連載小説「出涸らしのティーバッグ」第8話
8-1
ラヴェンダー色に染まる空は美しいが、陽が落ちても気温が下がらない日は憂鬱だ。夕食を済ませ、約束の時間にZOOMに入ると、彩子はすでに入っていた。テレワークブースを借りた竹内くんも、ほどなくログインする。
竹内翔真:
あれ、透さんは?
初対面の透さんを意識して緊張していたらしい竹内くんは、画面に映るのが彩子だけなのに気づいて尋ねる。私は仕事帰りに彩子とフェルセンで食事をしたとき、透さんに会っている。だが、ピアノ演奏の合間に簡単な挨拶をしただけなので、初対面と変わらない。
水沢彩子:
ごめんね、透はお店でピアノ演奏のリクエストが入ったから、少し遅れてくる。
竹内翔真:
そっか。忙しいのに悪いな。
水沢彩子:
その間に、うちの子たちを紹介するね。茶白猫の柚子♂5歳、白豆柴犬の胡桃♀1歳。保護団体から迎えたの。
彩子は1匹づつ抱き上げ、画面に近づける。柚子は大人しく抱かれていたが、胡桃は画面に興味津々で顔を近づけたがっている。
鈴木澪:
うわぁ、可愛い! なぜなぜしたい。
竹内翔真:
俺、実は犬猫苦手だけど、その子たちはキュートだな。コロナ禍の巣ごもり生活で、ペットを飼う人が増えているんだな。
水沢彩子:
竹内くん、苦手だったんだ。じゃあ、遊びに来てもらえないね……。
まあ、これがうちの子供たちだから。私の育児はこの子たちの世話。
彩子は胡桃を抱き上げて愛おしそうに頭を撫ぜる。ペットを「うちの子供たち」と言うのを聞き、彩子はどんな過程を経て、子供を持たないことを受け入れたのかと思いを馳せずにはいられない。
竹内翔真:
水沢さん、いまテレワーク?
水沢彩子:
その予定で採用されたんだけど、オンライン診療の需要が増えて、現場に駆り出されてる。ネット環境がない患者さんがオンライン診療を受けられるように、公民館とか商業施設、お寺に設備を置かせてもらってるの。明日は、うちの菩提寺で、初めてのオンライン診療があるから立ち合う予定。
竹内翔真:
この時期、病院に行きたくない人が多いし、いいシステムだね。会社が急成長してるのわかるよ。
車のエンジン音がかすかに聞こえ、彩子の抱いていた胡桃が腕からとびだすのが見えた。
水沢彩子:
透、帰ってきたみたい。胡桃は車の音がすると、玄関まで全力疾走で迎えにいくんだよね。
透さんは黒いドレスシャツ姿で、胡桃を抱いて画面に割り込んでくる。
吉井透:
遅れて本当にすみません、吉井です。初めまして。
40代半ばの透さんは、目の下のたるみと法令線が目立つが、目鼻立ちが整った正統派のハンサムだ。190センチの長身を生かし、モデルのバイトをしていた頃は、どんなに美青年だったのかと想像力が膨らむ。
竹内翔真:
初めまして。竹内と申します。水沢さんには大変お世話になっています。お忙しい時にすみませんが、宜しくお願いします。
鈴木澪:
鈴木です。ご無沙汰しております。お疲れのときに恐縮ですが、話を聞かせてください。
初対面の挨拶が済むと、透さんが画面に出て話し出す。
吉井透:
彩子から、神経発達症の俺が子供をつくらない理由をお二人に話してほしいと言われています。
俺は神経発達症の専門家ではなく、ただの症状に苦しんだ四十男です。なので、一緒に考えるスタイルでいきましょう。
竹内翔真:
ありがとうございます。
早速お伺いしたいのですが、透さんはどんなことを考えて、子供をつくらないと決めたのですか?
吉井透:
身も蓋もない言い方で恐縮ですが、単に子供が嫌いだからです。なぜかはわかりません。理屈ではなく、とにかく嫌いです。視界に入るだけで嫌で、声も大の苦手で、近くにいるだけで睨みつけてしまいます。触られると全身に鳥肌が立ちます。自分に子供ができるなど、考えただけで吐き気がするので、20代で精管結紮術、いわゆるパイプカットをしました。
神経発達症の診断を受けたのは昨年で、強迫症の治療をしていたときでした。なので、パイプカットの決断とは全く関係ありません。まあ、振り返って考えれば、育てる経済力も可愛がる気持ちもない俺が無責任に命を誕生させないように、神が子供嫌いにしたのかもしれません。
鈴木澪:
透さんの「理屈ではなく、とにかく嫌い」というのは、わかる気がします。
私はその逆で、とにかく子供が欲しい、産みたいという思いがあります。中学生くらいから漠然と、自分は結婚して、子供を育てると思っていました。子供を持たない人生を考えたことはありません。
だから、子供を育てることで自分も成長できる、親や祖父母を喜ばせたい、少子化を食い止める、子供に老後を助けてもらうとか、その他の理由はすべて後付けです。
吉井透:
うん。俺も、自分が神経発達症の症状が強い子だったために両親が離婚したとか、自分が学校で虐めを受け続けて、就職しても使い物にならなくて苦労したから、子供に同じ思いをさせたくないというのは後付けの理由だな。子供をつくらないことを正当化するために並べたものに過ぎない。
竹内翔真:
透さんと鈴木さんみたいなタイプは、結婚したら大変かもね。
吉井透:
はは、そうかもしれないね。
鈴木澪:
あの、自分も神経発達症で、同じ障がいを持つ子供の学習支援に携わっている男性が、障がいを遺伝させたくないから子供をつくらないと決めているんです。その方は、根っからの子供嫌いではありません。
子供が欲しい私と、そういう男性は、やはり難しいでしょうか?
吉井透:
難しい質問だね。あくまでも俺の考えだけど、子供を持ちたい、持ちたくないという思いは、変えるのが難しいと思う。だから、どちらかが相当無理をすることになるかもしれないね。
鈴木澪:
そうですよね、わかる気がします……。ありがとうございます。
竹内翔真:
俺とすずもそうだったけど、付き合ってても、そういうことを話し合うとは限らないよね。だから、かなり経ってから考えの違いがわかることもあると思う。
それまでに、絶対にこの人と人生を歩みたいと思う関係ができていれば、歩み寄れるのかもしれないな。
私とトーニオさんは、始まる前に考えの違いが露呈してしまったと思うと、絶望的な気分になる。私は、どちらかが犠牲を強いられすぎる関係は望まない。彼を幸せにできるのは私ではないとはっきりわかった。そのことが胸を切り裂かれるように悲しく、思った以上に彼を好きになっていたことに気づいた……。
吉井透:
話を聞いていると、彩子が変わった女で良かったと思うよ。そうじゃなければ、俺たちは婚約できなかったどころか、早々に別れていただろうな。
竹内翔真:
ええと、水沢さん、子供苦手なの?
私も彩子の答えが気になり、柚子を抱いて透さんの隣に座っている彼女を画面越しに見つめる。
水沢彩子:
親友の前で見栄を張っても仕方がないから本音を言うと、あまり好きではないんだ。女が子供嫌いと言うと、人格を疑われたり、親に愛されなかった人と思われるから言えなかった……。だから、透が子供を作らないと知って、正直安心した。
私、就職してから、自分は仕事が好きだと思った。いまの仕事も、オンライン診療を普及させるのが本当にやりがいあって楽しいし、社会に貢献している喜びもある。だから、育児よりも仕事がしたい。
彩子はそう言って透さんと視線を重ね、柚子を撫ぜる。
彩子の考えを初めて知って驚いたが、女性が子供嫌いと言いにくい社会が彼女を抑圧していたと思うと胸が痛む。私が彩子のようなタイプだったら、トーニオさんと上手くいくのかもしれないと思った……。
水沢彩子:
そう言えば、竹内くんはどのタイプ?
竹内翔真:
私は鈴木さんと似てます。いつか結婚して子供をつくると思っていたから、子供のいない人生は考えられません。けれど、男だから、産みたい、育てたいという本能的な衝動みたいなのは正直わからないです。
吉井透:
男は自分のお腹で子供を育てないから、父親という意識が形成されるのがゆっくりかもしれないね。奥さんが命がけで子供を産むのに立ち会ったり、子供にミルクを与えたり、風呂に入れたり、寝かしつけたり。大きくなったら勉強を教えたり、一緒に遊びに行ったり、進路や恋の相談に乗ったりして……。
竹内翔真:
そうですね。どんな子が生まれても、私は一喜一憂しながら父親になるのでしょうね。
あの、既にお聞きかと思いますが、私の妻の弟が神経発達症で統合失調症です。妻は神経発達症と診断されていませんが、可能性はあると思います。生まれてくる子供は、遺伝要因と環境要因が重なれば、発症する可能性があると思います。
実は、私の妹の夫もASDが強い神経発達症で甥に遺伝しました。甥はADHD、ASDと、読字障害のLDがあるようです。私の両親はカサンドラ症候群になった娘を休ませるために、たまに孫を預かります。甥は多動で癇癪もちで、感覚過敏もあり、両親はくたくたになっています。そのことがあり、両親は私と妻の結婚に慎重で、妹の子のような子ができても自分たちは体力的に手伝えないと言われました。私も甥の世話を手伝ったことがあり、大変さはわかるので、不安になっていました。
でも、いろいろ調べてみると、いまは医療や教育面で支援体制が整っているとわかり少し安心しました。今のうちに、できるだけ調べておいて、もしも子供に必要だったら活用したいと思います。そういう意味で、子供が生まれる前にわかってよかったです。
画面の向こうの竹内くんは、先日とは別人のように穏やかな面持ちで語る。父親の顔に近づいたことを頼もしく思う一方で、置いてきぼりにされた焦りが一陣の風のように胸を吹き抜ける。
吉井透:
そうだね。俺の世代は情報がなかったから、治療もソーシャルスキルトレイニングも受けないまま成人した。だから、俺のように必要以上の苦労をして、自己肯定感が持てなかったり、うつ病とか強迫症などの二次障害に悩まされている人もいる。
いまは、社会の理解が進んで支援体制もあるから、本人や周囲が楽になるように、医療や教育における支援を活用すべきだと思う。視力が弱い人が眼鏡をかけ、聴力が弱い人が補聴器をつけるように、脳の発達が凸凹の人にも配慮が必要だ。
特に、本人を支える親のサポートをもっと充実させてほしい。専門医や臨床心理士など理解のある人に相談でき、リアルでもネットでもいいから同じような苦労をしている親とつながってストレスを発散できればいいと思う。
竹内翔真:
はい、そういう支援が充実していれば、私も妻も心強いと思います。
私は、神経発達症の子供を育てる大変さばかりに目を向けていたのですが、妹から大変なのは否定しないけど、幸せな瞬間もたくさんあると聞きました。
鈴木澪:
具体的に、どんなことがあるの?
竹内翔真:
できなかったことができるようになったときの喜びが格別だと聞きました。
4才の甥は歯の治療を怖がって大泣きして、あまり泣くので治療ができないと歯科医に言われ、虫歯にフッ素を塗って帰されたことがあるんです。でも、母親である妹が、神経発達症に理解のある歯科医を探しました。その歯科医院は、甥に院内を探検させてくれて、器具を触らせ、一つ一つ何をするものか教えてくれたそうです。子供用の個室で、嫌な音が聞こえないようにイヤーマフを用意してくれて、いつも同じ歯科医と衛生士が治療してくれました。何度か通ううち、甥は泣かないで治療を受けられる日が増えました。
妹は泣かなかった日はご褒美を買ってあげるそうです。他の子より苦労する分、達成感が大きいようです。体操や工作、散髪など、苦手なことを乗り越えた子供を見たときの喜びは言葉にできないそうです。
あと、本人が得意なことを伸ばしてあげたいので、それを探すのが楽しみだと言っていました。甥は昆虫が好きで、どれだけ見ていても飽きないので、妹は図鑑をたくさん買ってあげました。いろいろな場所に出かけて、めずらしい昆虫を見せてやりたいと言っています。
鈴木澪:
大変だけど、やりがいのある子育てだね。
水沢彩子:
苦労は多いかもしれないけれど、本人が自己肯定感を持てればいいね。 透は、いろいろ苦労したと思うけど、いま幸せだと思える?
竹内翔真:
私が聞きたかったことを水沢さんに聞かれてしまったな。
吉井透:
正直言って、いろいろなことを諦めた末に、ようやく今の店に雇われてピアノや歌で金をもらえるようになったのに、強迫症を発症したときは死にたいと思った。何でこんな辛い人生を生きなくてはならないのかと、俺を生んだ母を恨んだ。
でも、そんなどん底にいるときに、彩子に出会えた。強迫症で奇行を繰り返す俺を見捨てず、治療の道を開いてくれた。病気が良くなったとき、初めて自分は幸せかもしれないと思ったよ。
だから、強迫症の治療で出会った仲間と、同じ病気で苦しんでいる人を励ますためにYou Tube配信やZOOMセミナーを始めた。最近、神経発達症の当事者や家族が交流するZOOMセミナーも開始した。彩子も手伝ってくれる。
周囲を恨んでばかりで、後ろ向きだった俺が他人を励ますほど前向きになれたのは、彩子に出会えたおかげだ。この年齢になって、悪くない人生かもしれないと思えたよ。
透さんが彩子の肩を抱き寄せて優しく微笑む。
竹内翔真:
それを伺えて安心しました……。勇気をもらった気がします。
竹内くんの声には、視界が澄み渡ったような響きがあった。
透さんの話を聞き、トーニオさんも今が充実しているからこそ、少年院を訪問し、スタークエストの無償提供を続けているのかもしれないと思った。
8-2
トーニオさんには、顔を見て気持ちを伝えたいと思った。このまま連絡を絶つことも、メッセージで済ませることもできたが、誠意を示してくれた彼に失礼だと思った。そして、自分の気持ちに区切りをつけるためにも必要なプロセスだった。
彼は、初めてZOOMで話した日と同じ明るい空色のボタンダウンシャツを着て、ビーズクッションを抱えて画面に現れた。前髪がおりて、少し若く見えるのもあの日と同じだ。
あのときは、子供に対する意見の相違など知らないまま、共通点が増えていくことを無邪気に喜んでいた。このまま、私が子供を持たないことを受け入れれば彼の隣にいられると思うと、流されてしまいたい衝動が湧いてくる。だが、あの日とは違うクラリセージの精油が、気持ちを立て直してくれる。
淹れたての黒豆茶をすすり、張りつめた心を落ち着かせる。ティーバッグは二杯目のためにとっておくことにする。
葉山圭介:
振られそうな雰囲気ですね。
私の固い表情を見たトーニオさんは、おどけた口調で私の気持ちを和らげてくれる。
鈴木澪:
私は葉山さんのお人柄が好きで、お仕事への姿勢も尊敬しています。
でも、私はやはり子供を産んで育てたいです。その気持ちが強い私では、葉山さんを幸せにできないとわかりました。
残念ですがお付き合いはできません。本当に申し訳ございません。
彼は一切の表情が消えたように茫然としている。私が彼を受け入れられなかったことで、彼の自己肯定感を低下させてしまったと思うと胸が潰れそうになる。
葉山圭介:
仕方ないですね。私は諦めることに慣れているので、気になさらないでください。
口角を押し上げ、笑みをつくってくれる彼を見ると、喉元が熱くなる。何か話すと泣いてしまいそうなので、俯いていることしかできない。
葉山圭介:
でも、嬉しかったですよ。たとえ嘘でも、あなたが私の人柄を好きだと言ってくれたことが……。
鈴木澪:
嘘じゃありません! 私はあなたを好きになってしまったんです……。
葉山圭介:
私も同じ気持ちでした……。
彼は潤んだ目を隠すように俯き、私が話せるようになるまで待っていてくれる。
とっておいたティーバッグで入れた黒豆茶は味も色も薄い。それでも、口に含むと気持ちが鎮まっていき、彼に一番伝えたい言葉が出てくる。
鈴木澪:
私の同期と奥様のあいだに生まれてくる子は、もしかしたら神経発達症かもしれません。でも、いまは医療や教育面における支援が充実していて、当事者や家族が情報交換できるネットワークも充実しています。葉山さんが開発したスタークエストのように、学習をサポートするアプリもあります。そうしたことが彼の不安を和らげてくれました。それを思うと、改めて葉山さんへの敬意が湧いてきます。
どうか、これからも神経発達症を持つお子様やご家族のために、葉山さんの能力やご経験を生かして頑張ってください。神経発達症を持つ方が、不安にならずに親になる選択ができる日が来ればいいなと思います。
葉山圭介:
いまの私には最高のエールです。
私は自分の子供をつくりませんが、これからスタークエストに出会う子供たちの父親になる気持ちで仕事に取り組みます。彼らが能力を発揮できる社会をつくることに微力ながら貢献できたなら、私が生まれてきた価値があるのでしょう。
澪さん、出会えて本当に良かったです。ご多幸とご健勝をお祈りしています。
あなたとしか呼んでくれなかった彼が、最後にファーストネームで呼んでくれたことが嬉しかった。
鈴木澪:
私も圭介さんと出会えたことで、いろいろなことに気づかせていただきました。本当にありがとうございました。心より幸せをお祈りしています。
ZOOMを切断すると、切なさで泣き伏した。クラリセージの香りが優しかった。