ピアノを拭く人 第1章 (1)
雨は小降りになっているが、風は強まっている。ようやく顔を出した三日月の上を、風に流された雲が飛ぶように滑る。雲間にのぞく月光は、川や木々を照らすには弱々しすぎる。
いっそ、どしゃぶりになればいい。
彩子は胸のなかで毒づいた。
雨に濡れながら、灯りの消えた道を大股で進む。明日は出勤時間が早い。家に帰るべきだとわかっている。だが、日常に戻れば、さっきまでのことが重くのしかかり、耐えきれなくなる。雨の冷たさも、ピンヒールで歩く痛みも感じる余裕を持たず、彩子はがむしゃらに歩き続ける。
車が勢いよく水しぶきを飛ばし、プリーツスカートとバッグを濡らす。
彩子は思わず足を止め、走り去る車をにらみつけた。冷たさに顔をしかめ、スマートフォンが濡れなかったかと、バッグのサイドポケットを探る。
いつも、そこに入れているスマホに触れない。
空虚な指先の感触が、彩子を現実へ引き戻す。
歩道の真ん中に突っ立ったまま、バッグを探っても、スカートのポケットを叩いても、硬いものには触れない。
あの店のテーブルの上に置いてきたのだ。
溜息をついて踵を返し、来た道をとぼとぼと引き返す。頭が冷えると、雨の冷たさが身にしみ、9センチのピンヒールで歩くこともこたえる。
今思えば、大和があの店を選んだのは、別れ話に都合が良かったからだ。歌とピアノが絶え間なく流れ、重苦しい話をしていても周囲に聞き耳をたてられる心配はなかった。
大和は、いつになく無口だった。マスクを下げてグラスの赤ワインに少し口を付けたが、すぐにマスクを付け直した。
彩子は、ちょうど始まった生演奏の歌とピアノに、目を丸くした。
「オン・マイ・オウン! すっごい偶然。私がエポニーヌで、大和がマリウスだったよね」
そこそこ声量があり、伸びやかな歌声に耳を傾けると、スポットライトを浴びて歌った幸せな記憶が鮮やかによみがえった。
子供の頃からミュージカルが好きだった。入学した都内の大学にミュージカルのサークルがなかったので、他大学のミュージカルサークルに入った。大学祭で『レ・ミゼラブル』を上演したとき、先輩の大和が理想に満ちた青年マリウスを演じ、彩子はマリウスに思いを寄せながらも、彼のために恋の橋渡しをする健気なエポニーヌを演じた。エポニーヌは、最後は報われない思いを抱えたまま、銃弾に撃たれ、彼の腕のなかで息絶える。「オン・マイ・オウン」は、エポニーヌが、マリウスへの叶わぬ思いを歌いあげる見せ場だ。
「私、あのときから、大和にあこがれてたから、かなり気持ち入れて歌ったよ。去年の同窓会で再会できて、付き合えて、ほんっと夢みたい……」
同窓会の夜、意気投合した大和とホテルで一夜を過ごした。偶然にも故郷が同じだったので、大和が月1で地元に帰って彩子と会うようになった。
音楽に集中していた彩子は、歌手の声量が落ち、心なしかテンポも落ちているのに気づいた。自分も歌ったことがあるからわかった。ここは、勢いをつけ、声量を上げて高らかに歌いあげる見せ場だ。
マスクをかけてピアノを弾く細身の男性は、歌手に寄り添うように音とテンポを落とし、彼女のブレスを注意深く観察しながら奏でていた。彼の機転で、下がった声量は目立たなくなった。緩やかなテンポが切なさを際立たせ、歌は先ほどより情感豊かに響き渡った。彩子は良い演奏を聴けたと、心からの拍手を送った。
「彩子、すまないけど……、別れてほしいんだ」
大和が口を開いたのは、拍手が起こったときだった。
「え、どういうこと……」
聞き間違いであることを願い、彼の一重瞼の目を見ると、見たことのない冷淡さが宿っていた。
全身からすっと血の気が引き、手先と爪先が冷たくなるのがわかった。店内の音も、赤ワインの芳醇な香りも遠ざかっていった。
「何で、急に? きちんと説明してくれなくちゃわからない」
大和は、当然だと言わんばかりに肯き、彩子の目を見てよどみなく言った。
「弁護士仲間と新しい事務所を立ち上げるから、目が回るほど忙しくなるんだ。月に1度こっちに帰るのは難しくなる」
「それなら、会う回数を減らして構わないし、私が東京に行くようにする。職場にお願いすれば、春から東京本社に移れるかもしれない。無理なら、転職してもいい!」
声を荒らげた彩子を前に、大和は居心地悪そうに周囲を見回した。理詰めの議論を好む大和が、感情的な女を嫌悪するのはわかっていたが止められなかった。
「私、今以上に大和を支えるよ。美味しいごはんつくるし、マッサージもするし、話も聞く。これから、忙しくなるんでしょ。私が癒しだって、私がいるから頑張れるって言ってたじゃん」
「彩子には本当に感謝してる。勝手だけれど、もっと彩子を大切にしてくれる男に出会って幸せになってほしい」
「私に何か悪いところがあれば直すよ。だから、遠慮なく言って」
懇願しながらも、妙に冷静な自分もいた。恋愛経験は多いほうではないが、32にもなれば学んでいる。ここで情けを引き出し、関係を続けても、自分をすり減らす日々が始まるだけだ。
「彩子は何も悪くない。俺が求めるものが変わっただけだから」
しおらしく引き下がれば、聞きわけのよい女として彼の記憶に残るかもしれない。だが、未練に苦しまないように、やり直せる可能性をすべて絶っておきたい衝動が突き上げてきた。
「よくLineしてる仕事関係の女性? 私と真剣に付き合ってたなら、せめて本当のことを話して。納得するまで帰らないから」
修羅場になるとわかっていたが、何度か言い争いになったネタを敢えて蒸し返した。
「そうだよ」
あっさりと認めた大和を前に、彩子は初端から戦闘意欲を奪われた。
大和は、開き直ったように淡々と語った。
「彼女は弁護士だ。弁護士一家の出身で、経営ノウハウも学んでる。一緒に事務所を立ち上げることにした。今の俺には公私ともにパートナーになれる女性が必要なんだ」
「いつから、付き合ってるの……?」
「最後まで嘘をつくのは失礼だから白状する。彩子が最初にLineの相手を問い詰めた頃かな」
あれは大和との交際が始まって、2か月も経っていない頃だった。
ショックで色を失う彩子を見て、さすがに罪悪感を覚えたのか、大和は取り繕うように続けた。
「俺も33だし、将来を考えて、かなり悩んだんだ……。本当にごめんな。せめて、家まで送らせて」
彩子は、立たせようとする大和の腕を強く振り払った。
大和はしばらく、項垂れる彩子を持て余すように見ていたが、「今までありがとう」と優しく声をかけ、伝票に手を伸ばした。
彩子は千円札をテーブルにたたきつけ、店を飛び出した。