風花が舞う頃 19
学期末になると、大学教員は試験やレポートの採点に追われる。私は、論述式の答案やレポートを採点するときは、休憩を挟まない。休憩が入ることで思考が途切れ、採点基準がぶれるのを避けるためだ。朝から続けていた採点にようやく一区切りつき、立ち上がって大きく伸びをする。凝り固まった首や肩、腰を回していると、滞っていた血流が再開したように体が軽くなる。窓辺に立つと、調整池の水面は、真夏の日射しを照り返してぎらぎら光っている。日曜ということもあり、汗を拭きながら池の周囲をウォーキングする人々が目につく。この季節は熱中症になりかねないので、ジョギングをする人は朝晩しか見られない。こもりきりは良くないので、夕方になったらウォーキングに出ると決める。
冷たいものを飲もうと思ったとき、LINEの通知音が鳴る。同僚の田中先生から、近くまで来ているので、先日の御礼にレイクタウンのモールで夕食をご馳走したいとメッセージが入っている。
同世代の彼を嫌いではない。だが、彼の奥にある複雑なコンプレックスを刺激しないよう気を遣うので、2人でいると疲れるのが本音だ。答案の山を口実に断ることを目論む。だが、近くまで来ていると言われて、そうするのも後ろめたい。小さく溜息をつき、時間と待ち合わせ場所を決めるLINEのラリーをする。
田中先生は、モール入り口のエスカレーター前に、夏物のスーツ姿で待っていた。ポロシャツにデニムのロングスカート、眼鏡で来てしまった私は、アンバランスな服装に居心地の悪さを覚える。
「学会か研究会だったんですか?」
「いや……」
彼は白髪が目立つ鬢のあたりをかきながら、歯切れの悪い口調で答える。それ以上は尋ねないことにし、夕食をとる店を探して、広大なモールを進む。日曜の夕方なので、レストランもフードコートも人が多い。
「如月先生、先月テレビに出てたよね。俺、観たよ」
「ありがとうございます」
「ああいうのって、どうに依頼来るの?」
「どうなんでしょうね。私は、テレビ局に就職した教え子とか、懇意にしている先生経由で……」
「へえ。まあ、俺はそういう華やかな仕事とは縁ないし。H大の専任になれたのだって奇跡なんだから、多くは望まないよ……」
彼はずり落ちた眼鏡のフレームを押し上げ、不貞腐れたように歩調を速める。彼が自嘲モードに入り、機嫌が悪くなるのはよくあることで、扱いに苦労させられる。
「田中先生、昨年まで学生委員でしたよね? 何の担当でした?」
彼は気のない口調で答える。
「大学祭。学生の実行委員会が、招聘したYou Tuberとトラブって、俺が仲介に引っ張り出されてさ」
「それは大変でしたね。田中先生なら、誠実に対応したのでしょうね」
実際、彼は率先して面倒な仕事を引き受けてくれる。同僚は、お情けで採用された彼が、居場所を確保しようと必死で痛々しいと陰口をたたく。不器用な私は、彼を見ていると同族嫌悪のような感情が頭をもたげてくる。私は彼より少しだけ特性を隠すのに長けているだけだとわかっているからだ。彼が能力を越えた仕事を引き受けてしまい、ミスや遅れが出たときのフォローを厭わないのも、そんな感情からだ。今日の夕食は、学内会議と入試関係業者との打ち合わせがバッティングしてしまった彼に代わり、昨年まで入試委員だった私が業者との交渉を代わった御礼だ。
唐突に、彼の機嫌を直せるかもしれない案件を思いつく。
「田中先生にお願いしたいことがあるんです」
「何?」
「アメリカでお世話になった先生から、日本で博士論文の資料収集をするアメリカ人の院生のサポートをしてくれないかと依頼があったんです。彼の専攻は日米関係史で、外務省外交史料館や公文書館で資料収集をするそうです。もちろん、私も力になるのですが、史資料が扱える田中先生に相談できれば彼も心強いと思います。来日は今月末。日本語で日常会話はできるので、一度会っていただけませんか?」
「ああ、いいよ。彼の研究テーマは?」
彼の口調はさりげないが、声のトーンが上がり、よどんでいた目に光が戻っている。
「占領期におけるアメリカの対日食糧政策だと聞いています」
「ああ、小麦の話だろう。それなら、俺がアドバイスできる。俺、英会話苦手だから、トラブったらよろしく。ところで、彼はうちの客員研究員にならないの? 俺んとこで受け入れてもいいよ」
「調べたのですが、今年は一条先生と宗方先生のところで受け入れているので、予算がないんです。その話をしたら、会話をしっかり学びたいので、新宿の日本語学校に半年通うと言ってました。そうしたら、ビザの心配がなくなりますよね」
「そっか。俺ができることなら何でもするから、研究面でも生活面でも遠慮なく相談に来るように言っといて」
「伝えておきます。良かった~、田中先生が引き受けてくれて」
彼は鼻歌を歌いそうな朗らかさで言い添える。
「俺に声かけてくれてサンキュー。その彼と仲良くなれば、俺がアメリカにサバティカルに行くとき、受け入れ先を紹介してくれるかな」
彼の気持ちが上向いたことに、やれやれと心の中で溜息をつく。
ヴェトナム料理のレストランに落ち着くと、彼は向かいのテーブルの3人家族にやわらかい視線を注ぐ。40代くらいの両親と中学生に見える娘が、春巻きやフォーをシェアしている。
「如月先生、彼氏できたって言ってたよね?」
「ええ」
「結婚とか考えないの?」
軽い雑談かと思ったが、思いのほか真摯な口調で尋ねられ、意図を図りかねる。
「まだ、具体的な話は……」
「そっか。俺さ……」
彼は口ごもり、サイゴンスペシャルを口に運ぶ。彼の様子から、あまり良い話には思えない。こちらから促してほしいようにも見えず、話し出すのを待つことにする。アオザイ姿の店員さんが運んできた生春巻きを口にしながら、サイゴンスペシャルのグラスを傾ける。さっぱりしたビールの苦みは、生春巻きと相性が良い。もっちりした皮と具の野菜や海老の瑞々しさが、ビールの苦みに引き立てられ、箸が進む。田中先生は、口の中で味が混ざるのが苦手なので、味の強い飲み物と料理を一緒に口にしない。料理には手を出さず、頻りにグラスを傾けている。
アルコールが舌を滑らかにした頃、彼は茶飲み話のようにさりげなく口にする。
「俺、血のつながらない女子中学生の父親になるんだ」
目が点になってしまうが、彼が大げさに驚くのを嫌う気がし、会話の流れを途切れさせない口調で尋ねる。
「先生、結婚するんですか?」
彼は頷き、パパイヤサラダを不器用に取り分けなから、ぼそぼそと言葉をつなぐ。
「実は、彼女とは院生のときに長く付き合ってて、結婚を考えてた。けど、俺が30過ぎた頃に別れたんだ。原因はいろいろあってさ。主因は、言わなくてもわかると思うけど、俺がなかなか研究職に就けなかったから。彼女が30までに結婚したいと言ってたから、意を決して、彼女の実家へ挨拶に行ったんだ。思った通り反対されてさ。高校と予備校の非常勤講師で食いつないでたオーバードクターだから、仕方ないっちゃあ、仕方ないけど……」
「その後、彼女はどうしていたんですか?」
田中先生は、サラダに添えられた海老チップスをさくっとかじってから話し出す。
「俺と別れた翌年、ネットで出会った国家公務員と結婚した。女の子に恵まれて、幸せに暮らしていた。けど、一昨年、旦那さんが肝臓がんで亡くなって、シングルマザーとしての奮闘が始まった。昨年、大宮駅のパン屋で偶然再会したんだ。かなり苦労しているのを知って、相談に乗るようになった。彼女は、非正規で司書資格なしの図書館員だから、給料安いし、いつ切られるかわからない不安を抱えてる」
「それで、結婚して支えようと決断したんですね。おめでとうございます」
「うん。今日、三郷にある彼女の実家に挨拶に行ってきた。両親は、俺がH大専任講師になったと聞いて、娘と孫を宜しくお願いしますと手のひらを返したようだったよ……」
「その帰りだから、スーツだったんですね」
彼は自嘲と誇らしさが混じった表情で頷く。
「そういうこと。なんか誰かに聞いてほしくてさ。ごめんな、急に呼び出して。約束通り奢るから」
「いえいえ。三郷まで来てたなら、声かけて下さらないほうが寂しいです。お祝いだから、飲みましょうか」
私たちは、追加でダラットワインとジャスミンハイを注文する。
「お嬢さん、中学生なんですね。上手くやれそうですか?」
彼はワインに軽く口をつけた後、牛肉のレモングラス炒めをつまみながら話し出す。
「最初は、ばい菌のごとく嫌われて心折れたよ。娘は、スポーツ万能で成績優秀。テニス部エースで友達多くて、絵に描いたような陽キャなんだ。俺は、運動神経ゼロだから一緒にテニスなんかできるわけない。それに、見ての通りのオタクだろ。アイドルと鉄オタだから、全然話合わなくて、気持ち悪がられるだけ」
彼のスマホ待ち受けと研究室のパソコンの壁紙が、気恥ずかしくなるような服装の少女アイドルだったことを思い出す。無理もないと思ったが、口に出さないでおく。
「娘の気持ちを大切にして、結婚は止めようかという話も何度か出たよ。けど、最終的には、住み分けができる戸建てを借りて、長期戦でいくことになった」
「そうでしたか。中学生は難しい年ごろなので、長期戦が正解でしょうね」
彼は、天井に飾られた色とりどりのランタンに視線を投げてから頷く。
「うん。最近、娘がローカルな電車に乗るのが好きだとわかった。俺も結構な鉄オタだから、家族3人で田舎の私鉄に乗りに行こうと約束した。どこ行くのがいいか考えてるとこ」
「いいですね。私の地元にもあるし、今度来て下さいよ。東日本最古の私鉄もありますよ」
「上信電鉄だろ? 何度か乗りに行った。俺、あの路線の風景が好きだな」
「わかります。ぎざぎざの妙義山が近づいてくるのがいいですよね」
彼は頷き、澄んだ声で言い継ぐ。
「確かに血のつながらない娘とやっていくのは苦労が多い。でも、ちょっと安心してるんだ」
「安心?」
「うん。如月先生は気づいてると思うけど、俺はそそっかしいし、空気読めないし、一つのことに集中すると周囲が見えなくなる。何かずれてるし、奔放で人に指図されるのが大嫌い。思った通りにいかないと、すぐ不機嫌になるし、切れやすい。見ての通りの発達障害だ。診断を受けたのは28のとき」
「この業界では、めずらしくないですよ。私も、検査を受ければ診断されると思います。子供のときから陰キャで、手先が不器用で、運動神経鈍くて、ずっと苦労してきました。バイトでも怒られてばかりだったな。この仕事だから、できているんです」
「如月先生は、上手くカバーしてるよね。言われないとわからないし」
「そう見ていただけるなら嬉しいです」
彼が視線を落とし、口をつぐんだので、私はジャスミンハイを口に運ぶ。さっぱりしたジャスミン茶の風味は、揚げ春巻きのようなこってりした料理ともバランスが良い。
彼は視線を斜めに落としたまま、低い声で言葉を絞り出す。
「俺が彼女と別れた理由の1つに、自分の発達障害を子供に遺伝させるのが怖かったことがある。俺がしたような苦労を子供にさせたくなかった……」
店内の喧騒が遠のいていき、グラスを持つ手が小刻みに震える。グラスを置き、荒い息を吐く。
「大丈夫、気分悪い?」
「すみません。少し酔ってしまったみたいです」
手をつけないままだったジャスミン茶を一口含み、氷の粒が喉を下っていく感覚に集中しながら気持ちを整える。
私が、結婚したその先を描けなかったのは、そのことに対する恐怖からだ。仕事の忙しさで、出産の適齢期が過ぎていくことに、心のどこかで安堵を感じていた。認めるのを避けてきたが、彼の言葉でくっきりと形を持ってしまう。
「俺は彼女に伝えた。発達障害が遺伝する可能性、俺が子供の頃からしてきた苦労、両親がどれだけ振り回されてきたかを包み隠さず話した。彼女は、俺がバイトでも就職先でも使い物にならなくて、退職して大学院に入ったことを知っていた。大学院でも、締め切りを守れず、レジュメや論文に誤字脱字が多く、コミュ力がなくて質疑応答が苦手で、先生方に見放されていることを包み隠さず話した。集中力の欠如や詰めの甘さで、博士論文レベルの研究が仕上げられないことも。そんなことを聞かされた彼女の顔から表情が消えていった……」
彼はグラスに残っていたワインを飲み干してから言葉をつなぐ。
「彼女は子供を欲しがっていたから、もし遺伝しても一緒に育てようと形だけは言ってくれた。けれど、表情を読むのが苦手な俺にも、彼女が引いているのは伝わってきた。動揺を隠しきれていなかったし、言葉に力がなかったから。彼女は自分から別れを切り出して悪者になりたくなかったから、悪役を両親に委ねたのだろう。親に反対されて別れると決まったきは、内心ほっとしてたと思う。
俺も自分に似た子供を育てるのは、経済的にも精神的にも自信なかった。だから、彼女を恨む気持ちはそれほどなかった……。何というか、何もかも上手くいかない人生だったから、こんなもんだろうなという諦念が体からじわじわとしみ出してきた。時間が経つと、適齢期の彼女の時間を奪ってしまったこと、子供のことで悩ませたことに申し訳ない思いが湧いてきた。だから……、なのだろうな。彼女と再会したとき、支えてやりたいという気持ちになった。これからいろいろ大変だけど、なんかわくわくしてるよ」
話し終えた彼は、晴れやかな顔で牛肉フォーをすする。父親としての覚悟が芽生えたのか、いつもは泳ぎがちな彼の目に力が感じられる。そんな彼を眺めながら、龍さんに発達障害のことを打ち明けなくてはと思った。龍さんが、田中先生の恋人と同じ反応をしても、受け入れようと心を決める。それは、龍さんを失って心が砕けてしまわないための先回りした防御だ。
田中先生と別れて帰宅する途中、陶子からLINEが入っていたことに気づく。彼女が高知の大学に採用が決まったと知り、マンションの入り口で足が止まってしまう。じっとりと汗ばむ身体から熱が引いていく。真摯に家族と向き合い、人生を前に進めている陶子や田中先生と比べ、私は何をしているのか。そのまま部屋に帰る気分にならず、調整池に足を向ける。ぽっかりと口を開ける池の水辺に腰を下ろすと、立ち上がる気力が萎えていく。