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連載小説「クラリセージの調べ」4-10

 帰ると言い張る私を心配し、すずくんがケーキショップに併設するカフェに連れてきてくれた。

 高級チョコレートを惜しみなく使ったパフェを前にしても、食欲など湧かない。いつもは心華やぐモーツァルトのBGMさえ鬱陶しい。風は相変わらず強く、ガラス張りの店内から見える人々はコートの襟を立てている。

 すずくんは、大きくカットされたザッハトルテに生クリームをたっぷりつけ、少年のような顔でぱくついている。洗練されたスーツとパフェを頬張る顔がアンバランスで可愛らしい。最後に残ったクリームをスプーンでかき集め、ぺろりと舐めると、私のパフェに目を止め、すっと手を伸ばしてくる。

「食べれないなら、それ」

「食べるよ」

 むきになってスプーンを取る私に、すずくんは安堵したように目を細める。

 瑠璃子がパフェの上に乗っていた板チョコをかじりながら尋ねる。
「すず、何でこんな可愛いお店知ってるの?」

「え、言わなきゃだめ、それ?」
 すずくんは動揺と不満をないまぜにしたような顔で、いたずらっぽく笑う。

 どこかで聞いた会話だと思い、思わず口元が緩む。
「すずくんも『最愛』見てたんだ」

「偶然思い出した。加瀬さんは俺の好みだから、やってみたかった」
 すずくんの恥じらいのにじむ無邪気な顔に、母性本能をくすぐられる。

「そうなの?」

「ごめん、調子に乗って」

 ファミレスの会話を揶揄されたようで少しむっとしたものの、彼なりに元気づけてくれたのだと腹に飲み込む。

「わかるよ。加瀬さんは、理想のお兄さん像をこれでもかと詰め込んだキャラだし」

「何なの? 意味わかんない」
 瑠璃子が高い鼻梁の上にしわをつくり、アイスコーヒーをストローでからからとかき混ぜる。

「何でここ知ってるかっていう話だけど、俺は高級チョコに目がない。ここのザッハトルテは、高品質のチョコを使ってて旨いからよく買いに来る。実家でも、大切なお客様には必ずこれを出してたな……」

「まーた、実家の話」
 瑠璃子の険のある口調に、すずくんが気まずそうにエスプレッソを口に運ぶ。


 上品なほろ苦さのチョコソースとまろやかなクリームの相乗効果に、少しずつ話す気力が回復してくる。
「二人とも、今日はありがとう。変なことに巻き込んじゃって本当にごめん」

「大丈夫? あのまま帰すのは心配だったから……」
 すずくんがカップを置き、私を覗き込むように窺う。

「さっき、因果応報と言ってたけど、どういうこと?」

 問いかける瑠璃子に、頭の中の整理を兼ねて答える。
「さっき、私の結婚生活は、裕美さんの支えがあって成り立ってきたと気づかされた。夫は、私が義母や義姉と面倒なことになったとき、いつも私の側に立ってくれた。不妊治療にも詳しくて理解があった。そういうのが彼を信頼する根幹になってたけど、裕美さんのアドバイスが裏にあったと思うとね……」

「それが何で因果応報?」

「私、東京にいるとき、不倫してたの。その方の奥様は彼よりかなり年上で、長く精神を病んでた。私は、彼が絶対に奥様を捨てない人だと最初からわかっていた。そんな人だからこそ愛してた。だから、私は心身ともに疲れている彼が、私のもとで家庭を支える力を充電して、家庭に帰ってくれれば十分だった。彼は、私との逢瀬で心のバランスを取っていたんだろうな。
 奥様は私のことを知らなかったと思う。けど、自分が奥様と似たような立場になって、何て失礼なことをしていたのかと今頃気づいた。第三者に支えられて結婚生活が成り立っていたと気づくと、こんなに惨めで虚しくなるんだね……」

「夫婦が大変なときに、第三者に支えられて結婚生活が維持されることはあってもいいと思う。俺は医者だから、そういう状況も見てきた。少なくとも、すーちゃんはそのとき、彼の家庭を陰で支えていたんだから罪悪感を持ち続けなくていいんじゃない」

「だから、いま裕美さんに支えてもらえてるのか。まさしく因果応報」

「ごめん……」
 すずくんが気まずそうに首を竦める。
 
「いいよ、ありがと。私がこんなだから、正面から夫を責められない」

 すずくんは私を正面から見据え、聞けと目力で促す。
「それは違う。すーちゃんが過去に不倫をしていたことと、今のご主人との関係は別物だろ。すーちゃんが今、ご主人とどういう関係を築きたいかを話し合うべきだと俺は思う。どうしたいの?」

 ためらう私を彼は辛抱強く待ってくれる。

「裕美さんに頼らないで、私と向き合ってほしい。二人で前を向いて、これからの関係を築きたい」

「それでいいんだよ」
 すずくんは穏やかに目を細め、力強く頷く。それは、見たことのない老成した眼差しで、医師として患者さんと接するなかで身につけたものかと思った。

「結翔と別れるつもりないの?」
 瑠璃子がかすかに侮蔑を含んだ口調で尋ねる。

「まずは、きちんと話し合ってみるよ」

「裕美とは絶対切れさせたほうがいい。未練たらしく会い続けるのはタチが悪いよ。恋愛感情がないわけないんだから」

「そうしてもらうよ。それより、瑠璃子は葉瑠ちゃんと仲直りできたの?」

「冷戦状態だったけど、両親と四人で東京の姉の家に行ったとき、ようやく話せるようになった」

「姉って、真璃子まりこさん?」

「そうだけど」

「兄貴と一時期付き合ってたから、よくうちに遊びに来てたな。岩崎と違って、しとやかで優しくて綺麗だった。ノンケに戻るかと思った」

「あんたも紳一さんとは比べ物にならない!」
 瑠璃子は、グラスの底に残っていたクリームを乱暴にすくい、口に運んでから続ける。
「葉瑠と、インターナショナルスクール行ってる甥姪は前から仲良し。彼らと遊んでいるうちに機嫌直ったみたい。近所に住んでるインド人の同級生も来てて、習ってる英語が通じたのも気分を良くしたと思う。帰りの新幹線で、叔父さんと叔母さんの家の子になりたいと言われちゃったけどね」

「良かった。ひとまず平和が戻ったね」

「例のドクターに、プロポーズの返事したのか?」

 瑠璃子は小さく頷く。
「葉瑠のことが理由だとわかったら、納得してくれた。そのとき、互いの結婚観、子供を何人欲しいかとか、初めて本音で話し合えた気がする。そしたら、結構すれ違うところが出てきて……、納得して終わりにできたのがせめてもの救い」

 既に気持ちの整理がついているのか、瑠璃子の表情は凪いでいる。
「そっか、辛かったね……。花房クリニック、辞めてしまうの?」

「彼は辞めることはないと言ってくれたけど、さすがにお互いしんどい。だから、できるだけ早く次を見つけて辞める」

「夜勤のない開業医のナースにするのか?」

「そうだね。身体が動くうちに、がんがん夜勤入れて稼ぎたい気持ちもあるけど、葉瑠の世話をする両親の負担が大きすぎるから……」

「それなら、俺がいるとこに来れば? 週一回、ワイルド系のイケメンドクターが内視鏡しに来るからチャンスだぜ。35歳独身」

「もう、こっちの人はいいよ……。それより、すずはどうするの? いまのクリニックに勤め続けるの?」

「当面はな。前の医師会の飲み会の後、兄貴をつかまえて話したけど、あの病院に俺が戻る場所はないとわかった。兄貴と義姉の人脈で、T大のドクターを派遣してもらう体制がとっくにできてた。俺のために買ってもらった泌尿器関連の新しい機器も、兄貴の先輩の泌尿器ドクターが使いこなしてる……」

「当然だよ。すずが一年もうじうじして、お父さんとぶつからないから。戻りたいなら、さっさと直談判すればよかったんだよ」

「どっかで期待してたんだけどな……」
 虚空を見つめ、独り言のようにつぶやく姿を見ると、地元に根を張ろうと奔走していた彼が気の毒になる。

「すずくんは、これからどうしたいと思ってるの?」

「やっぱり、俺は泌尿器専門医として性別適合手術に関わりたい。O大に戻るのは難しそうだから、それができる病院を探そうと思ってる」

 二人は動き出している。遠くから聞こえる春雷にも煽られ、夫と話し合う力をもらった気がした。


                  ★
 二人と話した高揚感を残したまま、夫の車の隣に駐車する。逢魔時おうまがときの空を背に立つ母屋と離れが伏魔殿に見え、小さく身震いした。藍色の空を切り裂いて稲妻が走り、春雷が轟く。

 鍵を開けると、玄関に夫が出てきた。
「澪、帰ってきてくれてよかった!」

「ただいま」

 スプリングコートを脱ぎ、キッチンで手を洗う私の背後で、夫は所在なさそうに佇んでいる。黒豆茶を淹れながら見る夫は、枯れ落ちそうなほど覇気がなく、柚子が弾けるように爽やかな男とは別人に映る。こんなとき、すずくんのように気転の効く男性は、妻を納得させる弁解をし、あの手この手で機嫌をとり、和解にこぎつけるかもしれない。

 お茶を注ぎながら、この頼りなく、不器用な男が、本来の彼かもしれないと思った。そのことは、かすかな失望と共に、憐憫に似た愛情を運んでくる。私はまだ、この男を、この男との慣れ親しんだ生活を愛していると気づき、なぜか安らぎを覚える。

「結翔くん、夕食の前に少し話そうか」

 夫の不安と動揺を浮かべた目に、許されると期待するかのような光が走る。

 黒豆茶を置き、ソファに並んで座ると、この一年で親しんだ夫婦の空気が立ち上がる。私はそれを彼と「二人だけ」で築き直したい。

 背筋を伸ばし、頭を上げると、飾り気のない本音が水のように流れ出す。
「結翔くん、私は何かあったら結翔くんと二人で話し合って、どうするかを一緒に決めたい。元彼女の支えなしに、二人で考えたい。それができる夫婦になりたい。だから、もう元彼女と会うのも連絡を取るのもやめてほしい」

 私がはっきりと気持ちを口にしたことで、夫の瞳に驚嘆と怯えが交錯したような色が浮かぶ。それを見て、彼はファミレスで聞かされた言い訳を繰り返したかったのかもしれないと気づいた。機先を制してしまったことに、多少の罪悪感を覚えたが、主導権を取った高揚感がそれを上回る。

 膝に手を乗せ、視線を落としている夫に、ダメ押しのように問いかける。
「不妊治療のことも、もう彼女に相談しないで。これは、私たち夫婦の問題でしょう?」

「わかった……。本当にすまなかった」
 夫は立ち上がり、出会ったときのように、体を九十度に曲げて頭を下げる。

 座り直した夫は、探るような視線で尋ねる。
「彼女とのこと……、聞いたのか?」

「うん。私が無理に聞き出したことだから、瑠璃子を責めないで」

「黙っていて本当にすまなかった」

「何も言わなくていいよ。私たちが見るのは、一緒に築く未来でしょう?」

 夫は、私のあっさりとした反応に戸惑いを見せたが、やがて心を決めたように大きく頷く。安堵と不可解さが浮かぶ彼の瞳に、穏やかに微笑む自分が映る。 

 もしも、夫を盲目的に愛していたら、これほど理解ある妻でいられないだろう。そのことに罪悪感がないわけではない。だが、人生を共に歩むパートナーとして失いたくない愛情も確かに存在し、それを否定したくないと思った。