風花が舞う頃 15
梅雨の谷間の太陽は、日曜日で人気のないキャンパスに容赦なく照り付ける。今日は、来年定年を迎える篠田教授の後任の採用面接で休日出勤している。午前中の面接を終えて研究室に戻り、支給された弁当とペットボトルのお茶で昼食をとる。
教員の選考に加わるたびに、自分の採用時のことがフラッシュバックする。先生方を学生役に模擬講義をしたときの緊張感、質問に満足のいく答えが返せなかったふがいなさが鮮明に思い出され、記憶から消したくなる。あの頃、鋭い質問を浴びせてきた先生方と、採用する側に座っていることに、不思議な感慨が湧く。だが、それはすぐに、私がO大に移ると決めたら、後任の選考で、先生方に迷惑をかける申し訳なさに取って替わられる。私事に思考を飲み込まれ、選考に集中できなくなるのは厳禁だと思ったとき、ノック音が現実に引き戻してくれる。
「風花先生、少しいいかしら?」
福祉国家論の一条教授が入ってくる。政治学科では数少ない女性教員で、採用時からの指南役だ。旧華族の出で、凛とした雰囲気を絶やさない彼女の近くにいると、自然と背筋が伸びる。
「お昼休みにごめんなさいね」
「いいえ。どうぞ、お入りください」
冷房対策のサマーカーディガンを羽織った一条先生は、ソファに掛けると、雅な響きの声で話し出す。
「いただいた下仁田ねぎ、すき焼きにしたら、とても美味しかったわ。息子も主人も、こんな美味しいねぎは食べたことがないって」
「お口に合って何よりです。かきあげもお勧めですよ」
「あなた、あんないいねぎをかきあげにしちゃうの? 贅沢ね。そうそう、これ御礼よ」
差し出された袋の中を見ると、横浜の5つ星ホテルのエッセンシャルオイルが入っている。
「ええっ、ありがとうございます! 私がこれが気になってること、何でご存知なんですか?」
「ヨガに行ったとき、言ってたじゃない。あのホテルの入口に、すごく魅力的なアロマが漂ってたから、そのエッセンシャルオイルを買おうか迷ったって」
「ああ、覚えていてくださったんですね。嬉しいです。お心遣い、ありがとうございます」
恐縮する私に、一条先生は風に揺れるコスモスのように可憐な笑みを浮かべる。
「気にしないでいいのよ。それで、一つ相談なんだけど……」
先生が小さく膝を乗り出すと、かすかにお香の香りが漂う。美容院に行ったばかりなのか、生え際の白髪まできれいに染まっている。身なりに隙がないのが彼女らしい。
「冬にT大学院の集中講義を引き受けてもらったじゃない」
「ええ、オンラインでしたが、すごく楽しかったです。院生と深い議論ができて、充実した時間でした」
「それなんだけどね。今年は私がやろうと思ったけど、その時期は入試の谷間を利用して、海外調査を入れる予定なのよ」
「え、どちらへ?」
「イギリスとスウェーデン。インタビューをぎっしり詰める予定。それでね、T大は今年から対面に戻すんですって。オンラインなら、現地からやろうと思ってたけど……。もし、よかったら、またあなたにお願いしたいの。来年1月のこの3日間。どうかしら?」
「勿論、お引き受けします。でも、また私でいいんですか?」
一条先生は、私と目を合わせて力説する。
「あなただから、お願いしたいの。前回、どの院生の研究発表にも、有益なコメントをしてくれたと評判良かったのよ。あの大学は、量的分析を使う院生が多いから、あたしみたいに質的分析しかできないのより、計量政治がわかるあなたが喜ばれるのよ」
「恐縮です。満足していただける講義ができるように頑張ります。良い話をいただき、ありがとうございました」
レベルの高い大学の非常勤の話をいただけるのはありがたい。他大の院生の水準や研究テーマを知る機会になり、自分の指導力が試される場にもなる。ふと、こうした依頼は、私がH大の准教授だからもらえるのか、私個人の論文が評価されてのことか疑問が湧く。もし、O大に移ったら、機会が減る可能性が胸を過り、肩書ではなく私自身を評価してもらえるよう、誠実に務めなくてはならないと身が引き締まる。
「どうかなさった?」
「いえ、精一杯、務めさせていただきます」
一条先生は、目元に涼やかな笑みを浮かべる。
「あなたなら、安心してお願いできるわ。後で、しっかり御礼するわね」
「いえ、本当にお気になさらずに。こちらこそ、嬉しいお話をありがとうございます。あ、そろそろ時間ですね」
2人で研究室を出たとき、向かいの研究室から篠田先生が出てくる。選考には加わらないが、学部長兼研究科長の彼は責任者としてつめている。来年から、この研究室の主になる先生を選考中だと思うと、寂寥感と期待が複雑に混じって胸に広がる。
「お疲れさん」
篠田先生と同世代の一条先生は、くだけた口調で答える。
「もうひと頑張りしてくるわ」
篠田先生は、右手の拳を口元に近づけ、くいっと上げる。
「2人とも、今夜久し振りに行かない?」
「いいわね。学期末も近いし、お疲れ様会ね」
★
篠田先生と一条先生に加え、日本外交史の田中先生が加わり、神楽坂の海鮮居酒屋に向かう。篠田先生の御用達で、何度も来ているので、畳の個室に通されると友人の家に来たように寛げる。
篠田先生の選んだ日本酒の田中六五で乾杯する。お通しのたこ山葵の塩気と辛みは、辛口でさっぱりした日本酒と相性抜群だ。選考で気を張ったせいで、肩に滞っていた緊張がようやくほぐれていく。
篠田先生は脚を崩し、解放感のにじむ声で言う。
「一番勢いがある人が選ばれて安心したよ」
一条先生は、篠田先生の横顔が哀愁を含んでいることに気づかないふりをし、爽やかな声で受ける。
「世代や専門が違っても、いいと思う人は同じになるのね」
田中先生がネクタイを緩めて口を開く。
「しかし、面接されるほうは針の筵ですよね。もう、一生あっち側に座らなくてもいいと思うと、酒が旨いです」
「田中っちだって、うちが嫌になったら、また反対側に座ることもあり得るわよ」
一条先生のつっこみに、田中先生が開き直ったように答える。
「俺みたいなのは、ここに骨を埋めるしかないんです」
彼は学部から院までH大で、苦労して博士号を取得した後、数えきれないほどの公募に落ち続けた。研究能力がいまいちで、苦戦の末、努力賞のように博士号を取得したことも影響しているらしい。40の声を聞く頃、退官する指導教授を引き継いで専任講師に滑り込めた。他大では自分の能力が通用しないと痛感したことが、彼に複雑なコンプレックスを抱かせていることは、言葉の端々から伝わる。そのことがあり、同世代で気心知れた彼にも、O大のことは相談できない。
雑談を重ねるうち、刺身盛り合わせとほっけの塩焼き、海鮮サラダ、湯気を立てる厚焼き玉子が運ばれてくる。
肉厚のサーモンの刺身を口に運び、口内で生山葵と刺身醤油と溶け合う味覚を楽しむ。脂の旨味がじんわりと広がり、幸福感が全身に広がっていく。
「美味しいお刺身を食べると、これから来る講義評価なんか、どうでもよくなります。学期末にあれが来ると思うと、それだけで憂鬱ですよね」
田中先生が激しく同意する。
「見ると数日はへこむよな。あ、如月先生はいつも高評価だから、へこまないか」
「へこむよー。うちの評価よりも、非常勤先の評価はもっと怖い。数年前まで、全科目の評価を冊子にして教員全員に配布してたんだよ。最近は、予算カットで冊子にしなくなったけど、全体平均と自分の位置が示されるようになった。平均より下じゃないかハラハラだよ」
篠田先生が、熱々のほっけに醤油をかけながら尋ねる。
「自分の評価が、同僚全員に見られちゃうってこと?」
「非常勤含めて全員にです。その上、学生の自由記述の一語一句まで印刷されます。歯に衣着せない批判的なコメントを見ると、書かれた先生が気の毒になります。私はアメリカの学生に厳しい口調で書かれたことがあるので、免疫はありましたが、子供っぽい口調で生々しく書かれるのも刺さりますよ。事務員さんが、その文句を入力してると思うと、ああ、恥ずかしい……」
「それも考え物ね。学生のために講義の質を上げるのは賛成だけど、評価を恐れて厳しいことが言えなくなるのはね……。教員が学生に媚びすぎるのもどうかと思うわ」
「本当にそうですよ」
冊子には、教員が評価を見て提出した感想や反省、改善案も印刷される。学生から辛辣なコメントを書かれた教員が、一条先生と同じ趣旨のことを書いていた。
大根おろしを乗せた厚焼き玉子をつついていた田中先生が、箸を置いて口を挟む。
「学生の評価も怖いですけど、自分の論文の査読結果を開くときも怖くないすか?」
それには私も全面的に同意する。
「心臓が爆発するほど怖いね」
「どっちが怖いかって言われると、いい勝負ね。私は査読結果のほうが少し怖いかしら」
篠田先生が刺身とつまを取り皿に移しながらぼやく。
「本当にストレス多いよな。俺たち、何でこんなストレスだらけの仕事を続けてるのかね」
「本当にそうよ」
打ちのめされても、気力を絞って立ち上がる私たちは、この仕事に向いているのかもしれない。あるいは、この仕事以外はできないとわかっているので、しがみついているのだろう。
「篠田先生は、今年で、その苦行から解放されるのよね?」
「いや、そうとも限らない……」
篠田先生の言葉は、奥歯にものが挟まったような含みを残す。
「えっ、次はどこで苦行をお続けになるの?」
一条先生は、ずっと聞きたかったことを引き出しつつある高揚感を隠せない。私も気になっていたので、息を殺して答えを待つ。
「故郷の静岡に引きこもろうと思ったけど、もう少し苦行を続けることになりそうだ。老後資金を稼がないと定年離婚の危険があるからね」
篠田先生は自虐的な口調になりながらも、口元が緩んでいる。彼が口を割る意思を固めていると判断した一条先生は、もう一押しする。
「もったいぶらないで、白状なさいよ。あたしたち、ここだけの話にすると誓うわよ。ね?」
一条先生に同意を求められ、私たちは大きく頷く。
篠田先生は「まだ秘密にしといてな」と念押しし、声を落として話し出す。
「M大にグローバル・イシュー研究所ってあるだろ? そこの所長に内定してる」
「グローバル・イシュー?」
酒の回った顔で首をひねる田中先生に頷き、篠田先生は言葉を継ぐ。
「近年はグローバル化が進んで、既存の学問領域からでは、解決策が見いだせない問題が増えてるだろ? 例えば、日本にいる移民の子弟の教育問題は、二言語教育を専門にする言語学者や教育学者だけではなく、社会学、公共政策や地方自治の研究者が共同研究しないと全体像が見えず、効果的なアプローチ方法も見えてこない。その研究所は、そうした問題に挑むプロジェクト研究を立ち上げ、成果を発信している。
私も、フランスの政党政治を長年研究して思ったんだよ。フランスに限らず、近年のヨーロッパ諸国では、不況やイスラム教徒によるテロの増加、押し寄せ続ける移民への反発で、反移民感情を煽る右派政党の躍進が目立つ。社会の分断が進み、不満が募って、どん詰りだ。この状況をどうにかするには、移民の受け入れ国だけではなく、送り出し国側の状況も改善しないと無理だ。現所長と酒の席でそんな話をしていたら、後任になってそういう研究をしないかと話をふられてね」
「素晴らしい挑戦ね。研究所に所属する教員は、学部と大学院にも籍を置くの?」
「ほとんどは学部・研究科と兼任。研究所専任は、管理職4名と任期付き助教」
田中先生が呂律のあやしくなった口調で言う。
「やりがいありそうっすね。何年いられるんですか?」
「70まで5年」
「いいわね。私も来年までだし、そっちに引っ張ってよ。所長権限で、一人くらい入れられないの?」
「いいプロジェクトを立ち上げてくれそうなら考えとくよ。田中っちが出来上がってきたようだし、そろそろ冷やし中華を頼むか」
この店は海鮮のたっぷり乗った冷やし中華が絶品で、締めにオーダーするのが定番だ。私はそれを計算に入れ、胃袋に冷やし中華が入る容量を残しておく。
★
地下アイドルを見にいくという田中先生と別れ、3人で二軒目に向かう。一条先生が電話で席を確保してくれた店は、和菓子とアルコールのペアリングをしてくれるバーだ。
「ほほぅ、意外と悪くないね」
黒光りする煉羊羹を選んだ篠田先生は、ペアリングされたスコティッシュウイスキーを一口飲んで感嘆する。
「ウイスキーの苦みが、羊羹のねっとりとした甘味を引き立てている。両刀使いの私には至福の時間だ」
一条先生は、カウンターを振り返り、和服を着た40代くらいの店長と視線を交わす。
「お気に召したようね。由里子さんのペアリングは間違いないのよ」
この店では、日中は由里子さんの両親が和菓子の販売と和喫茶を営み、夜は彼女のバーになるという。黒で統一された店内に、和菓子の色形がわかる照明が行き届き、琴と横笛で奏でられる滝廉太郎の曲が静かに流れる。一条先生の趣味の高さが伺える店だ。
「あたしは、こちらの柏餅が大好物なの。いつも、それに辛口日本酒を合わせてもらうのよ。今日は山口県の獺祭。スパークリングで、口当たりさっぱりだから、ずっしりした餅菓子もお腹に収まってしまうの」
「くるみ柚餅子と甘口日本酒も、くせになりそうです。柚餅子のお醤油味と、日本酒のフルーティーな甘味が絶妙に溶け合います」
「良かったわ。あたしね、嫌なことがあったときは、こちらに寄って、気持ちを立て直して家路につくの」
グラスを半分ほど空けた篠田先生は、神妙な顔で羊羹をカットした楊枝を置く。
「一条先生、さっきの話だけどね」
由里子さんは難しい話になった空気を察し、カウンターの奥に退き、気配を消してくれる。他に客がいないので、店は私たちの貸し切り状態になる。
「例の研究所で、わが国に住む外国人の社会福祉体制の構築を研究するプロジェクトを立ち上げる話が出てる。在住期間の長い外国人研究者からも要望が上がってるそうだ」
「そう。私は専門外だけど、昨今の状況を鑑みれば、高齢者福祉も含めて早急に取り組まなくてはならない課題ね」
「あなたと専門が近いM大の先生も、専門外だって断るけど、現所長は誰かにやってほしいんだ。あなた、さっき、定年後に引っ張ってほしいと言ったよね。それなら、リーダーでやってみない? そうすれば、私があなたを引っ張る際にも有利に働く」
「専門外のあたしが?」
「共同研究者を募ればいい。あなたがリーダーになって、申請してくれれば採択される可能性が高い」
「そうねえ。でも、自分の研究もあるし……」
逡巡する一条先生の横顔を見ながら、様々な記憶の断片が無秩序に浮かぶ。中国人の父親をデイケアに出した同僚の顔、龍さんに外国人の介護施設の必要性を話したこと、日本語が不自由な木村くんのお母さん……。それらが日本酒で熱くなった脳内で絡み合い、喉元に押し寄せ、雪崩を起こしたように言葉が飛び出す。
「先生、やって下さい! 私、90年代の日系人受け入れの影響で外国人人口の多い地域を抱える県の出身で、現地のO大で10年非常勤をしてます。現状から見ても、その研究は、とても意義があります。実はO大も、その問題を認識し始めて、外国人の介護施設の設立に向けて動き出しています」
力説した私を不可解な目で見つめ、一条先生が尋ねる。
「そうなのね。でも、どうして、風花先生がそんなに熱くなるの?」
篠田先生も探るような目で私の答えを待っている。考えてみれば、脈絡を欠いた発言で、専門外の私が熱くなることではない。恥ずかしさとアルコールが回ったせいで、身体がうだるような熱を帯びる。血の気が増した脳は、この機会にO大のことを打ち明けてしまえという感情を引き起こし、理性をねじふせる。
「すみません。今する話じゃないんですけど……。実は、O大に移らないかと話をいただいて、ずっと悩んでいて……」