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風花が舞う頃 1
ブラインドを上げると、麗らかな春の陽が研究室に差し込む。散り残った桜が、風にあおられ、昭和初期に建てられた重厚な建物群を彩るように舞う。キャンパス地図の前には、教室の場所を確認する新入生がたむろしている。ベンチに掛けてシラバスを広げる女子学生の手元に、薄紅色の花びらがはらりと舞い落ち、引き結ばれていた唇がかすかに緩む。円らな瞳には、これから始まる大学生活への期待と不安が揺れている。
子供の頃の私は、人見知りで、人付き合いが苦手だった。そんな私にとって、桜吹雪の舞う新学期は、心身共に消耗する季節でしかなかった。准教授として勤務する現在は、新入生との年齢差が年々開いていくことに溜息が出る。だが、それが大学教員として歩んできた時間と重なると思うと、ひそかな自信に変わる。専任講師として着任した30歳の春を思い出し、桜色の空気を吸い込むと、背筋がすっと伸びていく。あれから、飛ぶように10年が過ぎた。
窓際を離れ、桜フレバ―の紅茶を淹れ、朝のメールチェックにかかる。執務机の両側には、背の高い本棚が並ぶ。ぎっしりと詰まった文献は、研究や講義準備のために使用したものが大半だ。あちこちに蛍光ペンでラインが引かれ、色とりどりの付箋がついている。本棚に囲まれると、圧迫感があるとぼやくゼミ生もいるが、私には歩んできた軌跡に映り、見上げると充実感がみなぎってくる。
まずは、面談の予約を求める学生のメールに、手早く返信する。それを終えると、学会関連のメールを開く。昨年から、学会誌の編集委員を務めているので、応募されてくる論文の査読者2名を選定し、査読を依頼している。査読を通過し、学会誌に掲載されるか否かは、会員の業績を左右する。特に若い大学院生は、学会誌に論文が掲載されないと、博士論文を出す資格が得られないことがあり、査読者の選定は、とりわけ慎重になる。届いた査読結果を確認したとき、教務課からのメールが滑りこんでくる。オープンキャンパスで実施する模擬講義のタイトルを問われる。メールを睨みながら、しばし頭を悩ませ、ひねり出したタイトルを送信する。紅茶の芳香を吸い込みながら、近日中に講義内容もつめなければと、手帳のやることリストに記入しておく。
大学に入学したての頃、大学教員は講義だけしていればいいと思っていた。あの頃、大学の先生に誘われる世界は魅力的で、自分の前に果てしない可能性が広がる予感がした。いつか大学の教壇に立ち、学生を学問に誘いたいと思ったのが私の原点だ。
実際のところ、大学教員は教育、研究、学務の3つをこなさなくてはならない。教師、研究者、事務員を兼任するようなものだ。長期休みでも、各種入試や集中講義、海外出張、研究など、やることは山ほどある。大変ではないと言えば嘘になる。だが、私はこの仕事が好きで、日々やりがいを感じている。学生時代から不器用で、レジ打ちやウェイトレスのアルバイトをしても、怒鳴られてばかりだった。そんな私が、この仕事だけは、それなりにこなせているので、きっと天職なのだろう。
所属する環境によっては、研究は二の次で、教育と学務が中心になることもある。研究が奨励される環境だと、教育と学務がおざなりになることもある。私の勤務する私立H大学は、都内にキャンパスを構え、偏差値は上の下あたりで、教育も研究もそこそこ高いレベルが求められる。事務局にはベテラン職員が揃い、教員の負担を減らしてくれる。バランスの取れた環境にいるおかげで、継続的に研究成果が出せている。
メールに対応しているうち、1限の終了時刻が迫ってくる。2限には、新入生20人ほどに、文献の探し方、レポートの書き方、書評の方法、論理的思考、ディベートの進め方など、大学で学ぶために必要なスキルを習得させる必修講義が入っている。
マスクを掛けて研究室を出ると、同じタイミングで出てきた学部長の篠田教授が、マスク越しに声を掛けてくる。
「如月先生、久しぶり。学期が始まると慌ただしいね」
「本当にバタバタですよ。篠田先生、フランスに行っていたと伺いましたが」
フランス政治が専門の篠田先生は、薄くなった白髪をなでつけながら答える。
「そうなんだよ。コロナが明けて、初めての海外だからびくびくしてたけど、無事に帰還。しかし、年を取ると時差がきついね」
「わかります。若い時より、戻すのに時間かかりますよね」
「如月先生は、アメリカ行かないの? 来年は大統領選でしょう?」
「行きたいのは山々ですが、学会業務が立て込んでいるんです。それに、西海岸は、コロナの影響でアジア系に対する憎悪犯罪がひどいので、延ばし延ばしにしてしまって……」
「ああ、アジア系は大変な目に遭ってるもんね。ヨーロッパも状況は同じだよ」
「やはり、そうですか。後で、フランスの状況を聞かせてください」
「話したいことは山ほどあるよ。また、メシでもご一緒しよう」
篠田先生は、採用時に私の博士論文を高く評価し、同僚として迎えたいと推してくれた恩人だ。彼の後ろ姿を見送りながら思う。私は同僚に恵まれている。政治学科の専任教員は、年齢や地位に関わらず、互いに専門家として尊重しあっている。とはいえ、大学教員になるのは、こだわりが強い人が多い。学問的な議論を戦わせたり、学務で意見が対立することは日常茶飯事だ。それでも、決して人格攻撃まで発展しない。その意味で、とても居心地が良い。
渡り廊下に差し掛かると、中庭で、サークル名を書いた看板を掲げたり、ユニホームを着た上級生が、新入生に声を掛け、チラシを配っているのが目に入る。今年3月にマスク着用義務が解除されたので、素顔の学生も目に付く。
渡り廊下を過ぎると、掲示板に所狭しと貼り付けられたサークル勧誘のポスターが目立つ。学生が、サークルで生涯の友人やパートナーと出会う可能性を想像すると、口角が緩む。
こぢんまりとした教室に入ると、高校生っぽさが抜けない新入生の視線が一瞬だけ集まる。窓際の机に腰かけて談笑する3人の男子は、付属高校からの持ち上がり組に見える。後ろの席に横並びで座りながらも、会話が続かない気まずさを持て余している女子2人は、知り合ったばかりだろう。
「時間になったので、始めます。着席してください!」
談笑する学生の輪をちらちら見ながら、時間を持て余していた男子学生が安堵の表情を見せる。
「はじめまして。D組セミナー担当の如月風花と申します。専門はアメリカ政治です。他に、政治学入門、アメリカ政治、アメリカ政治外交史、外書講読Ⅰ・Ⅱ、アメリカ政治外交論ゼミⅠ・Ⅱ を担当しています」
学生の知的好奇心にあふれた目が私に集まる。私が教壇の上を歩くと、視線が吸い付くようについてくる。初めて教壇に立った頃は、その視線が怖かった。だが、今では学生を引き付けている充実感がある。この瞳を曇らせてはならないと思うと、自然と言葉に力が入る。
オリエンテーションなので、シラバスを開いてもらい、講義概要、単位取得要件、教科書、参考文献、講義を受ける際の注意事項等を説明する。
必要事項を説明し終えると、まだ50分も時間が余っている。初回は、ここで切り上げる教員もいるが、私は残り時間も有効に使う。学生は、しばらくこのメンバーでセミナーや語学の講義を受ける。今のうちに、空気をやわらかくしておくのも悪くない。
「残りの時間で、簡単なアクティビティーをしましょう。教科書の45ページを開いて下さい」
この科目の教科書は、H大の文系教員たちが侃侃諤諤の議論を重ねて生み出した一冊で、私も執筆を分担している。数年毎に改訂を重ねながら、完成度を高めてきた。学生の反応は改訂の材料になってくれる。
真新しい教科書を繰る音のなか、私は教壇から下り、机のあいだの通路を歩きながら話を続ける。
「皆さん御存知のように、日本には死刑制度があります。45ページには、死刑制度の賛成派/反対派、それぞれの意見がまとめられています。後ほど皆さんに、ディベートに取り組んでいただく際の教材です。まずは、一通り読んでみて下さい」
私は教室内をゆっくりと歩きながら、学生が黙読する様子を観察する。厳しい受験戦争を突破してきた学生が多いので、内容を吟味しながら読み終えるのにそう時間がかからない。大半の学生が読み終えたのを見計らい、教壇に戻る。
「では、今から用紙を配ります。それに、以下の2つを記入してください。1つ目は、自分は賛成か反対か。2つ目は、その理由です。最後に提出してもらうので、氏名と学籍番号を忘れずに記入して下さい。何か質問はありますか?」
眼鏡をかけた三白眼の男子学生が手を挙げる。
「理由は、教科書に載ってないものでもいいですか? それと、理由を複数書いてもいいですか?」
「もちろんです。自分の意見を記入するのも、理由を複数挙げていただくのも問題ありません」
筆記具が走る音を背に、私はホワイトボードに、①賛成か反対か、➁その理由と記入する。その間に、書き終えた学生は筆記具を置いている。
「書きながらで構いません。賛成の方は挙手してください。はい、ありがとうございます。では、反対の方……。わかりました、ありがとう」
賛成派と反対派がぴったり10人づつであることを確認すると、心の中でガッツポーズをする。
「では、皆さん、起立してください」
学生は、不可解な眼差しを私に向けたり、周囲と顔を見合わせたりしながら、おずおずと立ち上がる。
「まず、皆さんと反対の意見の人を見つけて、ペアになって下さい。賛成派の方は反対派。反対派の方は賛成派の方と組んで下さい」
次の指示をホワイトボードに書きながら出す。
「次に、ペアになった方の①氏名、➁賛成/反対、③その理由を聞き、今の用紙に書き取って下さい。この3つを書き取れたら着席して下さい」
余ってしまう学生がいたら、私が加わろうと思っていたが、ぴったり10人ずつになり、その必要はない。私は教壇を下り、10組のペアを巡回しながら観察する。
ペアになった学生たちは、互いに名乗りあい、意見を聞きあっている。話が弾んで笑顔がこぼれるペアもあり、教室がざわめき始める。書き取りが終わっても、雑談を続けるペアもある。時間の経過とともに、教室の空気が温まっていくのを肌で感じる。
着席した学生の顔は、以前より緊張がほぐれている。初対面の学生と話した興奮が冷めず、隣に座る友人と用紙を見せあい、談笑を始める学生もいる。
「皆さん、自分と異なる意見の方の主張を書き取れましたね? それでは、残りの時間で、その意見に対する反論を書いて下さい。自分と違う意見を持つ人を説得または論破するつもりで書いてみましょう。書き終わった方は、私に提出し、退室して結構です。残り30分ありますので、ゆっくり書いて下さい」
10分も経過すると、用紙を提出する学生がぱらぱらと出はじめる。さっと目を通すと、入試の小論文対策で慣れているのか、短時間で筋の通った意見を書ける学生が多い。シンプルなアクティビティーだが、学生の文章力、思考力、課題に取り組む姿勢を見る材料になる。
最後まで残った男子学生は、「すみません、遅くなりました」と、裏まで意見を書いた用紙を持ってくる。
「いえいえ、たくさん書いて下さいましたね」
「何か力が入っちゃいました。これで、クラスの雰囲気が和んだ気がします。次の授業が楽しみです」
「それは良かったです。お疲れ様でした」
「これから宜しくお願いします」
ホワイトボードを消しながら、クラスの緊張をほぐせたことに胸を撫でおろす。ここ数年は、これをアイスブレーカーに使っている。
教室を出ると、廊下の窓に、桜の花びらが、ひとひら張り付いている。研究室に戻る足取りが自然と軽やかになる。
※ 本作品はフィクションです。登場する人物、教育機関は架空で、実在するものとは一切関係ありません。