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風花が舞う頃 8

 実家の敷地には、2階建ての住宅が2軒並ぶ。93歳になる父方の祖父が住む左側は、既に消灯している。両親が住む右側は、リビングのカーテン越しに明かりが見える。庭の薄紅色のハナミズキが月明かりに映え、夜風にさざめく。玄関ドアに鍵がかかっていないと知っているので、カバンから鍵を出す必要はない。両親は不在時と就寝時しか施錠しない。私が子供の頃からそうだが、泥棒が入ったことは一度もない。そこそこお洒落な戸建てが並ぶのに、のどかな界隈だ。

「ただいま」
 リビングのドアを開けると、70の声を聞いた両親が、白ワインで晩酌中だ。帰るのは正月以来なので、2人の老いを敏感にとらえてしまう。

 ソファに座っている母が、風呂上りのほてった顔で振り向く。
「おかえり、遅かったじゃない。風花も飲む?」

「うん。週末だし、もらおうかな」

 髪をカーラーで巻き、ネットをかぶった母が、ワイングラスに半分ほど注いでくれる。母の横顔が照明に照らされ、潤いを失い、たるんだ肌が浮き彫りになる。化粧をしていないと、濃くなったシミが露わになる。

 白眉が目立つようになった父が、のんびりとした口調で言う。
「これ、風花が送ってくれた白ワインと同じのだよ。味も香りもいいから、同じのを取り寄せたんだ」

 父の指が節くれだっているのに気づき、見知らぬ老人がそこにいるような奇妙な感覚に襲われる。いつまでも若々しく、マイペースで活動している気がしていたので、物寂しさと罪悪感のような思いが胸を通り抜ける。

「そう、良かった。それ、カリフォルニアにいるとき見つけて、美味しかったから、日本でも買えるところを探したんだよ」

「向こうは、安くても美味しいのがたくさんあったわね」

 博士論文が進まず、鬱々としていた頃、カリフォルニアに遊びに来た両親をサンフランシスコ北部のワイナリーに連れていった。両親は将来の見えない私に、「これからどうするの」と問い詰めたい思いを腹に抱え、私は聞かれたくないオーラを全身にまとった重苦しい旅立った。何も言わずに苦節の時代を見守ってくれた両親には、心から感謝している。できる限りの親孝行をしたいと思う。彼らが年々老いていく姿と比例するように、その思いは膨らんでいく。

 時計は9時を回っている。
「おじいちゃん、もう寝ちゃったよね?」

「そうね。ご飯を食べた後、しばらくテレビを見てたけど、8時には電気が消えてたわ」

「そう。明日の朝、顔見に行くね」

 ワイングラスを揺らすと、芳醇な香りがふんわりと立ち上がる。一口含むと、口の中で酸味と甘みがバランス良く絡み合う。

 母が生来の早口でまくしたてる。
「そういえば、先週、玲子ちゃんのお母さんに会ったのよ。風花がコメンテーターで出たテレビ見たって言ってたわよ。おとなしかった風花ちゃんが、あんなに堂々としてと驚いてた。私も鼻が高いわ。今度はいつ出るの?」

「さあ。あれは、教え子が制作に関わってる教養番組で、私の専門がテーマに合ったから頼まれたの」

「よく出てるラジオ、また出るんだろ?」

「もうすぐ、アメリカのアファーマティブアクションの裁判の最高裁判所判決が出るから、そのときにと言われてるけど」

 父がテーブル上の地方紙と全国紙を重ねながら言う。
「そうか、楽しみにしてるぞ。大学では、今年も入試委員なのか?」

「今年から学生委員に変わった」

「学生委員って、何やるんだ?」

「学生に関すること全般かな。各学部の学生委員は、学生支援センターに所属して、業務を分担してる。わかりやすいのは大学祭の監督とか、奨学金を授与する学生の選定。学生が何かやらかして、大学にクレームが入ったとき、対応に呼び出されるとか。最近増えてるのは、身体障害や発達障害を持つ学生と親が特別措置を希望したとき、教員や教務課と相談して、適切な環境を整えること。必要があれば、保健管理センターの公認心理士さん、看護師さんに相談して対応することもある」

「へえ。最近は発達障害が随分注目されてるな」

「発達障害って言えばね、秀哉ひでやのところの蒼真そうまくん。1歳になったのに、まだ言葉が出ないの。秀哉たちには言えないけど、発達障害じゃないかしら。きっと、洋子ようこさんの血よ」

 母の無神経な言葉に強い憤りが湧き上がる。
 恐らく私も兄も、検査を受ければ発達障害と診断されるだろう。それが、両親から遺伝したことは明らかだ。だが、彼らは発達障害という言葉を聞きかじっているだけで、どんな特質を持ち、何が原因で発症するかを知らない。自分たちにも、その特質があり、子供に遺伝させたとは夢にも思わないだろう。私がそのせいでいじめに遭い、地元から距離を置きたいと思ったことなど、想像もしていないに違いない。当時、仕事で成功を修め、毎日が忙しく充実している両親には、気が引けて相談できなかった。小学校時代、私が男子に太腿を強くつねられ、青あざになっているのを見つけた母は、「嫌だね」と言っただけだった。中学時代、加害者への怒りの言葉をぶつける独り言を父に聞かれたことがある。父は、「どうしたん、虐められたん?」とからかうような響きで尋ねた。仕事で一杯一杯の両親は、見て見ぬふりをしたかったのだと割り切ってきた。今更、そのことを蒸し返して糾弾するつもりはないが、ずっと忘れていた憤りが腹の中で暴れ出す。

 父は手にしたワイングラスを置き、今思いついたような口調で尋ねる。
「それはいいとして。風花は、こっちの大学に移る気はないのか?」

 両親は、そのことを口に出すと、私が不機嫌になると知っているので、ここ暫くは話題に上らなかった。久々に口に出され、もしや何か嗅ぎつけているのかと、全身が強張る。

 母が声量のある高音で弾丸のようにまくしたてる。
「おじいちゃん、足腰が弱ってきてるのよ。スーパーに買い物に行くのが億劫そうで、転倒したら困るから、お父さんが止めるよう説得したの。だから、先週から、私が三度の食事を運んでるのよ。これから、増々弱ってきて、介護が必要になるのも遠くない将来でしょう? こういう状況だから、風花は、そろそろ帰ってくることを考えてほしいの。あなたも、もう40なんだから、いつまでも東京にいるのは辛いでしょう」

 そういう話だったのかと全身の警戒態勢が解除される。
 だが、スーパーに買い物に行くことを日課にしていた祖父が、それをやめてしまったことに、寒風が吹き抜けるような寂寥感を覚える。祖父母との関係が良好ではなかった母に、介護を丸投げするわけにはいかない。祖父に可愛がられていた私が協力するのは道理だ。

「うちに住むのが窮屈なら、駅前に雨後の筍のように増えているマンションを買えばいい。援助するぞ」

「東京に出た子も、どんどんこっちに帰って来てるのよ。秀哉の同級生で、京都のD大の教授だった田中くん知ってるわね? 彼は学部長候補だったのに、C大の新設学部のために一昨年帰ってきたのよ。それに、コロナの影響で、テレワークになって、地元に帰ってきた子も結構いるの。この辺りでは琴美ちゃん。一昨年家族で戻ってきて、町内に家を建てたのよ。旦那さんもこっちの会社に転職して、昨年2人目が生まれたの。風花も、いつまでも東京にいると、帰るタイミングを失うわよ」

 母は押し黙っている私にダメ押しをするように口調を強める。
「ねえ、こっちで結婚するのも、いいんじゃない? お父さんの友人で、奥さんを亡くしたC大学の教授がいるの。お子さんは大学生で、都内で一人暮らししてるんだって。研究者同士、気が合うんじゃない? 一度会ってみない? 気に入らなければ、お父さんや秀哉がいろんな人脈を持ってるから、お願いすればいい。とにかく、あなたの生活の拠点は、ここに置いてほしいの。大学に入るとき、約束したじゃない」

 癇に障る高音に苛立ちが頂点に達してしまう。
「もう、やめて! いま、O大の専任にどうかという話をいただいてるの。それは真剣に考えるから、勝手にお見合いを進めるのだけはやめて!」

 母の顔に、分厚い雲が晴れたような笑みが広がる。
「まあ、そうなの! こんな嬉しいことはないわ!」

 父も目を見開いて膝を乗り出す。
「いい話じゃないか! 長年、O大に貢献してきたことが評価されたんだな。誰から話をもらったんだ?」

「鳴海学長」

「ああ、りゅうくんか。何年か前に、彼の親父さんの開いた集まりで、一緒にゴルフをしたことがある。しっかりしてて、信頼できる男だよ。龍くんの親父さんと私は、中学・高校の同級生なんだ。龍くんからのオファーなら、悪いようにはしないだろう」

 母が、黙っている私に射るような視線を注ぎ、ヒステリックな声で尋ねる。
「まさか、断るんじゃないでしょうねっ?」

「今日いただいたばかりの話だから、少し考えたいの。わかってると思うけど、早とちりして口外するのは絶対やめて。まだ、おじいちゃんにも言わないで。着替えてくる!」

 言い方がきつかったかもしれない。だが、せっかちな母と、空気の読めないところのある父は、兄夫婦や親戚、ご近所にまで、私がO大の教員になると言いふらしかねない。強く釘をさしておくに越したことはない。

 階段を上りながら、両親の声を背中に聞く。
「北原さんの奥さんに、いくら子供が優秀でも、誰も一緒に暮らしてくれないなんて皮肉だねと言われたの覚えてる? 私、ずっと、肩身が狭かったんだから。絶対に風花を説得しないと」

「我々は彼女の意思を尊重しようじゃないか。まあ、帰ってきてくれたら、こんなに嬉しいことはないけどな」

 鳴海学長との交際が始まったことを黙っていたのは大正解だ。言ってしまったら、私の選択肢など、完全になくなってしまう。


※いつも読んでいただき、ありがとうございます。今後の更新は、月曜日に統一したいと思います。
今後とも宜しくお願いいたします。