「カモメと富士山」16
ロサンゼルスに帰る機内で、パイロットが今日の夕焼けは稀に見る美しさだとアナウンスした。ジョージは、薄ピンク色に染まる空を眺め、俺たちを祝福する夕焼けだとはしゃいでいた。割り切れない思いを抱えたまま部屋に戻ると、ミナさんと朔くんが、ダイニングテーブルに広げたパンフレットを見ながら、何やら口論している。
「朔くん、今日も来てたんだ」
最近の彼は、ミナさんにレポートの英語をチェックしてもらうなど、何かと口実を作って彼女を訪ねてくる。
「富士美ちゃんもプッチンゲ食べるでしょう? 取ってあるよ」
「プッチンゲ?」
「チヂミのことです。すげー旨かったですよ」
ミナさんがラップをかけたチヂミを電子レンジで温め直してくれる。
「にらが手に入らなかったから、ねぎで我慢してね」
「ありがとうございます。いただきます。あの、もしよかったら、少し話聞いていただけますか?」
私がエミーとシグの家で聞いたことを手短に話すと、朔くんが頓狂な声を上げる。
「うわ、俺、半世紀かけて結ばれたカップルを邪魔してたんですね。祟られないといいな」
「そんなドラマみたいなこと、本当にあるのね……」
ミナさんは憮然とする私に、怪訝そうな視線を注ぐ。
「ジョージのこと、好きなんでしょう? 何でそんな浮かない顔してるの?」
ミナさんに尋ねられ、整理しきれていない感情を言葉に置き換えようと試みる。
「祖母に人生を支配されていた気がして不愉快なんです。
私の祖母はアメリカ贔屓で、日米関係のニュースは欠かさずチェックしていました。孫の私をアメリカ英語が聞ける場所に連れていき、英会話を習わせ、アメリカに憧れるようにして、日米関係を良好にすることに貢献できる外交官を志望するよう誘導したんです。
今になって、カズヤさんと結ばれなかったことが、祖母が良好な日米関係を望む理由だとわかりました。祖母は、兄2人が戦死したので、婿を取ってみかん農家を継がなくてはならなかったんです」
「お祖母さん、自分たちのような思いをしてほしくなかったから、良好な日米関係を切望していたのね……。そのために、あなたを外交官にしたかったんだ」
私が頷くと、ミナさんは細い腕を組み、神妙な顔をつくる。
「富士美ちゃん、ちょっと失礼なことを言うかもしれないけど許してね。あなたの憤りは、アメリカに来て、英語に苦労する環境に置かれたことに起因してない?」
ミナさんは、アイラインの濃い目で、私を窺ってから続ける。
「ごめんね、嫌なこと言って。でも、私も通った道だからよくわかるの。
あなたは頭が切れるから、日本では大抵のことは器用にこなせて、いい大学に入って、自分は人並み以上の地位にいると思ってたんじゃない?
そんなあなたも、アメリカに来ると、ただの英語が不十分な日本人になってしまう。そういう環境を耐え、乗り越えなくてはいけない苛立ちが、お祖母さんに向いていると思わない?」
「……そうかもしれません」
ミナさんは、ふっと頬を緩める。
「素直に認めるところ、賢いわね」
彼女は虚空に視線を彷徨わせながら続ける。
「私も、日本ではそれなりの地位にいたプライドがあったから、来たばかりの頃は本当にしんどかった。だから、前に話した変な男にひっかかりかけた。
その頃、夜間に通ってた語学学校のベテラン先生に言われたのよ。アジア系のノンネイティブが、コミュニケーションに支障がなくなるまでに、2年はかかるって。読む・書く・聞く・話すをバランス良く身につけるのは、もっとかかるかもしれない。会話に問題ない人でも、書かせたらひどかった例もあるって。それが現実なのよ」
「ミナさんは、こっちでやっていけると自信つくまでに、どれくらいかかりましたか?」
「2年以上はかかったかな」
彼女はいたずらっ子のような目をして言う。
「あなたのお祖母さんも、もし渡米できていたら、同じ経験をしたでしょうね。その頃は、西海岸の日本人差別がひどかったから、あなたとは比べものにならないほど屈辱的な思いをしたんじゃない?」
「でしょうね。まあ、あの負けん気の強い祖母なら、その環境から這い上がったと思います」
ミナさんは、いたずらっ子のような口調で言う。
「あなたは、その血を引いているのよ」
ミナさんの洞察力の前にひれ伏すしかない。
ミナさんの目元の笑いじわを見つめながら、彼女が高い英語力を獲得するまでにどれだけ苦労したかに思いを馳せる。1年しかいない私は、到底追いつけないだろうが、背中を追いかけたい。彼女のチヂミに箸をつけると、ジューシーな上に海鮮たっぷりで、ねぎとキムチのアクセントが効いている。
朔くんが、話が終わるのを待ちかねていたように口を開く。
「ところでミナさん、この研究所どう思います?」
「だから、何度も言ったでしょう。私は血のにじむような努力をして、アメリカに居場所を作ったの。だから、日本に戻るつもりはありません!」
「そんな、意地張らなくていいんですよ。うちの会社が寄付してるここなら、ミナさんのやってる自己免疫疾患の研究できるじゃないすか。いまの研究室より、潤沢な研究費が使えますよ」
「確かにそうかもしれないけど、いま求人出てないじゃない」
「あ、それ問題ないっす。うちの親父と、このグループの理事長は、マブダチです。毎年、気前よく寄付してますから、ミナさん一人ねじ込むくらい何ともありません」
「いきなり、どこの馬の骨かわからないのが入ってきたら、周囲は良く思わないでしょう。それに、私、在日だよ。何言われるかわからないじゃない」
「俺と結婚するのはどうです? うちの苗字名乗れば、文句言う奴いなくなりますよ」
「あんた、本気で言ってるの? 私、35だよ。あんたより、15も歳上なんだよ」
「俺、年上好みですから」
「何なのあんた。このあいだまで、富士美ちゃんを追いかけまわしてたじゃない」
「見込みないので諦めました。そんなとき、ミナさんが魅力的に見えてきたんです。ミナさん、めっちゃ格好いいです」
ミナさんが私の耳元でささやく。
「こいつ、マジ頭おかしいね」
「同感です……。ミナさん、関わらないほうがいいですよ」
★
南カリフォルニアの陽光が注ぐリビングで、カズヤは凪いだ面持ちでジョージと私を迎える。 2階につるされた風鈴が揺れ、涼やかな残響を残していく。
彼は私とジョージを順に見てから、澄んだ声で告げる。
「エミーとシグから電話をもらったよ。2人の聞きたいことは、何でも答えよう」
ジョージは私と視線を交わしてから、自分自身に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「俺は、グランパがどんなにグランマを大切にしてきたかを見てきた。グランパのなかで、富士子さんは青春時代の思い出だよね? ずっと続いてきたわけではないだろう?」
カズヤは私たちに強い視線を注ぎながら答える。
「ジョージの言うように、私は妻のユキと子供たちを心から愛してきた。
富士子さんは、人生の目的を失っていた私に、それを示してくれた大切な人だ。あのとき、彼女が私に使命を与えてくれなければ、私は日米の企業を取り持つ弁護士にならなかった。いまの私があるのは彼女のおかげなんだ」
カズヤが、サイドボードの上から写真立てを1つ持ってくる。垂れ目で優しい面持ちの老婦人が微笑んでいる。
「妻のユキだ。彼女が亡くなってしばらくして、ジョージが日本のみかんを買ってきてくれたね。覚えているかい?」
「うん。リトル・トーキョーの日系スーパーで見つけて、美味しそうだから買ってきた」
「日本のみかんを食べるのは、何十年ぶりかと思った。みかんのへそに爪を立てると、皮からしゅっと弾けた分子が飛び散り、鼻腔に飛び込んできた。親しんだカリフォルニアオレンジの香りとは違うが、甘酸っぱく懐かしい香りだった。それが眠っていた記憶を喚起したのか、しばらく忘れていた思い出が数珠つなぎによみがえってきたんだ。
私は、体が動くうちに、あの場所を訪ねてみようという衝動に駆りたてられ、気がついたら日本行きの航空券を予約していた。富士子さんが生きていたら、遠くからでも姿を見たい。佳史くんの墓参りもしたいと思ったんだ」
「俺がみかんを買ってきたことから、始まったんだね……」
「今年の春、宇佐美の家を訪ねてくださったときですね」
「そうだ。宇佐美で富士美さんに会って、富士子さんがずっと良好な日米関係を望んでいたことを知った。そして、孫のあなたが富士子さんの影響で、熱心に英語を学び、外交官を志望していると聞いて驚いた。UCLAに交換留学すると知ったときは、胸が一杯になったよ」
カズヤは感慨に耽るように目を閉じる。
「リトル・トーキョーの赤い櫓の前に、白いワンピース姿のあなたが立っていた……。時空が揺らいだような感慨に包まれた」
「そうしてやってきたふーじみちゃんと俺は、恋に落ちた!」
カズヤは眉尻を下げて微笑む。
「実を言うと、2人があまりにも早くデートし始めたので、私も驚いているんだよ」
私は、祖母の元恋人の瞳を真直ぐに見据えて尋ねる。
「60年前、祖母と何があったのか、詳しく教えてもらって宜しいでしょうか?」