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風花が舞う頃 29

「わかりました。私はO大で国際関係学部の再生に貢献したいです。宜しくお願いします」
 散らばっていたパズルのピースが定位置にはまるような感覚に導かれ、自然に言葉が出た。

 不意を突かれた顔で私を凝視する龍さん、フロントガラス越しに雄大な姿をさらす妙義山、弁当の油の匂いとかすかに香るムスク、他の車が駐車場に乗り入れる音、奥歯に挟まったきんぴらごぼうの違和感、指先から伝わるペットボトルの熱。脳内が静まり返り、鋭敏になった五感がそれらを感じている。

「風花、本当にいいの?」
 龍さんの声は、かすかに上ずっていた。

「宜しくお願いします。ただ、公募を経た採用にして下さい」

「え?」

「理由は2つ。まず、あなたの恋人だから採用されたと思われたくない。もう1つの理由は、生まれ変わる国際関係学部の人事は、透明性を高めたほうがいいと思うから。情実が絡む人事が学部の停滞をもたらしたのは、わかっているでしょう?」

 龍さんの黒々とした瞳が見開かれ、唇の端から苦笑いが広がっていく。
「風花に一本取られたな。確かに、うちの人事は、それを当然としてきた……」

 龍さんは手に持ったままだったおにぎりを勢いよく口に収め、私に向き直る。
「風花の気持ちが揺らがないうちに、JREC-INに公募を出す!」

 龍さんの全身には、今にも車を発車させ、執務室に飛ばしかねない空気が渦巻いている。そんな彼を見ていると、私は幸せだという感情が強烈に突き上げてくる。唐突に訪れた感情に戸惑いつつも、しばし浸っていたくなる。

                 ★
 汐見研究室では、中古のインクジェットプリンターが、音を立てながら用紙を排出している。汐見先生が、排出トレイに出てきたばかりのカラー刷りポスターを手に取る。

「先生、どうでしょう……?」
 広報係の堀口が頬を強張らせて尋ねる。
「それは日本語バージョンです。先生たちに訳してもらった英語、スペイン語、ポルトガル語、中国語バージョンも同じデザインで作りました。中国語は無料翻訳ソフトで訳して、フー先生に直してもらいました。ヴェトナム語バージョンも作ります」

 汐見先生の肩越しにチラシをのぞくと、明らかに外国人とわかる容貌の人物5人が笑顔を見せ、その背景に赤十字マークの入った病院らしき建物、注射器や包帯などが散らばっている。イラストの上に「外国人のための無料健康診断―O大 ボランティアサークル主催」と太字で書かれ、下に日時と場所、地図が入っている。洗練されたデザインではないが、シンプルで目につきやすい。私が微修正した英語バージョンも印刷してもらったが、情報量を押さえた分、誤解を与える心配はない。

 汐見先生が堀口に尋ねる。
「このイラストは誰かが書いたのか?」

「いえ、著作権のないフリーイラストを使いました。AI画像生成でも作ってみましたが、なかなか理想通りにできなくて。結局それにしました」

「著作権の問題がないならいいだろう。如月先生、他に気づいたことあります?」

「良くできています。1つだけ付け足すとしたら、詳しいことを知りたい方や、運営を手伝いたいと思った方が問い合わせられる連絡先を入れたほうが良いと思います。電話番号か、質問フォームにつながるQRコードなど」

 汐見先生は広報係の3名に尋ねる。
「質問フォームのQRコード入れられるか?」

 古林が即答する。
「ああ、あたしみたいなおばさんは、IT弱いから無理です」
 淵田と堀口も汐見先生と目が合わないよう視線を下向かせる。

「まあ、いい。この研究室の番号を入れておけ。英語、スペイン語、日本語OKだ」

「了解しました。すぐ、修正します。完成したら、市役所とか支所、公民館にメールの添付ファイルで送ります。ブラジル人やポルトガル人が多い地域のスーパーやレストランには、木村さんが掲示をお願いしてくれるそうです。淵田さんが、近所の中国人やヴェトナム人に配ってくれます」

「郵送ではなく、メールにしたか。郵送費が節約できていいな」

 汐見先生に褒められた堀口は、得意そうにタブレットを見せる。
「もう、メールアドレスがわかる役場や公民館を一覧にして、送る文面も考えてあるんです。ポスターができたら、すぐに送ります」

 タブレットをのぞき込んだ淵田が露骨に顔をしかめ、溜息をつく。
「こんな失礼なメール、スルーされても文句言えないよ。まず、担当者の役職と氏名を入れる! 担当者がわからない場合は『ご担当者様』。それから、『突然のご連絡で失礼いたします。私は……』から書き出すの……」

 堀口は頬を赤くし、淵田が次々にダメ出しする内容をメモ帳に書き留める。古林も口を出し始め、堀口は気の毒なほど恐縮してしまう。

 リーダーの真田が感嘆をもらす。
「景織子、かわいそ。でも、淵田さんと古林さんって、すごい。ダテに年くってない。いてくれて良かった」

 汐見先生も、かすかに目を細める。淵田と古林のことは相変わらず嫌いだが、2人が年相応の常識を持ち合わせていることが嬉しくなる。

「あの……」
 会計係の金子が、おずおずと口を開く。
「プリンターとインク、用紙を買ったら、もう3万近く使っちゃいました。予算の残り2万と少しです。施設の使用料とお昼の材料がぎりぎり払えるかです……」

 淵田がたしなめるように言う。
「プリンターもインクも高いの買ったんじゃない? リサイクルショップとかオークションサイトで、いくらでも安く買えるのに」

 金子がボブヘアを揺らして言い返す。
「全部、リサイクルショップで安く買ってきましたっ」

 汐見先生が皆を見回して発言する。
「これから、インクが切れたり、用紙を買い足したりで、もっと金がかかるだろう。どうする? メンバー内で寄付を集める、募金活動をする、サークル協議会に追加予算を請求する、クラウドファンディングを立ち上げるとか、解決手段はいくつもある。君たちで考えなさい」

 木村くんが沈黙を破るように口を開く。
「クラウドファンディングって、返礼品を送らないとダメなんですよね?」

 真田が頭を抱える。
「あたしたちに送れるものって何? 健康診断の様子を写した写真? それって、受診者のプライバシー侵害だし……。そもそも、出資額に見合わなそう」

 金子が意を決したように言葉に力を込める。
「あたしたちが街頭で寄付を集める? それか、募金箱を持って教室を回るとか」

 堀口が皮肉のにじむ口調で応じる。
「それで、どれだけ集まる? 毎日足を棒にして街に立って、喉を涸らして叫んでも、せいぜい数千円じゃない? 下手したら、もっと少ないかも。教室回っても、うちの学生で出してくれそうな人、あまりいなそう」

 皆が頭を抱えていると、関心なさそうにスマホをいじっていた古林が鷹揚な声で話し出す。
「寄付型クラウドファンディングってのがあるみたいです。返礼品いらないし、集まった寄付金をそのまま受け取れるそうです。被災地支援、学術研究、保護ネコ活動とか、公共性のあるプロジェクトで申請できるようです」
 画面を読み進んでいた古林が、あっとつぶやき、眉根に力を入れる。
「学校法人、NPO、公益社団・財団法人とか、法人じゃないと申請できない……」

 真田が確信したように声を上げる。
「あたしたちって、大学サークルですよね。大学が申請すればいいんじゃないですか? 確か、汐見先生が最初に、学長肝入りのプロジェクトって言ってましたよね? 学長にお願いすれば、できませんか?」

「確かにその通りだ。幸い今日は学長が会議で来ている」
 汐見先生は腕時計に目を走らせる。
「会議は17時に終わっているはずだ。学長を引き留めておくから、すぐお願いに行きなさい」

 汐見先生は、学生に考える暇を与えず、受話器を取ってプッシュを始めてしまう。

 真田が狼狽して金子と堀口に尋ねる。
「ちょっと、どうする? 誰が行く?」

「あたし、無理だよ。緊張する」
「あたしが行ったら、断られそう。敬語とか自信ないし」

 真田が思いついたように淵田と古林を振り返る。
「お姉さんたちがいいんじゃない? さっきも、景織子のメール直してくれたし、社会人経験あるし」

 淵田がもごもごとつぶやく。
「まあ、あんたたちが行くよりましだけど、あたしだって自信ないよ」

 古林がぴしゃりと言い放つ。
「私はシャイなの。あたしら社会人学生より、レギュラー学生が行くほうが意義あるんじゃない」

 逃げ腰の2人を見ると、彼女たちを追い詰めたい天邪鬼あまのじゃくのような感情と、年齢を重ねた真価を発揮してほしい期待が胸の裡で交錯する。
「淵田さん、古林さん、行きましょう。私も同行します」

 古林が私の嫌いな「は?」と馬鹿にするような顔を見せる。淵田は、口の周囲に、にやにや笑いを張り付け、古林の肘をつつく。

「2人とも如月先生と一緒に行ってきなさい。その間に、こっちはチラシの修正をしておく」
 汐見先生に厳しい口調で促され、2人は渋々腰を上げる。

「僕、QRコードの入れ方がわかるので、作って入れときます!」
 木村くんの頼もしい声を背中で聞き、私は2人を促して教室を出る。


 学長がいる応接室の前で、2人を振り返る。
「緊張せずに、率直な言葉でお願いして下さい」

 2人は小さく頷く。ここまで来て肝が据わったのか、緊張は感じられるが、逃げ腰の姿勢は見られない。

 ノックし、秘書らしき中年男性に来意を告げると、「ああ、聞いています」とすぐに通される。

 龍さんは執務机から立ち上がり、優雅な物腰でソファを進める。目元に疲労の色が見えるが、全身からあふれるエネルギーがそれを相殺する。2人掛けのソファが向かい合わせに置かれているので、私は少し迷ってから、龍さんの隣に腰を下ろす。

 龍さんは、淵田と古林に視線を注ぎ、くだけた口調で話しかける。
「淵田さんと古林さんですね? 汐見先生と如月先生から話は聞いています」
 硬い愛想笑いを浮かべる2人に、龍さんが尋ねる。
「クラウドファンディングを大学として申請したいと?」

 古林が気負いを隠せない声で話し出す。
「はい。大学から部費として5万円いただいていますが、チラシ印刷用のプリンター、用紙やインク、施設の使用料、昼食の材料費など費用がかさみ、とてもそこには収まりません。どう費用を捻出しようか、頭を悩ませています」

 淵田が早口で言い添える。
「無駄遣いをしているわけではありません。リサイクルショップを使用したり、郵送費を抑えるためにメールの添付を活用しています。それから……」

 説明はさっさと切り上げ、申請のお願いに入ってほしいが、龍さんは2人から目を逸らさずに耳を傾けてくれる。

 古林が、話し続ける淵田を手で制し、龍さんの視線を捉える。
「学長は、このボランティア活動を継続させるご意向と伺いました。それを聞き、大学法人として寄付型クラウドファンディングに申請することをご検討いただけないかお願いに伺った次第です」

 淵田が割って入るように補足する。
「どうか、ご検討いただけないでしょうか。この活動は、出資者に返礼品を送れないので、寄付型にしか申請できません。寄付型に申請できるのは、学校法人などの法人格のある組織のみです」

 2人は張り合うように、交互に発言を続ける。中年女の自己顕示欲を見苦しく思いつつも、遮るわけにいかず、龍さんの様子を窺う。彼と視線が重なってしまい、うんざりしていることを悟られないよう、慌てて視線を逸らす。

 話を聞き終えた龍さんは、小さく頷き、膝の上で軽く組んだ手に目を落とす。古林と淵田は話し過ぎた自己嫌悪を持て余しながら、龍さんの反応を待っている。

 視線を2人に戻した龍さんは、口角を上げ、透明感のある声で語り掛ける。
「お話はわかりました。大学として申請しましょう。申請費はかかりますか?」

 私がタブレットを見せて補足する。
「サイトへの掲載は無料です。かかるのは、集まった支援額に対する手数料のみです」

「なるほど……」
 龍さんはタブレットを受け取り、スクロールしながら、パソコンに向かっている秘書に指示を出す。
「坂上さん、この件は君が汐見先生とやり取りして下さい。経理への申請もお願いします」

 龍さんは淵田と古林に向き直り、「期待していますよ」と朗らかに激励する。

 廊下を行く2人は、高揚感を反映するように歩く速度を上げる。
「久し振りに、会社で仕事をしてた頃を思い出したよ」
「確かに。私は旅行業界だったけど、偉いお客様と接したときの緊張感が蘇った」

「お疲れ様でした。社会人経験が生きていて立派でした。あなた方が参加して下さって、学生たちもいろいろ学べているようです」

 私の労いに、2人は居心地悪そうに顔を見合わせる。しばらくして、淵田が用意していた言葉を取り出すように話し出す。
「如月先生には適わない! あまりにも昔とかけ離れてて、それが悔しかったけど。しゃーないね」

 少しの沈黙の後、古林が話を引き取る。
「如月ちゃん、いや如月先生の昔を知ってるからさ。何で如月ちゃんが大学の先生で、あたしは平凡な田舎主婦になっちゃったのかって悔しかったんさね」

「そうそう。だって、如月ちゃんだよっ……」
 淵田は込み上げてくる笑いを抑えようと口元に片手をあて、古林の肩に手をつく。
「地味で冴えなくて、頭いいけど運動神経が壊滅的で、虐められるために生まれてきたような子だったじゃん。その如月ちゃんが、如月先生になってるのに、何であたしは空っ風に吹かれて畑に出てるんだよ。理不尽じゃん……。その現実がなかなか受け入れられなくて、まあ今でも受け入れてないけど……」

「あなた方、何が言いたいんですか?」
 私が苛立ちをにじませると、古林は仕切り直すように続ける。

「何て言うか、うちら、バチが当たったのかも」
 古林はしばし間を取ってから、慮るような口調で言い継ぐ。
「フルチンもさ、あたしたちと同じで、如月ちゃんが出世したのが悔しいんだと思う。あれだけ如月ちゃんを虐めてきたから、どう接していいのかわからないんだよ。そういう気持ちが、トラックで迎えに来たときの攻撃的な態度に出たんだと思う」

「かもね。私たちだって、笑うしかなかったし……」

「うん。そんなあたしらにも、如月ちゃんは大人の対応してくれるじゃん?」

「仕事ですから」

 言い放った私に、淵田がぶっきらぼうに言い放つ。
「それができるのがすごいってこと。さすがのプロ意識。私なら、あれだけ醜いことされたら、復讐するよ」

「だよね。あたしが如月ちゃんなら、単位落としてやるよ」

 褒められているのか、けなされているのかわからない会話が不愉快で、冷淡に言い放つ。
「皆が待っているので、先に行きます」

「如月ちゃ~ん、フルチンにハイエース出してくれるよう頼んだら、オッケー出たよ」
 追いかけてきた古林の声に、胸に巣食っていたどす黒い塊が浄化されるように溶けていく。鼻がつんとし、窓の外に目を遣ると、闇に沈む山影が霞んで見えた。