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風花が舞う頃 2

 研究室でメールをチェックしながら、家から持参したおにぎりと野菜ジュースで昼食を済ませる。ブラインドの隙間から射すは、午前の疲れを吸収したように気だるい。アカペラサークルが歌うレミオロメンの「3月9日」が、風に流され、かすかに聴こえてくる。鼻歌でなぞりながら、先程のセミナーのコメントシートを読み、出席簿へのチェックを済ませる。

 何年教壇に立っていても、講義が終わると、疲労がどっと押し寄せてくる。90分を話し続ける肉体的疲労に加え、学生の反応を見ながら話を展開する脳の疲れもある。大抵は心地良い疲労だ。だが、入念に準備したにも関わらず、学生の反応が悪かったり、寝ている学生が多かったりすると、嫌な疲れに見舞われる。論文の締め切りが近いと、体力を消耗する講義を負担に思うこともある。とはいえ、専任ポストに就くために、苦労が多い職業であることを思うと、教壇に立てる幸せがそれを上回る。

 午後は、研究室で学生の相談を受けるオフィスアワー。今日は2件の予約が入っている。約束時間まで30分ほどあるので、大学院生に依頼された英文の推薦書を書き、出張に伴う旅費の申請書を入力する。事務仕事は、空き時間を利用して処理しないと、すぐに山積みになってしまう。

 約束の数分前、今年入ゼミ予定の3年生  旭野水妃ひのみずきさんが軽やかにノックする。1年次のセミナーで担当した学生で、一際目立つ存在だった。

 彼女が入室するだけで空気がぱっと華やぐ。入学式で、大手ファッション誌の読者モデルにスカウトされ、昨年のミスキャンパスに輝いた。恵まれた容姿を引き立てるラップワンピースに身を包んでいるが、色は落ち着いたベージュで、スカートは膝下丈。下品にならないよう心掛けるところに、育ちの良さがにじみ出ている。フラットパンプスなのに、ヒールを履いた162センチの私よりも頭一つ高く、見下ろされている圧迫感がある。

 ソファに向かい合わせに掛けた旭野さんは、大きな瞳で私を見据え、口角をきゅっと上げて微笑む。アナウンサー志望の彼女は、表情を豊かにすることを心掛けているのだろう。改めて顔を見ると、元宝塚男役トップスターの人気女優に似ている。

「如月先生、お久しぶりです。今年からゼミでお世話になります」
 彼女の声はやや低めのメゾソプラノだが、穏やかに話すので、聞き心地が良い。セミナーのプレゼンテーションでも、教室の隅々まで行きわたる明瞭な発音で話していた。

「こちらこそ宜しくお願いします。ますます大人っぽくなりましたね」

「いえ、全然です」
 彼女はかすかに視線を下げ、恥じらうような表情をつくる。

「メールに書いて下さいましたが、アメリカ留学を考えているということですね?」

「はい」

「志した理由を伺ってもいいですか?」

 彼女の視線が、かすかに泳ぎ、薄ベージュのネイルが塗られた手元に落ちる。
「不純な動機ですが、アナウンサーの採用で、帰国子女やハーフ、バイリンガルが有利になることもありますよね。アナウンサースクールで一緒に学んでいる友人の中には、帰国子女で英語ペラペラの方とか、中国語とか他の外国語が堪能な方もいるんです。私は、そういう環境に恵まれなかったので、せめて指定校への交換留学で箔をつけて、コンプレックスを解消したいです。
 希望としては、アメリカ政治を勉強したいので、アメリカがいいのですが、人気が高そうなので、英語圏ならどこでもいいです。それもダメなら、非英語圏でも、英語で講義が受けられるところを狙います」

 容姿にも頭脳にも恵まれた彼女の弱みを知ると、それを克服しようとする心意気が胸に迫る。欲しいものをはっきりと口に出せるところにも、好感が湧く。

「そういうことでしたら、留学は夢を掴むために重要なステップですね。指定校の交換留学を狙うのは良いと思います。卒業が一年遅れますが、大丈夫ですか?」

「はい。親も応援してくれます」

 彼女の父親は法務省キャリア官僚、母親はそこそこ有名なエッセイストで、小学校からH大付属という恵まれた環境にある。不自由のない環境で育ったことを反映するように、自信家で自己肯定感が高い。

「良かったですね。学内選考では、志望動機、TOEFLスコア、英会話力を見られます。ちなみに、私も選考委員です。TOEFLの準備はしていますか?」

「春休みから、TOEFLの専門学校に通い始めました」

「それは心強いですね。他にわからないことがあれば、何でも聞いて下さい。もちろん推薦書は書きますよ」

 彼女はその言葉を待っていたかのように、淀みなく話し出す。
「あの、留学から話が逸れるのですが……。私、去年の大学祭で見た如月ゼミの模擬大統領選挙に、魅力を感じています。ゼミ生が大統領選挙の民主党と共和党の候補者に扮して、討論して、聴衆の投票で当選者を決めましたよね。司会のキャスター役の女性が、とても頭が切れる方で、格好良かったです。彼女を見て、私も司会をやってみたいと思いました。3年生では無理かもしれませんが、留学から帰ったら務まりますか?」

「ありがとうございます。ゼミ生も喜ぶと思います。ですが、模擬大統領選挙は、ゼミ生の発案でやったので、毎年やると決まっているわけではないのです。如月ゼミとしての大学祭への参加は、展示だけの年もあるし、学生が希望しなければ参加しないこともありえます」

 彼女はくっきりと描かれた眉根を寄せる。
「毎年やらないのですか……」

 端正な顔に、雨雲が空を覆うように失望が広がっていく。

 その様子を見て思い当たる。如月ゼミのOBには、アメリカ政治の知識を生かし、マスコミで活躍している方が何名かいる。昨年の模擬大統領選挙には、キー局のプロデューサーになったOBが観にきてくれた。司会役のゼミ生は、打ち上げでそのOBと仲良くなり、キー局系の映像制作会社に推薦してもらった。旭野さんの狙いは、それかもしれない。だが、こちらから、それを口に出すことはできない。

「学期末の3・4年合同ゼミで、大学祭の企画を話し合います。そこで、模擬大統領選挙を提案してみたらいかがですか? 3年生でも遠慮することはないですよ。私のゼミでは、議論をするときは、先輩も後輩も対等だと指導しています」

 彼女の瞳がきらりと光を帯び、すぐにも動き出しそうな意気込みが伝わってくる。
「ありがとうございます。他の3年ゼミ生にも根回しをしてみます」

 丁寧に御礼を言って退室する旭野さんを見送りながら、彼女がキー局の女子アナに内定しますようにと心から願う。


 2人目の相談者、大学院修士課程2年の木村賢太郎きむらけんたろうくんは、時間にルーズなところがあるが、めずらしく時間通りに尋ねてくる。日系ブラジル人四世で、アメリカの不法移民対策を研究している。彼の父親の友人が、アメリカ移住を選び、不法移民として苦労した話を聞いたことで、関心を抱いたという。

 メールをもらったときから、良くない話であると予感していた。普段は好奇心に満ちている彼の瞳は、薄膜を張ったように光がない。いつもの朗らかさは影を潜め、今にも全てを投げ出してしまいそうな悲壮感を背負っている。

「木村くん、ご家庭の事情で、新学期から自宅通学ということですね」

 彼は喉の奥から絞り出すような声で話し出す。
「一昨日、親父が会社で倒れて、すい臓がん末期だとわかったんです。親父は休職して入院しましたが、もう長くないと言われています。親父が働けないと、僕の学費と生活費を出してもらうのは無理です。自宅から通学しようと思ったのですが、それも難しいかもしれません。東京のアパートは解約します」

 彼の両親は日系ブラジル人三世。1990年代に、日本に出稼ぎに来て、結婚し、移住を選んだ。日系人とはいえ、三世ともなれば言語文化的にはブラジル人で、両親ともに日本語が不自由だという。父親は工場の契約社員を続けていたが、4年前に正社員になり、周囲の日系ブラジル人の中では恵まれた家庭環境だったと聞いた。両親は、子供には日本でしっかり教育を受けさせたいと、彼の大学院進学を応援してくれていた。

 項垂うなだれる彼を前に、現実の厳しさを思い知らされる。
「それは大変でしたね。木村くんも辛かったでしょう。お母さんは大丈夫ですか?」

「ありがとうございます。御袋は、コロナ不況で、パートをしていたブラジル人経営のスーパーがつぶれてから、仕事がないんです。日本語が苦手なので、たまに農家で収穫の手伝いをするくらいで、収入はほとんどゼロです。僕が働くしかないです」

「そうですか。でも、木村くんは、ここまできたら修士は取りたいでしょう」

「もちろんです。でも、地元で介護福祉士の専門学校に通ってる妹もいるんです。辞めるのは、大学院まで行かせてもらっている僕です」

 木村くんは、私が非常勤講師を務めるO大学の出身だ。O大の汐見しおみ教授から、私の講義に興味を持ち、研究室に入りたがっている学生がいると紹介された。木村くんは、修士号を取得し、国際連合か国際NGOで働きたいと、真っ直ぐな瞳で、熱く語ってくれた。汐見先生と私で指導し、H大の大学院入試に備えた。入試の成績は芳しくなく、難色を示した先生もいた。だが、私が責任をもって指導するという条件で、合格させた。入学後、彼はめきめきと伸び、ティーチングアシスタントとして、学部生を指導してくれている。そうした経緯もあるので、何としても、彼に修士を取得させたい。

「木村くんは、日本学生支援機構の第一種奨学金をもらっていますよね?」

「無利子で借りられるやつですか?」

「そうです」

「もらってます」

 パソコンのキーを叩き、応急採用について調べる。何年か前に、難しい状況になった学生のために調べたことがあった。

「有利子になってしまいますが、第二種奨学金の応急採用に応募できるかもしれません。もし、採用されれば、翌月には振り込まれるようです」

 焦点を失っていた彼の瞳が、軸を取り戻したように私に向く。 
「どれくらいもらえますか?」

「事務局に行って、奨学金担当の杉崎さんに相談してみてください。いま、訪ねていいか聞いてみますね」

 内線電話で事情を説明すると、杉崎さんはすぐに来るよう言ってくれた。

 彼としっかり目を合わせて語り掛ける。
「いま杉崎さんに聞いたら、H大の奨学金も併用できるので、それにも応募するよう勧めてくれました」

「それ調べましたけど、博士課程の人が優先と噂で聞いて……」

「応募者の事情を考慮して、個々に検討するので、可能性はあります。締め切りに間に合うよう、すぐに行動しましょう! 私からも、審査する先生に働き掛けておきます」

 悄然としていた彼は、胴体と手足を拾い集めるように立ち上がる。打ちのめされている彼を叱咤するのは、酷だとわかっている。だが、締め切りまでに、書類を揃えさせなくてはならない。

「できるだけ通学しないで済むように考えましょう。大学院ゼミにはZOOM出席で良いです。私が非常勤でそちらに行った際に、どこかでお会いして修士論文の指導をします。ここまで来たら、何が何でも修士を取ろう!」

 彼は空洞のような瞳のまま、気丈に口角を押し上げる。

「一緒に事務局に行こう!」と彼の強張った背中を押す。