連載小説「クラリセージの調べ」3-5
絹さんの妊娠、毒のある言葉が鋭利な刃物のように胸に刺さり、何か安らぐものに触れたくなる。ネブライザー式のアロマディフューザーにレモングラスの精油瓶を取り付け、パソコンに取り込んであるCeltic WomanのSomedayを流す。爽やかな香りと透明感のある歌声が、傷に包帯を巻いてくれる。
周囲が暗くなり、結翔くんの車の音がするまで、香りと音に満たされた空間に身を委ねていた。暖房をつけっぱなしにしていたので、肌がすっかり乾燥してしまった。
結翔くんが入ってくると、冬の匂いがほのかに漂う。彼は疲労を無防備にさらし、夜気を帯びたダウンジャケットを私に渡す。期末テストの採点に伴う疲労が、目元に滲んでいるのが痛々しい。
彼は、「あのさ」とためらいがちに切り出す。
「さっき、絹姉ちゃんから、澪が訪問診療の医者と仲良く話してたって電話があったんだけど……」
大きな溜息が出る。同級生と話したくらいで、なぜおかしな詮索をされねばならないのか。
「中学の同級生だから、車までお送りするとき、ちょっと話をしたよ」
「なんか、携帯出して連絡先を交換してたと言ってたけど」
「おじいちゃんがしっかりしているうちに、孫ができたと報告したいから、どれくらい大丈夫か尋ねたの。不妊治療のステップアップもあるし。そしたら、内臓がしっかりしているので、今すぐにどうなるわけでもないから、ぼけが進行しないようにたくさん話しかけて、脳に刺激を与えてとアドバイスをもらった。それで、何かあったら相談してと連絡先を教えてくれたの」
「何だ、そういうことか。絹姉ちゃんが、すごい剣幕で掛けてきたから何事かと思ったよ。俺も、じいちゃんともっと話すよ」
「私もそうする。今日はアルバム見ながら、市川家のことをたくさん教えてくれた。私、何も知らないから、続きを聞くのが楽しみ」
結翔くんの目元が緊張を帯び、視線が凍ったように固まる。
「どうかした?」
「いや」
結翔くんは「腹減った」と、マスクを外してサラダボールのミニトマトをつまみ食いする。
「その先生と、もう一人の同級生でランチする話があるんだけど、行ってもいいかな?」
「もちろん。そんなこと、俺の許可取らなくてもいいのに」
「ありがとう。結翔くんも来る?」
「いや、俺は遠慮する。楽しんでくるといい」
ふと思ったが、私は結翔くんの友人に紹介されたことがない。この家に友人を招待したこともない。クラスの中心にいるタイプの彼は、ずっと地元にいることもあり、友人が多そうだが、コロナ禍で会うのを遠慮しているのだろうか。
★
食卓についた結翔くんは、シーフードカレーを平らげ、おかわりを所望する。海鮮の風味が残るように、出汁をとって煮込んだので、口に合ったのが嬉しい。
「絹さん、第二子ができたんだってね。おめでたいね」
結翔くんが気を遣って口に出さないのを慮り、私から切り出す。
「ああ、聞いたんだな。澪は焦らなくていいからな。まわりが何を言おうと気にしなくていい」
ティッシュで口元を拭ってから、彼は真直ぐに私を見つめる。
「ありがとう。私は平気だよ。皇太郎くんはお兄さんになるんだね」
彼の眼差しと言葉が、胸に滞っていたものを溶かしてくれる。
「今日、お義母さんに聞いたけど、近いうちに母屋に四家族が集まって、お祝いの食事会をするんだってね」
「はあっ? コロナとインフルの感染者が増えてるのに何考えてるんだか。じいちゃんが感染したらどうするんだよ」
結翔くんが同じ考えなのが嬉しく、つい本音を漏らしてしまう。
「やっぱり、そう思うよね。お祝い事に水を差しては失礼だから言えなかったけど、この時期に大人数で集まるのはやめたほうがいいと思う。一応、お酒抜きでということだけど……」
「生まれたときならわかるけど、なぜ今かな。ここ数年は、年末年始の会食も控えてるんだぜ」
「それでね、メインにお寿司をとるけど、それ以外の料理とソフトドリンクは私が準備するよう言われたの。絹さんの好きなものと子供たちが喜びそうなものはメニューに入れようと思うんだけど、何がいいかな? 味付けの好みもあるだろうから、紬さんに聞いてみたいの」
結翔くんは眉根を寄せる。
「もう、そこまで話が進んでるのか。今更、中止にしろって言っても、面倒なことになりそうだな。けど、澪がそんな手間をかけることない。ピザのデリバリーとかファミレスのテイクアウトにしようぜ。俺が払う」
「無理。お義母さんが、手作りじゃなくちゃ、ダメだって。孫たちに、おじいちゃんとおばあちゃんの家で食べた思い出の味を作ってあげたいそうです」
深く溜息を吐いた結翔くんは、口の中のものを飲み込んでから、スマホを手に取る。
「紬姉ちゃんは知ってるのかな? スピーカーにするから、澪も聞いてていいよ。今まで、こういうときに料理してたのは彼女だから」
しばらく、二人のやり取りがあった後、紬さんは私が聞いているのを意識して話してくれる。
「……絹は辞退すればいいのに、ノリノリだから、私も言えなくて。私たちはコロナ感染が心配だから、絹夫婦にお祝いを渡したら、早めに失礼しようと思ってたの。でも、澪さんが押し付けられたなら、私と貴史さんは配膳と後片付けを手伝うわ。それから、飲み物はうちで買っていくね」
「紬さん、ありがとうございます! すごく心強いです。甘えてしまってすみません」
「気にしないで。メニューだけど、寒くなったし、お鍋がいいと思うの。お肉とお野菜を切るだけだから楽でしょ? お野菜もたくさん食べられるし。材料、鍋とコンロはうちが持っていくね」
「本当に助かります。何と御礼を言ったらいいか……」
「紬姉ちゃん、感謝! そういえば、この時期の食事会はいつも鍋だったな。俺、料理しないからわかんないけど、確かに楽だな」
「お母さんは手作り至上主義だから……。私、子供が小さいのに、大人数の料理するのは大変だったのよ。だから、鍋にしてたの」
紬さんは、思いついたように言い継ぐ。
「結翔、あんた食べるだけじゃなくて、ちゃんと手伝うのよ。昔から王様扱いで、何もしなかったんだから。まあ、市川家の男性はみんなそうだけど」
「はい……」
叱責に舌打ちする結翔くんに笑いを誘われ、勢いづいて尋ねる。
「あの、絹さんとお子さんたちが好きなものを作ろうと思うのですが、何がいいでしょうか?」
「絹の好物はグラタン。子供の頃から、具合悪い時はいつも食べたがってたわ。それから、つわりが落ち着いたかわからないから、酸味のある果物があるといいかも」
「了解しました。教えていただいて、本当に良かったです。悠くんは、好きなものはありますか? 皇太郎くんはハンバーグが好きなので、食べやすいミニハンバーグを作ろうと思うのですが」
「悠のことまで考えてくれてありがとう。悠は鶏の唐揚げが大好物。シンプルなお醤油味でいいのよ。実は私もいい年して唐揚げ大好き」
「あはは、わかりました。では、私はグラタンとミニハンバーグ、唐揚げ。お寿司の付け合わせに、澄まし汁とほうれん草のお浸し。デザートに酸味のある果物とパウンドケーキを用意します。ケーキはアイスクリームとフルーツを添えて、カフェ風にします」
「うわあ、美味しそう! おじいちゃんも食べられるものがあるし、絹も子供たちも喜びそう。うちの男性陣は良く食べるけど、それだけあれば十分だと思う」
「だといいのですが……」
「大丈夫。何かあったら、いつでも連絡してね」
紬さんの温かい心遣いに触れ、頭上を覆っていた雲が晴れた気がした。
★
食事を終えた結翔くんは、ソファに掛け、ノートパソコンでテレビドラマのDVDを見始める。
「『最愛』? ちょうど、結翔くんと出会った頃に放送されてたね。私、毎週楽しみに見てたよ」
結翔くんは画面に集中したまま答える。
「友達が、俺が加瀬弁護士に似てるから観ろって勧めてくれたんだ。加瀬さん超格好いいな……」
「わかる。弁護士である加瀬さんが、犯罪に手を染めてまで梨央と弟の優を守るのがすごく印象に残ってる。最初は、梨央に対する恋愛感情が入ってるのかと思った。でも、そうじゃなくて、家族を守るという意識なんだよね。父親のように、兄のように……、でも恋人ではない」
私は結翔くんの隣に座り、彼の肩に頭を預ける。
「うん。俺も加瀬と梨央の絆が好きだよ。だから、加瀬が梨央に手を差し伸べたり、彼女を守って負傷したり、梨央がすがるように加瀬の腕を掴む数少ない身体的接触シーンに胸が騒ぐ」
「同感。あの関係、言葉にするのが難しいし、しないほうがいいのかもしれない。加瀬を演じた井浦新さんの演技が秀逸だったから、視覚化できたんだよね」
「確かに。役者が人物に息を吹き込むとは、こういうことだろうな」
「実は私、結翔くんが加瀬さんと似てるから、きゅんきゅんしながら見てたんだよ」
「はは。こんな格好いい男になれるように頑張らないとな」
結翔くんの目元にライムが弾けるような笑みが浮かぶ。
「でも、家族って、血縁じゃないよね。そもそも、夫婦は他人だもんね」
結翔くんは大きく頷く。
「血縁がなくても、結婚や交際をしていなくても、一緒に住んでいなくても、命がけで大切にしたい、守りたいと思う人ができることもある。いまの俺は澪を、澪との関係を全力で守りたい」
加瀬と梨央が長い年月を重ねて絆を深めてきたことに思いを寄せる。私と結翔くんも、他愛無いことを一緒に経験し、一つ一つ乗り越えることで関係を深めていくのだろう。そうしようと日々心を尽くしてくれた彼の姿が次々と浮かんでくる。彼への感謝と愛情が、体の底からマグマのように湧き上がる。
気が付くと涙が頬を伝っていた。
結翔くんはDVDを止めると、私の顎をすくい上げ、唇に力強く口付ける。私も彼の首に手をまわし、貪るように彼を味わう。私たちは折り重なるように身体を重ねる。傷つき彷徨ってきた二つの魂が出会い、絆を深めるように何度も抱きしめあう。検査のための交わりにも関わらず、今までで一番深く互いに溺れていく気がした。