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風花が舞う頃 3
オフィスアワーの余韻を引きずり、東京方面行の山手線に揺られる。今夜は同業者の友人2人と、有楽町で夕食の約束がある。扉の前に立ち、雑然とした街並みとネオンが、飛ぶように流れていくのを眺める。宵闇に飲み込まれようとしている街に、散り残った桜がぽつぽつと白く浮き上がる。反対側の扉の前に立つ作業着姿の男性は、マスクで顔半分が見えないので、ブラックホールのように絶望を帯びた目が存在感を放っている。不意に木村くんの眼差しが思い出され、そこに引きずり込まれるような錯覚に陥る。ピンヒールを履いた美しい女性が、周囲を睥睨しながら、颯爽と視界を横切っていく。その後ろ姿は、研究室を出ていく旭野さんを彷彿させる。
学生支援課と教務課からのメールに返信しながら、デパートに入った寿司屋の前で待つ。大学教員は裁量労働なので、仕事とプライベートの境界はないようなものだ。
時間になった頃、同じ大学で文学部准教授を務める陶子が、小さく手を振りながら近づいてくる。アメリカの大学院時代に知り合った同い年だが、まさか同じ大学で勤務するようになるとは思わなかった。
「風花、早いね」
陶子は頬にかかる長い黒髪を耳に掛ける。めずらしくネイルサロンに行ったのか、ラインストーンの入った桜色のネイルが目を引く。彼女は昔から、必要以上に身なりを気にかけない。そんな彼女が自分を飾るのは、何かを乗り越えるために、武装するときだ。心配になるが、彼女が自分から打ち明けるまで、尋ねないことにする。
「午後はオフィスアワーだったから。陶子は何コマやったの?」
「語学と外書の2コマ。オリエンだから早めに切り上げたけどね。その後、会議2つ」
「お疲れ様。マスク外した学生、だいぶ増えたよね」
「増えた。私も電車のなか以外は外してるよ」
「本当? 私、まだ外す勇気が出ないんだよね。講義中もつけたまま」
雑談を続けていると、小柄で勝ち気そうな眼差しの華が、ショートカットの茶髪を撫でつけながら、小走りでやってくる。東京郊外の私大で准教授をしている華は、アメリカの大学院時代に、同じ政治学研究科で学んだ後輩だ。4歳年下なので、私たちには敬語を使ってくれる。
「ごめんなさーい、遅くなりました!」
席に通されると、姉御肌の陶子が注文票と鉛筆を手に取る。2時間制の食べ放題コースで、食べたいものに〇をつけて注文するシステムだ。
「何頼む? あたしは、いくら、数の子……」
華がすかさず口を挟む。
「陶子さん、魚卵ばっかじゃないですか」
陶子は感情を映さない瞳で、淡々と答える。
「妊活女は、卵が食べたいの。華は何にする?」
陶子のご主人は、四国の国立大学の教授だが、休暇時は東京に来て妊活に励んでいる。今年40歳になる彼女は、年齢によるリミットと戦っている。しんどいことも多々あるだろうが、感情を露わにせず、冷徹な口調で事実を語る女だ。
陶子の性格を知る華は、妊活について詮索せず、何もなかったように続ける。
「ねぎとろ、煮あなご、えんがわ。それから、いかと中とろで、お願いします」
「了解。風花は?」
「えんがわと真鯛、あとサーモン2つ」
「風花のサーモン好きは徹底してるね」
店員にオーダー表を渡すと、ほどなくして味噌汁と茶碗蒸しが運ばれてくる。陶子が茶碗蒸しを口に運びながら、感情の起伏を排した口調で切り出す。
「春休み中、顕微授精のために採卵したんだ」
華が小さく身を乗り出す。
「採卵って、卵巣に針を刺して卵子を取るんですよね?」
きわどい話になるので、陶子は隣のテーブルを気にし、声を抑える。
「そう。事前に排卵誘発剤で卵胞を育てるから、お腹が張るの。採卵は麻酔で寝てる間にされるけど、しばらく血尿が出たし、痛みも残った」
「陶子、大変だったね。採卵した卵子は、授精させたの?」
「形と運動状態がいい夫の精子を選んで、顕微鏡で観察しながら、私の卵子に直接注入して授精させた。いわゆる顕微授精。その後、胚盤胞まで培養して凍結。子宮を休ませた後、解凍して子宮に戻したけど、残念ながら妊娠せず」
「残念だったね……」
華やかなネイルの意味がわかった。陶子は、自分に不都合なことは胸にしまう。そんな彼女が、吐露せずにいられないのは、相当のダメージを受けているからに違いない。
陶子は努めて晴れやかな声で言う。
「あと2つ、凍結胚が残ってるから、まだ期待できる。駄目なら、また採卵。その繰り返し」
陶子は、不妊治療を4年続けている。私も、彼女が新しい命を授かることを切望している。だが、育休を取得し、同僚に支えてもらうにしても、遠距離婚の彼女の育児には、大きな困難が待っているに違いない。父親を亡くし、母親は特別養護老人ホームに入っていて、実家は頼れない。彼女は一人っ子で、助けてくれる兄弟もいない。若くはない彼女が、どう乗り越えていくのか心配になってしまう。
運ばれてきた握り寿司をつまみながら切り出す。
「大学教員って、婚活と妊活のタイミングが難しいよね。大学院の博士課程まで進んで、ストレートに修了しても27歳でしょう」
華が大きく頷く。
「そもそも、規定の年限で博士号を取れる人は少ないですよね」
「うん、少ないよね。それに、博士号を取得しても、すぐに専任のポストに就けることはまれで、たいていは任期付きのポスドク研究員とか助教、日本学術振興会の特別研究員、非常勤講師をしながら食いつなぐ。何も仕事がないことも、めずらしくない。そうしてると、すぐに30を過ぎちゃう。ようやく、専任になれたら、仕事に追われて、落ち着いた頃には、いい歳になってる。相手探しも、妊活も、どこかで効率よくやらないと、適齢期過ぎちゃうよね……」
華がえんがわに醤油をつけながら頷く。
「本当ですよ。理解あるパートナーに恵まれた女性は、大学院生のときに出産しましたけど、育児が大変で研究に支障が出てました。
私なんか、最悪ですよ。アメリカでポスドク研究員してるとき、私が任期なしのポストにつけたら結婚しようと約束していた彼氏がいたんです。でも、私が将来への不安で、イライラすることが多くて、けんかばかりで、結局振られました」
陶子が味噌汁のお椀を置いて口を開く。
「華の気持ちわかるよ。まず、貧乏暮らしで、ストレスの多い院生生活が辛くて、精神やられるよね。時間、若さ、金を捧げて、院生生活を乗り切って、博士号取っても、任期なしのアカデミックポストにつけない怖さが待っている。自分で選んだ道だから仕方ないけど、経験した人しかわからない怖さだよね。私は、ABD(all but dissertation 大学院ですべての単位を取得し、残りは博士論文のみ)になったとき、日本に帰国して非常勤講師してた。2年間は非常勤しかなくて、親には泣かれるし、博士論文は進まないしで、いつ気が狂っても、おかしくなかった。あの頃の辛さは、忘れられない」
「私も同じ。29歳で博士号取って、帰国して、母校の任期付き研究員と非常勤講師で、1年乗り切った。自分が好きでしてることだから、弱音を吐けないのが辛いよね。いろいろ詮索されるのが鬱陶しくて、ほとんど実家に帰らないで、親戚の集まりも避けてきた。30でH大の専任講師になれて、本当にほっとしたよ。『専任になる』が『仙人になる』と言われるのわかるよね」
陶子と華が大きく頷く。
「わかる!」
華が次の注文票に記入しながら問いかける。
「ところで、風花さん、いつ彼氏と別れちゃったんですか? 年末までは、よく会ってたじゃないですか」
私は渡された注文票に〇をつけながら答える。
「結婚の話で、もめちゃってさ……。自然消滅みたいな感じ」
5歳年下の俊一は、自分が悪者になりたくないので、別れ話を避けて自然消滅を選んだ。互いに真剣交際していたのに、別れ話もできない男とわかったとき、すっと気持ちが冷めていった。先週、彼が若い女性と歩いているのを見ても、驚くほど心が騒がなかった。
それには、俊一以上に気になる男性の存在があるからだろう。その男性とは、二、三度言葉を交わしただけだ。それでも、結婚まで考えた俊一を凌駕する存在になっている。
「そうだったんですか。私たち、それなりに収入あるし、もうシングルでいいじゃないですか。私、マンション買おうと思うんです」
「それもいいかも。よく、研究室に、マンション買わないかって、電話がかかってくるんだよね。このあいだなんか、神戸のマンションだよ。わけわかんない」
陶子がすかさず同意する。
「あ、それ、私のところも、かかってきた。セカンドハウスにどうかって。大学教員はカモにされるらしいけど、私たちにそんな余裕ないし」
華の言うように、シングルでいいという思いもある。だが、残りの人生を一人で生きるのが寂しいという思いは、何度息を吹きかけても消えないろうそくのように胸に灯っている。
この話題を引きずりたくないので、仕切り直すように切り出す。
「今日、修士2年の院生が相談に来たんだ。お父さんが末期の膵臓がんで休職中、お母さんはコロナでパートを解雇されて無職。専門学校に在学中の妹もいる。だから、自分が辞めざるを得ないって。
とりあえず、日本学生支援機構の応急採用と、H大の奨学金に申請させた。私の非常勤先で引き受けてきた学生だから、できるだけのことはしたいけど、どうなることか……」
陶子が、ねぎとろ巻きを手に取りながら尋ねる。
「彼のお母さんは、仕事してないの?」
「彼は日系ブラジル人四世。三世のお母さんは日本語が苦手だから、なかなか厳しいみたい。ただでさえ、コロナ不況で解雇される人が多い時代だから」
お茶をすすっていた華が、茶碗を置いて言う。
「その院生、奨学金の応急採用、取れるといいですね。H大の修士なら取る価値ありますよね。H大は学部生の就職もいいし、自前で研究者を養成できる研究大学だし。学生は志が高くて、親も学問に理解ある人が多いでしょうね。
うちみたいなFランク大学だと、その状況になれば、退学させる親が多いと思います。大学出てない親が結構いるので、大卒の価値を理解してもらえないし、本人も学習意欲が低いです。高卒と大卒では給料も応募できる職場も違うので、卒業しておいたほうがいいと助言しても響かないんです。ゼミ生に退学者が出るたびに、無力感です……」
陶子が箸を置いてぼやく。
「まあ、不況が続くと、無理して大学を卒業させるのが、いいことなのか、疑問に思うこともあるよね」
「やるせなくなるよね」
華が中トロに醤油をつけながら力説する。
「大学教員の仕事って、昔より増えてますよね? 少し前までは講義評価がなくて、学生の評価に怯えることがないから、手抜きしたり、好き放題に喋ってる先生がたくさんいたし。今では、講義評価が厳しくて、学生に満足してもらえるように、教員側が工夫しなくてはいけないじゃないですか。
それに、高校の先生みたいな役割を求められますよね。不登校になった学生の親との面談、学生と朝食を食べるイベント、保護者と教員の懇談会とか。まあ、私がFラン大にいるからかもしれませんけど」
「確かに、私たちは、学生寄りに意識を変えなくてはならない世代だよね。少子化で学生数が減って、大学は学生獲得に力を入れないと存続できない。本来は大学に進む学力ではない若者が、大学に行ける時代になったわけだから、当然教員側も対応を変えなくてはいけない。
うちを定年退職した名誉教授が、Fラン大に再就職したけど、お菓子とお茶を用意して研究室で待っていないと、学生がゼミに来ないと嘆いてたよ。うちの大学にいるときは、事務にも同僚にも横柄で、ヒステリックに学生を怒鳴りつけてた先生が、そこまで媚びるのは滑稽だけど、それが現実なんだよ」
陶子が頷く。
「H大でも、以前より学生の学力が落ちたのを実感する。AO入試とか指定校推薦の入学者を増やした上に、一般入試の科目数を減らしたから、当然と言えば当然。リメディアル教育(基礎学力が欠けている学生のための補習)科目が開設されてるしね」
華が割って入る。
「うちなんか、就職のSPIを見据えて、フレッシュマンセミナーのときから、漢字ドリル、計算ドリルをやらせてたんですよ。最初は、私たち専任教員が担当してましたけど、そのうちに定年退職した高校教諭とか専門学校の講師に、非常勤で担当してもらうようにしました。
ゼミでも、学生の学力が低くて、専門書や新書の輪読が成り立たないから、軽い内容の本しか選べないという先生もいます。ゼミ合宿も、勉強合宿というより、社会科見学と飲み会」
「そういう時代になったんだね……」
「そうですよ。だから、研究者として優秀でも、コミュニケーション能力や事務処理能力がないと、大学教員としてやっていけませんよね。高校の先生並みの学生・保護者対応とか、高校訪問、市民大学、地域連携まで求められる時代ですから」
食べ放題の制限時間がきたが、話は尽きない。私たちは近くにある外資系ホテルのバーに移動する。皇居と日比谷公園の夜景を見下ろしながら、やるせない思いを吐露し合うと、抱えていた重荷が闇に溶け、輪郭がぼやけていく。