めた方がいい。
音楽をやる上での障害って実はそんなにないと思っている。 このメンバーじゃないと、とか恋人が嫌がるから、とか理由が外にある場合はあるが、基本的に音楽を続けていけない"論理的な"理由は日本にはない。(音楽が違法なものではないので) だから自分は一生解散するつもりはない。 活動がなくなることはもちろんあるかもしれないが、別に体裁をキープしたい気持ちもない。
・物価高で値段設定を見直したい(更新のモチベーション的に) ・メンバーシップの方と加入している方が被っている などの理由でweblog(tweets)のマガジンは停止いたします。(今月は更新します。) 今までご購読いただいた方、本当にありがとうございました。 以後は同内容のものをメンバーシップのみで更新していきます。 ・stroll club(メンバーシップ) メンバーシップの内容は、 ・過去ツイートを振り返り今の視点で書く記事 ・オフラインで撮った写真のアップ
「あの人もできたんだから」と言われても僕にもできる理由にならない / 篠山椎 短歌は何かを批判するのに適したフォーマットだと思っている。この短歌も批判の短歌だ。 仮に勇気づけるために言われた言葉だとしても論理に間違いが含まれていると、受け取りづらいことがある。 「あの人もできたんだから(あなたにもできるはず)」という言葉は論理があまり成り立っていない。あの人とそもそも自分は異なる(能力を持った)人間なのだから。 言われると違和感を覚える人が多い言葉なのではないだろうか
付き合ってから数年経って、このタイプだということ気づいてしまって引いてしまい別れたことがある。 "自分が損をしてでも他人の得を阻止したい" というようなことを話し始めた日があった。 「なんで?」と聞くと「だってズルいじゃん」と。 その日まで人間性に気づけなかった自分の見る目がなかったのか。それとも付き合っているうちにそういう人間になってしまったのか。 前者だった場合は見る目のなさを反省しないといけないし、後者だった場合はそういう人間になるのを防げなかったことを反省
「まるで夢」力の抜けた肉体とエンドルフィンのプールに浮かぶ / 篠山 椎 セックスしたあとに「夢を見てるみたいだった」と言われたことがあり、そのことをずっと覚えている。 今も記憶しているということは多分印象に残るフレーズだったのだろう。 こういう順序が逆転することが割とある。 印象的だったから記憶しているのではなく、記憶しているということは印象的だったのだ、と。 別の人の「私、浮気しちゃったんですね。」という言葉もよく思い出す。 あれがベッドだったか布団だったか
想われる鬱陶しさと愛おしさ人が違えばこうも違って / シイ。 自分は想われること自体にはあまり鬱陶しいとは思わない方なんですけど(それきっかけでの鬱陶しい行動をされなければ)、世の中ではよく聞く事ですよね。 なんかの漫画の切り抜きでもよく見かける気がします。 これはそんなあるあるを描いているだけなのですが、Uttooshisa/Itooshisaで韻文になっています。 何でも男が悪いことにすれば済むならボクが悪者でいい / シイ。 これは男下げの歌なように見えてそ
この頃はインディーズで2位、みたいなことを割と素直に喜べていたような気がする。 この後どんどん何故かそういうものがどうでも良くなっていってしまった。 自分の体感を超えることがなくなったから、だと思う。 2012年ぐらいの時はまだ自分の音楽がインディーズとはいえ"チャートインする"ということに驚きがあった。 その後の活動はフェスやラジオやテレビに出ても「まぁこれくらいセールスや動員があるならこれくらいの位置にはなるよな」みたいに、至って冷静な自分がいる事の方が多かった。