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風花が舞う頃 14

 祖父が心配でも、詰まっているスケジュールは立ち止まる暇を与えてくれない。土曜のオープンキャンパスを終え、小型スーツケースを引いて、キャンパスを出る。夕闇が迫る大通りでタクシーを拾い、東京駅に向かう。最寄り駅に向かう人波のなかに、H大の紙袋を下げた高校生と父兄がちらほら見える。模擬講義「アメリカの分断と2024年大統領選挙の展望」への反応は上々だった。高校生がどんなコメントを書いてくれたか気になるが、今は考えないことにする。

 初夏は学会の年次大会が目白押しだ。この週末は、京都で所属学会の年次大会が開かれている。国際交流委員の華が、アメリカの恩師をシンポジウムのパネリストとして招聘している。残念ながら、今日のシンポジウムは聴けなかったが、今夜は彼女たちと鴨川沿いのレストランでディナーだ。

 タクシーの後部座席で、メイクの崩れを気にしつつ、額ににじんだ汗を拭う。スマホで京都に到着する時間を検索してみる。無理をすれば、学会の懇親会に、ぎりぎり顔を出せそうだが、数分のために懇親会費を払うのは惜しい。京都にいる華に、直接レストランに向かうとLINEしておく。

 新幹線の自由席に落ち着き、明日の分科会で発表する大学院生2名の報告論文を読む。分科会では、華が司会、私がコメンテーターを務める。院生の頃は、発表して業績を増やし、人脈を広げて就職につなげるために、できる限り帰国して参加していた。教科書で名前を知っている先生方に囲まれ、知り合いがいなくて心細く、全身が石のように緊張していた。中堅となった今では、仲間が増え、運営の一翼を担うようになった。

 論文2本を読み終え、背もたれに身を預ける。マスクを外し、軽く目を閉じると、泥のような疲れに飲み込まれる。肉体的な疲労だけではなく、精神的に打ちのめされたことも大きい。2人の論文は、粗削りなところはあるものの、斬新かつ意欲的で、持てる全てを注ぎこんだ勢いがある。
 いまの自分に、この勢いがあるだろうか。専任になって以来、講義と学務に時間を割かれてきた。年齢と経験が増すに連れ、任される仕事量と責任も増していく。院生の頃のように時間が使え、自分の研究に没頭できた日々が懐かしい。H大では、良好な人間関係、有能な事務員に支えられ、多忙でもどうにか研究成果を出してきた。もし、新しい環境に身を置いたら、どれほどの時間を研究に充てられるだろうか。

 車窓に目を向けると、裾野を広げた富士山の山際が朱色に染まっている。富士山は雄大で美しい。だが、裾野が長い山として愛着を覚えるのは故郷の赤城山だ。緑に燃える赤城山を龍さんと登ることを思うと、少しだけ気持ちが浮上する。来週末は別の学会で、龍さんに会えない日が続く。いつの間にか、彼がかけがえのない存在になっていることに気づき、京都で彼の喜びそうなお土産を選ぼうと決めた。

                
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 華に伴われ、イタリアンレストランに入ってきたソフィーは、私を見て大きな目をさらに大きく見開く。大股で歩み寄ってきた彼女に、ぎゅっと抱きしめられる。コロナが完全に収束していないので、大胆な身体的接触はひんしゅくを買いそうだが、目をつむってもらうしかない。

「Fuka! 会いたかったわ!」

「私もよ。5年ぶりなのに、あなたは全然変わっていない。むしろ、若返ったみたい」

「あなたは少し痩せて綺麗になったわね。長い髪も似合うわ」

 大学院の指導教授だったソフィーは、いつ会っても精彩を放っている。髪の色と量、目元や口元のしわは、なるほど還暦を迎えた女性のものだ。だが、知的好奇心に満ちたブラウンの瞳と、部屋の隅々まで光を放つような明るさは変わらない。自身もイタリアから留学して博士号を取得したので、私や華の境遇を理解し、厳しくも愛に満ちた指導をしてくれた。ABDになったとき、「プロフェッサー ベンチュラ」ではなく、「ソフィー」と呼ぶよう言ってくれた。以来、対等な研究者として付き合いが続いている。

 席についたソフィーは、好奇心を隠さない瞳で周囲を見回す。
いきな店ね。この席は、川の上にせり出しているのね」

 古都の歴史を見守ってきた鴨川から、ときおり川風が上がってくる。清涼感のある水音が、肌にまとわりつく湿気の不快感を中和してくれる。少しでも涼をとろうとした先人の魂に触れた気がする。

 華が得意そうに解説する。
納涼床のうりょうゆかと言うのよ。起源は江戸時代。床の設置は5月から9月までしか許可されていないの。もう少し暑くなると、エアコンがないと耐えられないから、今が一番いい季節」

 ソフィーはこの瞬間を最大限に楽しもうという目を周囲に走らせる。
「素晴らしいわ! とても京都らしい」

 川面かわもに、納涼床の灯りが映り、ちらちらと揺れて幻想的な雰囲気を醸し出している。

「でも、なぜイタリアンなの? こんな場所なら、ジャパニーズスタイルが似つかわしいのに」

 華が唇の端を上げ、にっと微笑む。
「そんなミスマッチも粋でしょう。イタリア人の貴女に、和風のイタリアンを味わってほしいの。貴女なら、きっと気に入ってくれると思うわ」

「なるほど、ジャパナイズドされたイタリアンを食べられる機会は貴重ね。何がお勧め?」

「ソフィー、懇親会で食べてきたなら、お腹一杯でしょう? ドリンクとデザートだけに? 私が懇親会に出られなかったせいでごめんなさい」

「話していて、全然食べられなかったのよ。何が美味しい? 何でも食べるわよ」

 華が日本語で私に耳打ちする。
「懇親会でも、片っ端から食べてました。底なしの胃袋は変わりません」

 いぶかし気に私たちを見るソフィーを無視し、華がメニューを私に向けて広げる。私の故郷の小麦が使われていると書いてあり、誇らしくなる。

 華はてきぱきと料理を決めていく。
「しらすピッツァは、食べたことないと思うから、挑戦してみて。それと、パスタはエリンギとツナの和風だし風味がめずらしいんじゃない? 風花さん、お腹空いてますよね? 好きなの頼んで下さい」

「じゃあ、柚子ジュレ添えカルパッチョサラダと、しいたけと京野菜たっぷりのピッツア」

 ソフィーは運ばれてきた京都丹波ワインのロゼを美味しそうに飲み、柔和な表情を浮かべる。
「あなたたちが、日本で立派にやっていて嬉しいわ。私の蒔いた種が、世界中で花を咲かせているのを見ると、まだまだ負けたくないとパワーが湧いてくるの」

 ソフィーは、柚子の効いたカルパッチョサラダを「野菜が新鮮で味がしっかりしているわ」と噛みしめながら口に運ぶ。ジャパナイズドされたイタリアンが気に入ったらしく、世界中にいる研究者仲間の近況を弾丸のように話し続けながらも、その合間に料理に手を伸ばしている。耳を傾けながらも、考えてしまう。彼女は研究者としても教育者としても優れている上に、2人の息子を立派に育てた。そんな彼女でも、研究と学務、教育の両立で悩んだことがあるのだろうか。

 話が一段落したタイミングで問いかける。
「ソフィー、大学教員として立場が上がっていくと、任される仕事や責任が増しますよね。そうすると、時間や体力が奪われて、研究に時間が割けなくなるでしょう? あなたは、どうやって、バランスを取っているの?」

 しらすピッツァをカッターで切り分けていた華も、大きく頷く。
「それ、私も思います。ソフィーが送ってくれる研究書を手に取るたびに、どうしてこんなに質の良いものを生み出し続けられるのかと思います。他の執筆者の論文も粒ぞろいだけど、貴女の論文はとりわけレベルが高い」

 ソフィーは、大きなブラウンアイをきゅっと細め、慈愛のこもった眼差しを注ぐ。
「それは、ずっと付きまとう問題ね。私は、猪のように突き進んできただけだから、偉そうなことは言えない。完璧な妻、母ではなかったし、はなから諦めていた。だから、家族、家政婦、同僚、友人、頼れるものはすべて頼ってやってきた」

 華が切り分けたしらすピッツアを手に取り、ソフィーは続ける。
「あなたたちも、これから管理職に就いて、ますます研究時間が奪われるでしょうね。そんなときに限って、親に介護が必要になったり、子供が難しい年頃になる。追い打ちをかけるように、自分にも老いが忍び寄ってくる。老眼やら、更年期やら……。ああ、嫌だ、嫌だ」

「勘弁して下さいよ。今でさえ、研究時間が十分に取れる若い院生の意欲的な研究を目にすると、嫉妬してしまうのに」

 ソフィーは京野菜のピッツアに乗ったしいたけを指さし、「マッシュルームより味が濃厚ね」と言ってから、口の中でつぶやく。
「私だって、2人を指導していた頃、若さや体力、才能に嫉妬してたのよ……」

 私と華は、信じられないと顔を見合わせる。それでも、今なら、彼女の抱いていたであろう思いが理解できる。
 
 華が口を挟む。
「でも、そうした状況でも、あなたのように、素晴らしい研究成果を出している研究者もいる。驚異的な体力と自己管理能力、集中力があるのでしょうね」

 ソフィーは茶目っ気のある笑みを浮かべる。
「そんな大したものはないわ。私は立場が上になったから、できることを楽しんでいるだけ。嫉妬する才能も、私がやりたいことのために動員できる」

「どういうことですか?」

 ソフィーの瞳が、楽しくてたまらないと訴えるように光を放つ。
「私は、プロジェクトの代表者として、1人では成し得なかった研究に、たくさんの研究者とともに取り組めるの。
 院生の頃から、私は、自分が学問をリードしてやると意気込んで走ってきた。今は、たくさんの研究者と一緒に、同じ目標に挑んでいる。私が予算を取ってプロジェクトを組織すれば、若い研究者の頭脳を動員できる。結果的に、彼らの業績を増やし、就職につなげる機会を与えられる。私もそうして育ててもらったから、恩返しをしてるのよ」

「そういえば、私も博論を書いてる頃、リサーチアシスタントとして、プロジェクトの末端に関わらせてもらったわ。あのとき、どうやって個性豊かな研究者たちを同じ目標に向かわせ、予算を配分し、出版にこぎつけるかを間近で見られて勉強になりました」

「お役に立てたなら何より。来年から、女性政策がアクターと政策過程に及ぼす影響を特定する比較研究のために、財団から資金を確保したの。日本の事例も入れたいから、2人も参加してね。後ほど、詳細を送るから」

 ソフィーはパスタを口に運んだフォークを置いて言い添える。
「管理職としてできることは、研究以外にもいろいろあるわ。私の同僚に、副学長になって、自らが理想とする大学に近づける改革に挑んでいる女性がいる。確かに、彼女の研究は失速したけれど、仕事を心から楽しんでいて、若返ったように見えるのよ」

 彼女は、私と華にやわらかい笑みを注ぐ。
「あなたたちが、時間を自由に使える院生を羨むのはわかる。でも、2人は積み上げてきたものがあるじゃない。それを土台に、新しいアイディアが湧いてくる。研究経験が多い分、効率的に資料を集めて読み込み、学問的に意義のある研究テーマを見つけられる。何本も論文を書いた分、体裁を整えるのに慣れている。今のほうが、院生のときほど労力をかけなくても、論文を仕上げられるでしょ?」

「確かにそうです」

 ソフィーは、パスタを口に運んでいる私に視線を合わせる。
「Fukaは、何本か英語の論文を書いている。それらは、博士論文で構築した分析枠組みを土台に、さらに発展させたものね。その分析枠組みに基づいた研究を日本で出版して、財団の賞を取ったそうね」

 彼女の視線は華に移る。
「Hanaは博士論文を日本語で出版して、学会で新人賞を受賞した。教育中心の大学で多忙なのに、アメリカの学会誌に論文が掲載された。
 2人とも、院生のとき、私にダメ出しをされて、試行錯誤して、査読をパスできる論文を書けるようになった。私のもとで土台を築いたから、多忙でも研究成果を出せているの。自信を持って、管理職も研究も楽しみなさい」

 別れ際、ソフィーは宿泊するホテルのロビーで私たちに語りかける。
「これから何を選ぶかは、あなたたち次第。選ぶものは、その人の能力、置かれた環境によって、違っていい。何が優れていて、何が劣っているなんてない。2人が納得できる道を進むことを願ってる」

 言葉を切った彼女は、私に視線を固定すると、澄んだ声で言い添える。
「Fuka、迷ったときは難しい道を選びなさい。あなたは、東京の大学に行くと決めたときも、アメリカの院に進むと決めた際も、親に反対されたと言ってたわね。あなたが博士号を取った後、私はアメリカに慣れたあなたが日本でやっていくのは大変だから残ったほうがいいとアドバイスした。それなのに、あなたは日本に帰ると言い張った。あなたは、そうして難しい道を選んできたのが間違いだと思う?」
 
 華が私の迷いをソフィーに伝えてくれたに違いない。

 尊敬する恩師の言葉は、長いあいだ忘れていた挑戦心を思い出させた。思えば、私の人生は、敢えて難しい道を選ぶことを繰り返し、それを後悔したことは一度もない。


 夜風に吹かれ、鴨川にかかる橋を華と渡る。
「私、ソフィーの下で勉強していた頃は、博論を書いて、職に就くことしか頭になかった。研究職に就けるなら、教育や学務に追われることなんて何でもないと思った。だから、今の悩みが贅沢だとわかってる。私より才能があって、努力もしてるのに、職に就けない人もたくさんいるんだから」

 アメリカのアカデミックポストをめぐる競争は、日本よりも過酷だ。採用時の審査で要求されることは日本よりずっと多く、採用されてからもテニュアを得るための審査が続く。テニュアを得られないと、次の勤め先を探さなくてはならない。博士号を持ちながら、清掃員をしている人が5000人以上いると何かで読んだ。

 不意に俊一の苦悩に満ちた顔が浮かぶ。彼がアカデミックポストに就けていたら、私たちは結婚していただろうか。そうしていたら、私が龍さんと付き合うことはなかっただろう。あり得なかった未来への考えは深まらず、夜風に流されていく。

「同感です。人間って、欲が出るんですよね。私も今後のことを考えます」

「華は、これから何がしたい?」

「私、まずは偏差値の高い大学に移って、優秀な学生を教えたいです。もう、Fラン学生の機嫌取りをしながら、勉強していただくのは疲れました。W大に非常勤に行って、優秀な学生を教えると、本当に充実感があるんです。私は、そのほうが向いてると痛感します」

 華の日々の苦悩が伝わってくるが、学生を貶める言葉に、心がささくれ立つ。私はそうした学生を啓発し、学問に誘うことにやりがいを感じる。O大の非常勤を続けているのは、そのためだと気づかされる。

「風花さんは、どうしたいですか?」

 生温かい風に前髪を乱されながら考える。
「うーん。私が一番やりがいを感じる場所で、必要とされたらいいなと思う……」

 対向車線の車のヘッドライトが当たり、憤怒の形相をした華の顔が露わになる。
「例のFラン大に移るってことじゃないでしょうね? 一生後悔しますよ」

「悪くないとは思ってる……」

「それなら、風花さんの就いてるポストが空きますね。私はそれを狙います!」

 華の意欲をむきだしにした目が私に向けられる。アメリカ時代から、華の語学力と研究能力に恐れと嫉妬を感じていた。私がH大に採用されたのも、彼女がFラン大に採用されたのも、タイミングと偶然に過ぎず、私の能力が勝っているからではないとわかっている。華が私の後任に就くのは能力的に全く問題がなく、むしろ彼女が就いてくれれば嬉しい。それでも、彼女が私の使っている研究室の主になり、私の担当していた科目を引き継いで教壇に立ち、同僚の先生方と談笑している姿を想像すると、強い嫉妬が突き上げてくる。それが、H大への愛着からか、華が実力にふさわしい環境で能力を発揮することへの恐れからかはわからない。多分、その両方だろう。