「カモメと富士山」9
海は凪ぎ、波間に注ぐ朝日を照り返している。カモメが水平線を滑るように進む。頭の奥で、眠りに落ちる前に聞こえた風鈴の音が執拗に木霊する。 夜は人を大胆にするが、朝日は現実に引き戻す。心には虚しさ、身体からは後味の悪い疲れが染み出す。澄んだ朝日を頬に受けると、昨夜の自分に嫌悪が湧く。
アパートまで送ってもらう車内で、私たちは眠気もあって言葉少なだった。朔くんは、花束とキーライムパイの箱を持ち、部屋の前まで来てくれる。ドアを開け、朝日の射すリビングに目を遣った瞬間、強盗にピストルを突き付けられたように全身が凍り付く。
リビングのソファに、腕組みをし、高々と足を組んだジョージが厳しい眼差しで座っている。向かいに座るミナさんが、助けを求めるように私を見る。テーブルの上のグラスと空になった皿が朝日にさらされている。
ミナさんが駆け寄ってきて耳打ちする。
「彼が昨夜来て、あなたが帰るまで待ってるって」
ミナさんは、花束とケーキの箱を持った朔くんが後ろに控えているのを見て、ぎょっとする。私は彼から花束と箱をひったくるように受け取り、小声で促す。
「ごめんね。今日は帰ってくれる」
状況を把握したらしい朔くんは、ジョージに聞かせることを意図し、英語で言い放つ。
「いいえ、帰りません。いい機会なので、彼と話がしたい」
「帰って、お願い!」
朔くんと押し問答をしていると、ジョージがつかつかと歩いてきて私たちの前に立ちはだかる。普段はさらさらの髪がべたつき、あごに伸び始めた髭が目立つ。目が充血しているのがレンズ越しにもわかる。
ジョージは長い指で前髪をかき上げ、朔くんを射殺すような視線で凝視する。ジョージの視線は私が持っている花束とケーキに移り、手首に輝くブレスレットに留まる。心臓が胸郭を押し上げる勢いで打ち、気を抜いたら倒れてしまいそうなほど息苦しくなる。
ジョージは地底から響くような声で私に尋ねる。
「昨夜は彼と一緒だったのか? 彼は君のボーイフレンド?」
英語でボーイフレンドやガールフレンドは「恋人」を意味する。
「違うっ!」
朔くんが、私を守るようにジョージの前に立ちはだかり、彼を挑発的な目で見上げる。朔くんの黒々とした瞳にこれほど感情が表出されるのは初めてだ。
「あんた、彼女の誕生日をすっぽかしたんだろ。そんな奴に彼女と付き合う資格はない!」
2人は一触即発の睨み合いを続ける。190センチのジョージの前では、177センチの朔くんは子供のように見えてしまう。
ジョージは髪を乱暴にかき上げ、私を冷ややかに一瞥する。私から視線を外すと、ミナさんに「いろいろ迷惑かけました」と詫び、ドアを乱暴に閉めて出ていってしまう。
私は争う価値もない女と判断されたのだろうか。そのことは、口汚く罵られるより堪える。
「ジョージ、待って!! 話を聞いて! お願い!」
彼は追いすがる私に軽蔑を露わにした視線を注ぎ、ポケットに手を入れたまま歩き去ってしまう。無視されるのは、怒りをぶつけられるより苦しい。
ミナさんが廊下に崩れ落ちた私を助け起こし、朔くんに「今日は帰って」と申し訳なさそうに告げる。
「言われなくても帰ります。くだらないことに巻き込まれたくありませんから!」
叩きつけるように浴びせられた言葉は、私の自己嫌悪に拍車をかける。
リビングのテーブルを片付けたミナさんが、ソファに無造作に投げ出された花束に目を落とす。
「それ、生けないとダメになっちゃうわね。とりあえず、バケツに入れとこうか?」
「すみません……」
ソファから立ち上がる気力さえ絞り出せない。花束のラッピングがはがされ、蛇口から水が迸る音さえも、非難されているように聞こえる。窓から注ぐ朝日が、全身に刺さるようにまぶしい。
ミナさんは、疲労の限界に違いないと思うと申し訳なさが募る。気力をかき集めて立ち上がり、冷蔵庫に押し込んだキーライムパイを大きめにカットし、ティーバックの紅茶と一緒に出す。
「キーライムパイ、召し上がりますか?」
向かいのソファにどさりと座ったミナさんは、パイに目を瞠る。
「あら、美味しそ。じゃ、遠慮なく」
ぱくぱくとパイを平らげる彼女の頬に朝日が注ぐ。ファンデーションが乾き、動きの多い目元の小じわがぱっくりした割れ目のように目立つ。
食べ終えた彼女は、口元をティッシュで拭い、感情を交えない声で尋ねる。
「花束とパイ、そのブレスレット……。朔くんにもらったの?」
力なく頷くと、彼女は静かに尋ねる。
「彼に乗り換えたという理解でいい?」
「それは、断じて違いますっ!!」
私が一部始終を話すと、彼女は小さく溜息をつき、紅茶の残りを飲み干す。
「タイミング悪かったの一言に尽きるわね……。さっきの状況は、どう見ても朔くんと寝て朝帰りしたように見える」
「ですよね……。私、昨夜、友人のところに泊まると電話したんですけど、まだミナさんが帰っていなくて……」
「私が10時半くらいに戻ったら、彼が待ちかねたように訪ねてきたのよ。あなたに会いに来て、車の中でずっと待っていたんだって。だから、上がってもらったの。そのうち、帰ってくるだろうと思ってね……」
「すみません……。もう1度、電話するべきでした」
惰性で朔くんの家に行ってしまった自分を呪う。昨夜は、無理をしてでもタクシーで帰るべきだった。今ほど、時間を戻したいと思ったことはない。
「お客様をほったらかしにして寝るわけにいかないから、語り明かしてしまったってわけ」
「本当にご迷惑おかけしました」
「残りのパイ、全部もらっていい? それで、チャラにするってのはどう?」
「もちろんです。あの、ジョージとどんな話を?」
「結論から言えば、彼はグランパにあなたの扱いがひどいと説教をされ、心を入れ替えて、謝罪するために来たそうよ」
「おじいさんに言われて来たんですか……」
カズヤに対する恥ずかしさと申し訳なさが、受けた傷をさらに深くする。
ミナさんは頷き、スウェットを履いた細い脚を組む。
「何があったか話を聞いたけど、明らかに彼に問題があるわ。彼はテロの後、活動にのめりこんで、あなたに連絡をせず、不安にさせた。その上に、バースデイの予定を勝手にキャンセルしてしまった。理由は何にせよ、あなたを対等に扱っていない。グランパが怒るのももっともよ」
「ですよね! 私がどんなに悲しかったか」
「当然よ。彼にどうしてそうしたのか尋ねたら、日本人の富士美には話してもわからないからだって。言い争うのが面倒だったと言い訳してた。謝れば、彼女はわかってくれると信じてたとも言ったけど」
彼がカズヤの家から送ってくれた車内で言ったことは、私達がこれっきりにならないと信じる根拠になる。だが、彼がそこに胡坐をかき、私を軽く扱っていることは容認できない。
「そういう時点で、彼は私を下に位置付けてます……。朔くんにも言われたんです。私と彼の関係は、日米関係の縮図みたいだって」
「あの坊や、ユニークな発想するのね」
「でも、本質を捉えてます。彼、ああ見えて、頭は抜群に切れます。アメリカに来たばかりで英語がままならない私は、アメリカ人のジョージにふさわしくありたいと努力する。いつも緊張して彼の顔色を伺っていて、アメリカに追随する戦後の日本みたいだって。そして、ジョージは私に、従順なお人形でいることを求める」
ミナさんは淡々とした口調で尋ねる。
「で、あなたはその関係をどうしたいの?」
「もちろん、このままでは嫌です。私は彼と対等でありたい。彼がそういう関係を求めて私に近づいたとしても、私はそれを変えてみせます」
昂然と頭を上げ、ミナさんを見据える私に、彼女は小さく頷く。
「あんたのプライド高いとこ、嫌いじゃないわ」
「どういう意味ですか」
「そのままの意味よ。私も同じ種類の人間だと思っただけ。あなたみたいに、容姿に恵まれてないから、説得力ないけどね」
「そんな……。私は無駄にデカいだけです。日本では既製品着られないことがあるんです。七分袖買っても半袖になるし、膝下丈のスカートはミニになっちゃうし」
「あーもう、喧嘩売るようなこと言わないでよ! あたしなんか、チビだから既製品のズボンは裾上げしないと履けないんだよ!」
ミナさんはフンと鼻息を吐いた後、神妙な顔をつくる。
「あのさ……、大きなお世話かもしれないけれど、ちょっと心配なことがあるの……」
ミナさんにはめずらしく、奥歯に物が挟まったような言い方だった。身構える気持ちはあるが、受け入れようと心に鎧を着せる。
「何ですか? 言われないほうが気持ち悪いです」
「そうね。言わないで後悔するより、言って後悔したほうがいいかも。単に私の経験からくる懸念だから、悪く取らないでね」
もう一度念を押したミナさんは、脚を組み替えてから話し出す。
「アメリカ人男性のなかには、アメリカに来たばかりで、英語が上手く話せないアジア系女性を狙ってる奴がいるのよ。単にアジア人が好みとか、競争の激しいアメリカ社会に疲弊して家では従順なペットのような奥さんを求めてるとか、国内の女性に相手にされないから無知で可愛いアジア人女性を求めるとか理由は様々。そういう人たちのなかには、自分が優位に立ちたいから、奥さんを従属させておくことを好んで、奥さんが反抗したり、成長したりすると暴力やハラスメントに走る奴もいる」
ミナさんは、ジョージもその類の男だと言いたいのだろうか。彼をどれだけ知り、そう決めつけるのかと怒りがこみ上げてくるが、絶対に違うと言い切る自信はない。
ミナさんはティーカップを口に運んだあと、伏し目がちに切り出す。
「あたしも、そういう男にひっかかりかけたの。アメリカに渡って間もない頃、研究員として在籍しているのに、ナチュラルな英語が聞き取れなかったり、話したことが通じなかったりで、日常生活さえ苦労してボロボロだった時期にね」
「あ、私、いまそんな感じです。アメリカに来て最初の頃は、わくわくして楽しくて、英語が通じて嬉しいんです。でも、滞在が伸びるに連れ、自分の英語が十分ではないと思い知らされる経験が重なる上に、思ったように英語が上達しなくて、そのストレスが心身を蝕むんですよね」
「そう、まさにそんな時期。病院のカフェテリアから出たとき、医者らしき白衣の男性に道を聞かれたの。年齢は40代くらい。もっさりした外見で、髪も薄かったけど、感じが良かった。彼のなまりで、ネイティブスピーカーじゃないのは私にもわかった。私の英語があやしいのに気づいた彼は、日本人かと尋ねたの。そうだと答えたら、自分はギリシャ系アメリカ人の内科医だと名乗って、私のことをあれこれ聞いてきた。私が免疫学の研究医、日本育ちの韓国人で、アメリカでやっていきたいとわかったら顔色を変えた。自分はアジア人のなかで特に日本人と韓国人が好きだ、特にインテリジェントなのがねと言い、私を賞賛し続けて食事に誘った。
彼は、自分と結婚すれば、君は市民権を取れるからビザの心配をしなくて済む。自分は顔が広いから、君が大学で良いポジションを得られるよう頼んでやると口説いてきたの。自分も両親と移民してきて、最初は英語ができなくて苦労したから、君の気持ちはわかると私の境遇に共感を示してくれた。日本人と韓国人は肌や髪がきれいで、育ちが良くて、優しくて、従順で、いい奥さんになると信じているのが都合の良いステレオタイプで癇に障ったけどね」
「英語の生活で、心身ともに疲れているときにそんなことを言われれば、ぐらっときちゃいますよね……」
「そうなのよ。でも、その気になりかけたときだった。研究室の先輩に日本人女性が一人いるんだけど、あたしが彼とお洒落なレストランで食事をしているのを見て忠告してくれたの。
彼は、アジア系のインテリ女性が好みで、好みの女性に片っ端から声を掛けているって。前の奥さんは、その先輩の友人。日本人の研究医で、アメリカの学会に来たとき声を掛けられて、私と同じように熱心に口説かれて結婚した。最初は、彼に優しく導かれて、幸福な結婚生活を送っていた。けれど、彼女がアメリカ生活に慣れて、研究室に籍を得て、論文が有名な学会誌に掲載されると、彼は不機嫌になって、彼女に暴言を吐き始めた。俺が世話してやったから、おまえはここまでになれた。もともと、お前は英語もろくにしゃべれない黄色い肌で目の釣り上がった平たい顔の猿でしかなかった、いい気になるなという趣旨のね」
「うわ、危ない奴ですね。ミナさん、そんな人にひっかからなくて良かったですね」
彼女は大きく頷く。
「奥さんは耐えられなくて離婚したそうよ。彼女は、彼と結婚して市民権が取れてるから、今もアメリカでばりばりやってる。
彼は、アメリカに不慣れなインテリのアジア人女性を支配下に置くことで、プライドを維持したいんだろうね。実際、彼は似たような女性を求めて私に声をかけた」
「その男、アメリカ人女性に相手にされない過去があるのかもしれませんね。だから、アメリカに不慣れなアジア人女性を支配下に置いて、優位に立ちたかったのかも」
「その可能性はあるわね」
「ミナさんは、ジョージもそういう男性だとおっしゃりたいんですか?」
切り出してくれた彼女に感謝する思いはある。だが、ジョージをそこに分類することへの反発が感謝をねじ伏せる。それがジョージを愛しているからか、自分のプライドを守りたいためかはわからない。多分、両方だろう。
「確信があるわけじゃないのよ。ちょっと心配になっただけ。昨夜聞いたんだけど、ジョージの今までの彼女は全員日本人だっていうじゃない。初めての彼女はワーキングホリデー中の元OL。2番目と3番目は、語学研修中の女子大生。その次があなた」
アリシアもレストランで似たようなことを言っていた。それでも、自分がそういう理由で選ばれたのだと認めたくない。
「それに、日本人のあなたには話してもわからないとか、対等に扱っていない発言が出たでしょう……」
「確かにそうですね。
彼を客観的に見ると、背が高くて魅力的な外見ですが、神経質そうで近づき難い雰囲気があります。だから、ルパン3世の声真似をして、不自然な明るさを装って、自分を武装しているのかもしれません。本当はコミュニケーションに不器用で、アメリカ人女性にもてるほうではないと思います……」
「鋭い観察ね。そういえば、彼にモテるでしょうと尋ねた時、むしろ敬遠されると言ってたわ。子供のときから虐められるほうで、女の子にも相手にされなかったって。そこから逃げるように、アニメと日本語にのめりこんでいったそうよ」
「そうなんですか……」
英語が流暢で、姉御気質のミナさんだから、ジョージは心を開けたのだろう。互いに相手の母語が不十分で、深いコミュニケーションを取れない私たちの現実が浮かび上がり、そのことが思いのほか胸をえぐる。
「ごめんね、余計なこと言って。富士美ちゃんみたいに綺麗で、頭も切れる女性が、そういう男にひっかかるのを黙って見てられないの」
「ありがとうございます。私は彼をそういう男性にしたくないし、対等な関係で付き合えるように、ちゃんと向き合います。私も、もっと成長しなくてはなりません」
彼に私との関係を続ける意志があればの話だが、今はそうではない可能性を想像するのが怖い。
「こういう話を聞いても関係を続けたいほど、好きなの?」
「はい……」
彼を失いかけ、ミナさんに否定的なことを言われたことで、彼への思いが胸の中でよりくっきりと頭をもたげてくる。
「どう考えても、朔くんのほうがいい条件じゃない……?」
「私が好きなのはジョージです。朔くんとそういう関係になるのは考えられません」
「そう。あなたがジョージと対等になりたいなら、彼を理解してやることも必要よ。日系アメリカ人であることは、彼の重要なアイデンティティになっている。彼は、安全保障のためにマイノリティの権利が蹂躙されるのはアメリカ的ではないので、それを正すべきだと考えて活動している。この国を祖国にしようと思っている私も、彼の行動に共感する」
「わかってます。きちんと話し合いたいのですが、まずは誤解を解かないと……」
「面倒くさそうね……。でも、彼があなたに本気なら、理解してくれるわよ。正直に説明してみたら?」
「ありがとうございます。話し合うと言葉の壁があるし、互いに感情的になってしまうので、まずはメールで気持ちを伝えます」
「それが一番いいわね。私、そろそろ寝ていい。ひと眠りしたら研究室行って、残り仕事を片付けたいの」
「あ、そうですね。お疲れなのにすみません。今日の夕飯は私が作ります」
「サンキュ。あーもう、体力の限界」