ピアノを拭く人 第1章 (8)
抜けるような青空が、週末を迎えた人々を祝福しているようだった。
彩子は車の両窓を下げた。ほどほどに冷たい風が車内を吹き抜けていく。遠くに見える山並みが、ほのかに赤く染まっているのがわかる。これから、日ごとに色づいていくだろう。頭上に浮かぶ雲は、地球の動きとともに、緩やかに流れていく。
彩子は五感を動員し、自然の変化を堪能した。いつまでも変わらないものはないのだ。大和に振られた傷は、完全にふさがっていないが、あの夜と同じ強さで痛むことはもうない。今振り返れば、トオルの伴奏で歌ったことで、随分楽になった気がする。
時の流れとともに、意識を集中する対象が移り変わるなかで、記憶は濃度とかたちを変えていく。トオルを悩ませる「気になること」も、同じように変化していくのだろうか。
彩子は、そうあってほしいと願いながら、実家に車を走らせる。大和のことを詮索されるのが煩わしく、避けてきたが、大事な話があると言われ、重い腰を上げざるをえなかった。
「久しぶりね」
食卓についた彩子に、母が3人分のご飯をよそいながら言った。
「うん。いろいろばたばたしちゃって。なかなか来られなくてごめんね」
「今年は金木犀がよく香ったのよ……。もう散っちゃったけど」
母の口調に、足が遠のいていた娘への不満がかすかにのぞいた。
視線を落とすと、簾の隙間からもれる秋の陽が、畳にちらちらと揺れている。
彩子は、いただきますと手を合わせ、茄子がたっぷり入った味噌汁をすする。
食卓には母の手料理が所狭しと並んでいる。豚肉の生姜焼きにつけ合わせのミニトマトとブロッコリー、ひじきの煮つけ、切り干し大根、きんぴらごぼう。野菜たっぷりのメニューは素直に嬉しい。
彩子は、いつもは実家に来ると旺盛な食欲を発揮する。だが、いつ大和のことを聞かれるかと思うと、全身が臨戦態勢になり、なかなか箸が進まない。
「彩子、このごぼう、お父さんが裏の畑でつくったんだぞ」
父がきんぴらに入ったごぼうを指さす。
「美味しいよ。というか、ごぼう作るの初めてじゃない?」
「ああ、だから2本しかまともに育たなかった……」
「お父さん、彩子に食べさせるって、大事にとっておいたのよ」
「ありがと、売ってるのと変わらないくらい美味しいよ」
父は満足そうに頷き、母におかわりの茶碗を差し出した。
彩子は機械のように箸を動かし、ごはんと味噌汁を完食したが、久々のおふくろの味を楽しんだとは言えなかった。
母を手伝って食卓を片付けながら、棚の上に、見慣れない写真立てがあるのに気づいた。兄夫婦と甥の葵が、金木犀の下で満ち足りた笑顔を見せている。
「お兄ちゃん、来たんだ」
「ちょっと前にな。真由美さん、仕事に復帰したらしいぞ」
「そうなんだ。葵くんは保育園か」
「やっぱり、資格があるのは強いわね」
母が巨峰の乗った皿を食卓に並べながら、誇らしそうに言った。
彩子の両親も兄も薬剤師で、母は扶養の範囲で働いている。兄嫁の真由美は看護師だ。職探しに困らない資格を持つ一家のなかで、彩子が居心地の悪さを感じることは少なくない。
できるだけ早く帰ろうと、彩子は大粒の巨峰をほおばるペースを上げる。
母が麦茶のグラスを並べ、食卓に座ると、父はテレビを消して麦茶を一口飲んだ。母が父の肘を意味ありげにつつくと、父は頷いて切り出した。
「なあ、最近、大和くんとはどうなんだ?」
父の声は不自然に快活だった。
身構えてはいたものの、体がかっと熱を帯び、心臓のポンプが全力で血液を全身に送り始める。
「ああ、もう終わったの」
彩子はぶっきらぼうに答え、それ以上の詮索を受け付けない空気を全身にまとい、巨峰の皮をむき続ける。
両親は気を落とし、黒沢さんのように復縁を促すだろう。集中砲火を避けるために、1秒でも早く撤退しようと、紫色に染まった指先をティッシュで手早く拭った。
「そう、残念だったわね」
「まあ、仕方ないな」
意外にも、両親は落胆の色を見せず、彩子は拍子抜けした。
「少し急な話かもしれないけどな……」
父が、巨峰の汁を拭ったティッシュペーパーを食卓に置き、彩子を見据えた。
「お寺の後継ぎの真一くん、知ってるだろ?」
怪訝そうな顔をする彩子に、母がオクターブ高い声で言った。
「住職さんが、あなたと真一くん、1度デートしてみないかって」
「は?」
「この前、法事の会食のとき、真一くんもいたでしょ? あのとき、彼も住職さんも、あなたのこと気に入ったみたい」
「いい話だよ。これ以上、いい話はないよ。真一くんは、東大の大学院出身で、留学もしてて、今は県の職員だ。ゆくゆくは住職だし、親父さんの後を継いで選挙にも出るだろう。申し分のない未来が待ってるぞ」
「そうよ、それにあの通りのイケメンよ。大和くんなんかより、ずっと上じゃない」
「ごめん、ついていけないんだけど。今どき、お見合いなんてありえなくない?」
「真平くんは世話好きだから、これまでに何組も取り持っているぞ。彩子と真一くんが結婚したら、俺と真平くんは親戚だ。落語仲間と親戚になれるなんて夢みたいだな」
父と住職は、高校の落研仲間だ。いまでも法事の会食で一緒になると、酔って呂律の回らない口で一席披露し、周囲を辟易させる。彩子はいよいよ気が滅入ってきた。
「お寺の奥さんになったら、仕事を辞めないとでしょ。まだ、続けたいから」
「真平くんがくたばるまで、真一くんは自由だ。彼は県の職員を続けて、彩子もいまの仕事を続けられる。何も、今すぐってわけじゃない」
母が腕組みをし、諭すように言った。
「それほど続ける価値のある仕事なの? 試験監督なんて、バイトでもできるじゃない。実際、リーダーも副リーダーも、監督員もみんなバイトでしょ。その管理だって、特別な技能が求められるわけじゃないでしょう」
「そんな言い方しないでよ!!」
彩子は気色ばんだ。 母は彩子が地元に戻ってから、彩子の仕事を知りたいと、登録スタッフになり、何度か試験の仕事をしている。母の言うことは完全に否定できないが、10年以上真摯に取り組んできた仕事を侮辱され、怒りが柱のように全身を貫いた。母の歯に衣着せぬ物言いが、これまでに何度喧嘩の原因になったかわからない。
おろおろした父が母の肘をつつくが、母はさらに言い継ぐ。
「ねえ、冷静になりなさいよ。特別な仕事をしていない女性は、収まるところに収まるのが幸せなのはわかるでしょ。もう30過ぎたんだし、いつまでもお高くとまってたら、惨めな思いするわよ。そんな思いをさせたくないから、嫌なこと言うのよ」
母の目が赤らみ、唇がかすかに震えているのに気づいた。彼女も覚悟をもって言っているのがわかる。だが、いまの自分は、母に従順に従うことなど到底無理だ。これ以上、ここにいると醜い言い争いになるのは必至だった。
「ごめん、今日は帰ります」
ざわざわする気持ちを抱え、国道を飛ばす。
大和が弁護士の女性を選んだことと、母の言葉が共鳴し合うように結びつき、胸を抉る。能力にも容姿にも秀でたところのない自分は、気力でそれを跳ね返すには無力すぎる。
このまま帰宅しても、気持ちを立て直せそうにない。何か没頭できるものに身を委ねたかった。
彩子の車は、フェルセンに向かっていた。