風花が舞う頃 10
ホテルのバーは開店したばかりで、客はまばらだ。レンガ造りの壁が、抑制された暖色の照明に映え、瀟洒な雰囲気を醸し出している。そんな空間をピアノとクラリネットが奏でる緩やかなジャズが満たしている。
話に集中したいので、バーテンダーに会話を聞かれそうなカウンターを避け、革張りの椅子が並ぶテーブルを選ぶ。3人とも、アフターヌーンティーでお腹がたぷたぷなので、一杯だけ注文する。妊活中の陶子は、スパークリングティーとフルーツのモクテルを選んだ。私も、それに惹かれたが、アルコールを入れて思考を大胆にしたくなり、パイナップルモヒートを注文する。
龍さんとの一部始終を話すと、2人とも驚愕した。陶子は、フルーツで飾られたモクテルに口をつけ、伏し目がちに尋ねる。
「風花、文学部の助教だった俊一くんと付き合ってたよね? 年末に別れたとだけ聞いたけど……、結婚問題が原因? 前に、それでもめてることを話してくれたよね」
私は頷き、コースターに置かれたパイナップルモヒートに視線を落とす。
「俊一は、なかなかテニュア(終身在職権)のあるポストに就けなかった。私は親に、結婚はまだかとしつこく言われ続けた。俊一のプライドを傷つけるとは、わかっていたけど、当面は私が稼ぐから結婚しないかと何度か話し合った。彼は、それは体裁が悪いから、任期なしのポストに就けるまで待っての繰り返し。そのうち、互いに辛くなって、会う間隔が開いていった。結局、昨年末に携帯変えられて自然消滅。別れ話さえなし。ごめんね、2人に報告しなくて」
「そっか。研究者の恋愛にあるパターンだね」
華がケンダル・ジャクソンのグラスワインをコースターに置いて同意する。
「ありますよね。私の見た例で、ご主人が任期付き助手のときに結婚して、奥さんが専業主婦になったんです。でも、結局、ご主人が任期なしのポストに就けなくて、6年後に離婚しました。ご主人が安定したポストに就けていたら、そんなことにならなかったと思います」
陶子が寄り添うような口調で答える。
「悲しいよね。テニュア付きのポストに就くまで結婚を控えるのも正論。でも、女性は出産のタイミングを失うリスクがある。先が見えないから、何が正しいなんてわからない……」
華が遠慮がちに尋ねる。
「元彼さん、いまどうしてるんですか?」
「大学のポストは諦めたらしい。専門が歌舞伎を中心とする伝統芸能だから、その分野のコメンテーターやライターとして、そこそこ名前が売れてた。今は、その縁で、梨園の仕事をしていると共通の友人が教えてくれた。梨園関係の女性と縁談が進んでいるみたい」
「風花、彼とどれくらい付き合ってたっけ?」
「3年弱」
「3年か。私たちの年齢だと、結構ダメージ大きいね……」
「うん。でも、実は俊一と切れる前から、学長のことが気になってたんだ。2、3回しか話したことなかったのに、気になって仕方なかった。好きな理由はいくつも挙げられる。けど、理由を考える前に、ただ惹かれてた。学長への気持ちが膨らんでいたから、俊一が若い女性と楽しそうに歩いているのを見ても、それほどショックじゃなかった」
「何となくわかります。好きになるときって、理屈じゃないですからね」
「うん。この年齢になると、仕事を理解してくれる同業者、親と親密すぎない、年収は最低でも自分と同じくらい、子供を望んでいるとか、好きになる前に条件を見てしまうじゃない。でも、学長のときは、考える前に惹かれてた……。だから、交際してほしいと言われたとき、本当に嬉しくて、即座に受け入れた」
さすがに、自分からキスをしてしまったことは言えない。
華が細めに描かれた眉を吊り上げる。
「その学長、卑怯ですよ! 風花さんの気持ちを利用して、引き抜こうとしてるじゃないですか。引き抜いたら捨てられる可能性も、考えたほうがいいですよ。実は既婚者だったらどうするんですか!」
陶子が華を軽くたしなめるが、彼女も同じ意見なのは表情から伝わってくる。
「誰とも付き合ってないことは確認した。捨てられることも、考えてないわけじゃないよ。でも、誰と付き合ったとしても、終わるときは終わるんだよ。最初から考えてもしょうがない。学長は、仕事と交際は、別に考えてほしいとはっきり言った。だから、私もそうする。お互い、いい年だし、そこのところは割り切ってる」
俊一と気まずくなった頃から、人生における結婚や出産の優先順位が、潮が引くように後退していった。適齢期と言われる時間が砂時計のように流れていく中で、なるようになれという乾いた感情が胸を満たすようになった。目の前には、やらなくてはならない仕事、挑戦したいことが山積みで、それを優先してしまう。何等かの理由で、龍さんとの関係が終わったとしても、仕事が残ると思うと、それでいいという思いが湧いてくる。
「ねえ風花、その話を真剣に考えてる時点で、行きたい思いがあるんだよ。恋愛感情に背中押してもらってもいいから、決断すべきだと思う。学長なら、結婚考えるにしても、俊一くんのときみたいな問題はないじゃない。ご両親も喜ぶよ」
「それも、そうですね。私が風花さんなら、その場で断ってますから」
「そうかもしれない。でも、2人だって、H大辞めてO大に移るとなったら、少しは抵抗あるでしょう?」
「それは、そうだけど……」
「そういうことだよ」
華がグラスを傾けながら尋ねる。
「O大に移るとして、同僚になる先生方はどんな人たちですか? 風花さんは、経歴や業績が立派な上に、学長の恋人ときたら、自分から敵地に乗り込むようなものじゃないですか。味方になってくれる先生はいるんですか?」
「専任の先生とは、挨拶と立ち話くらいで、親しくしている先生は2人だけ。国際開発論の教授はすごくいい方で、学部の現状を心配してる。彼のゼミ生を私が大学院で引き受けたから、その縁もあって、ご飯いったりしてる。
あと、私をO大につないでくれた英語の准教授とは、ずっと仲良くしてる。アメリカの大学のドミトリーにいるとき、英語教育の修士を取りに来てた彼女と知り合って、それ以来の付き合い」
陶子がグラスを置き、探るような眼差しで尋ねる。
「学部長とか、ボス級の先生との関係はどう?」
いぼとシミの目立つ学部長の顔が浮かび、反射的に胃が収縮する。
「私が非常勤に応募したとき、例の英語の先生が、当時は教務委員だった今の学部長に口添えしてくれたんだ。他の候補者もいたけど、最終的に彼は私を推して、根回ししてくれた。だから、毎年最初の講義日に、菓子折りを持って学部長の研究室を訪ねて挨拶してる。けど、いろいろあって、彼に嫌われたみたいで……。ここ何年も、私が渡した菓子折りを『いらない』と言わんばかりに、私の目の前で研究室にいる学生に渡すんだよ。まるで、汚いものを捨てるように」
「失礼な奴! そんな扱いをされる原因に、思い当たることはあるんですか?」
「2つあるかな。以前、私が工夫を凝らした講義をして、学生を笑いの渦に巻き込んだことがあった。講義が終わって教室を出たとき、隣室で講義していた学部長とはち合わせしたんだ。そしたら、学部長に『先生は人気があるんですね。学生はエンタメショーみたいな講義が好きだからねぇ』と嫌味を言われた。笑い声がうるさかったのは私の配慮不足だけど、自分の講義がうけないひがみに聞こえた。
もう1つは、学部長の市民大学での講義を聴講して、研究室に質問に行ったこと。彼のレジュメに、興味深いモデルが提示されていて、出典が書いていなかったから、教えてもらいたかった。彼のオリジナルかと思って、尋ねたんだけど……。そのモデルは、ある教授が新書で提示したモデルだった……。びっくりしたよ。他人のモデルなのに、自分のアイディアのように紹介してるんだから。丁寧に御礼を言って退室して、コメント用紙に、参考にしたい受講者もいるので出典を明記してほしいという趣旨のことを書いた。多分、そのことが気に障ったんだと思う。無記名のコメント用紙だったけど、内容や筆跡で私が書いたとわかっただろうから。思い当たることはそのくらいかな」
「風花、逆恨みされちゃったね」
「だよね……。余計なことを言わなければよかった」
「全然余計なことじゃないですよ! 風花さんは、何も悪いことしてないじゃないですか。単なるやきもちと逆切れです。その学部長、相当ヤバいですね。うちもひどいけど、学部長がそれなら、O大もいい勝負です」
「本当に、どうしようもない奴だよ。去年の秋、その学部長が30代くらいの女性事務員に暴言を吐いて、泣かせたらしい。事務員が学部長に何か指摘して、その言い方が気に入らなかったのが原因。興奮した学部長が、廊下ですれ違った私をつかまえて、そのことを得意そうに話すから、マジ白けた」
陶子が眉間のしわを濃くする。
「いるんだよね、事務に横柄な教員。教員には人格破綻者が少なくないし」
「私は、そういう教員は冷ややかな目で見ちゃうな。事務員さんは、社会常識がない学生と、世間ずれした教員を日々相手にしてて、本当に大変だと思う。H大の事務員さんは、プロフェッショナルで、寛容に対応してくれていて感謝してる」
華が顔をしかめる。
「うちの大学は、事務員の待遇が悪いから、モチベーション上がらなくて、有能とは言い難いです。優秀な事務員は、医学部に回されちゃうし。入試とか広報の有能な事務員さんが、他大に移ってしまうことは、めずらしくありません」
華はワインを飲み干してから尋ねる。
「話戻しますけど、例の嫌な学部長は定年まで何年ですか?」
「3年くらいかな。学長は、国際NGOや国連で勤務経験のある実務家教員を来年入れるらしい。後は、残り10年を切った高齢の専任教員が定年を迎えるたびに、公募で新しい教員を入れると言ってた。彼の意図を汲む人材がだんだん増えていくと思う」
「なるほど。10年スパンの計画か。風花は、最初は居心地が悪いかもしれないけど、研究業績も教育能力も彼らに劣らないんだし、堂々としていればいいじゃない。その学長、秋田や新潟の国際志向の公立大に負けない大学にするって言ってるんでしょう? そんな、やりがいのある改革に関われるのは、得難い経験じゃない。教授にしてもらえるなら、給料もボーナスも上がるし」
「陶子、まだ決めたわけじゃないから……」
「それもそうですよね。どうしても嫌だったら、また他の大学に移ればいいし」
華が気が抜けたような声で言うので、思わず尋ねてしまう。
「そんな簡単に移れる? 私の知人が、転出のための公募で20連敗してるの見たけど」
「風花さんなら、大丈夫だと思います。私の同僚だった先生は、うちから中堅の公立大に移りました。でも、学部改組でごたごたして、居づらくなって、うちに戻ってきたんです。それから数年で、わりとレベルの高い地方国立大に転出していきましたよ」
陶子が腕組みをして頷く。
「確かに、若い研究者が初めてアカデミックポストに就くより、既にポストに就いている教員が他大に移るほうが楽だと言われるよね。実際に移った人も結構いるし」
「アメリカでは、他大に引き抜かれた教授が、何人か引き連れて出てっちゃうこともありますよね。私の友人が博論を執筆中に、指導教授が急に転出すると言い出したから、慌てて代わりの教授を探してましたよ」
モヒートに沈んでいたパイナップルを奥歯で噛み砕くと、たっぷり染み込んでいたラムがじんわりと染み出し、酔いがまわっていく。O大に移って居心地が悪かったら、転出という選択肢があると思うと、少しだけ気持ちが解放されていく。