「カモメと富士山」6
「ここで、グラフを見せたほうが、わかりやすくていいんじゃない?」
朔くんは、抑揚のない声で即答する。
「必要ありますか? 今から作るのめんどいでしょう」
「私達ノンネイティブはスピーキングが弱いから、その分を視覚で補わないと。不明確なところは、重箱の隅をつつくように質問されるでしょう。グラフは私が作るから」
朔くんが気だるい溜息をつく。
「それは、いい対策かもしれませんね。それだと、パワーポイント必要になりますよね。パソコンって、持ち込むんですか? 設置されてるのを使うんですか?」
「授業によって違うよね。私、教授のティーチングアシスタントのエリンにメールで聞いてみる」
「頼みます。そういえば、水野さん、最近授業で発言するようになりましたよね」
「話さないと、いつまで経っても英語が上手くならないじゃない。理解されなくて、不可解な顔をされるのは堪えるけど……」
「そんなに、頑張らなくてもいいんじゃないですか。俺たち交換留学組は、1年乗り切ればいいんです。単位足りなければ、日本で取ればいいし」
私はこの1年で実用レベルの英語力を身に着けたい。外交官になりたいのに、英語で思ったことを言えないでは話にならない。
「朔くんは、スピーキング力を上げることを真剣に考えてないの?」
「俺、箔つけで来てるだけですから。この1年が終わったら、海外行く気ありません。日本で生きてくには、日本語できれば十分でしょう」
「そうだけど……」
交換留学の学内選考を突破できる時点で、TOEFLの点数を満たし、会話力もついている。その時点で、就職活動に有利になるレベルの英語力は身についている。
彼との温度差を感じながら、いつの間にか窓から入る風が冷たくなっていることに気付く。
作業中の私たちに、ミナさんがキッチンから声を掛ける。
「あんたたち、夕飯まだでしょう? キンパ作ったからどう?」
「え、いいんですか?」
「いいわよ。この間、富士美ちゃんが作った海鮮巻きを分けてもらったでしょ」
彼女は借りをつくるのを嫌い、お裾分けをすると必ず返してくる。当初は、それを他人行儀に感じた。だが、友人がルームメイトからの物質的依存に困っている話を聞くと、必要なけじめに思えてくる。
「俺もいいんすか?」
「もちろん。2人じゃ食べきれないもの」
私が常備しているレタスとミニトマトにナッツを刻んで散らし、オリーブオイルと塩コショウで和えたサラダ、朔くんが近所の高級スーパーに走って買ってきたマッコリとバドワイザーを添えたディナーが始まる。
朔くんがミナさんのグラスにマッコリを注ぎながら尋ねる。
「ミナさんは、免疫学の研究者ですよね? ずっと、アメリカで、やっていくんすか?」
「そうよ。私には、それしか選択肢ないの」
朔くんは小さく首を傾げたが、それ以上は深入りせず、注ぎ返されたマッコリを口に運ぶ。
ミナさんはグラスを置くと、両手を前に組み、朔くんに観察するような視線を注ぐ。
「あなた、日本に帰って卒業したら、どっち方面に?」
「キャリア官僚になります。親父が経済産業省とのパイプを強くしたいので、3男の俺を送り込もうって魂胆です」
「ご実家は、何か事業でも?」
彼が大手ゼネコンの名を口にすると、ミナさんが「へえ」と小さく声を上げる。
「経産省に何年か勤めたら、実家に戻るの?」
「わかりません。まあ、なるようになるでしょ」
彼は覇気のない声で返し、キンパを口に運ぶ。
「これ、うまいっすね。牛肉入ってる」
彼の恵まれた境遇からくる緩さに、苦労人のミナさんが不快にならないかとひやひやしてしまう。彼女は不満を口にしないが、バドワイザーを瓶から勢いよくあおる。
話の流れを変えようと、先日から胸に燻っていたことを言葉にする。
「話変わりますけど、先日、知人と話していて思ったんです。アメリカって多民族国家じゃないですか。だから、どこかの国とアメリカの関係が悪くなると、その国に血縁があったり、身体的特徴が似ている人々がヘイトクライムの標的になるじゃないですか。暴言や暴力、住居や施設の破壊、放火、殺人まで。そういうのって、理不尽だと思いません? その人たちが、出身国の政治外交に関与しているわけではないのに」
朔くんが乾いた口調で答える。
「仕方ないんじゃないすか。世界中からの寄せ集めの国である以上、そういうことは往々にしてあるでしょう」
「その国の出身者に怒りをぶつけるのは違うんじゃない? イスラム過激主義者のテロが起これば、国内のイスラム教徒、中東・南アジア出身者がヘイトのターゲットにされるそうだし」
「もちろん、お門違いのところに怒りをぶつけるのは違います。そういう単純な思考をするバカは、アメリカだけじゃなくて、どこの国にもいるでしょう」
「そうね。日本でも、北朝鮮がミサイルを発射すると、在日に怒りが向けられる。私みたいに、日本で細々と暮らしてた在日が何をするっていうのか……」
朔くんは、ぴくりと右眉を上げたが、感情を交えない口調で返す。
「外国にいるんだから、仕方ないんじゃないすか。国民と外国人では、当然受けられる権利は違うでしょう。嫌なら帰ればいいんです」
ミナさんが気色ばんだのを見て、私が割って入る。
「すぐ帰れる人はいいよ。でも、例えばアメリカでは、何代も前から、何十年もアメリカに住んでいて、市民権や永住権を持っている人がたくさんいるでしょう。ルーツになる国に行ったこともないし、言葉も話せない人もいる。そういう人に、嫌なら帰れと言うのは、違うんじゃない?」
「まあ、そうですね。でも、有事に外国人の権利が制限されるのは当然でしょう。中央政府が一番に守らなければならないのは自国民です。外国人にスパイ活動をされたら自国が危険に曝されるリスクがあるので、彼らを監視下に置くのは妥当です。外国人をヘイトクライムから守るために隔離するのも必要悪じゃないですか。日本だって、第二次世界大戦のとき、西洋人を軽井沢に集中疎開させたでしょう」
朔くんの言うことは正論で、反論の余地を奪われる。だが、それだけでは割り切れないものが胸に燻る。
「じゃあ、朔くんは、いま日本とアメリカが戦争になったら、私たちが拘禁されたり、ヘイトクライムに遭うのは仕方ないと割り切れるの? 留学を続けられなくなるかもしれないんだよ」
「私は困るな。ここまで頑張ってきたのに、帰されるなんてまっぴら御免。私は韓国人ですと声高に主張して残るわよ」
朔くんは眉一つ動かさず、淡々と答える。
「日本とアメリカが戦争になったら、致し方ないでしょう。ま、俺は雲行きが怪しくなったら、即日本に帰ります。戦争は、すぐに火蓋が切られるわけではなく、予兆があるでしょう。外務省は現地の邦人に退避勧告を出すじゃないですか。その段階で帰国しないのは自己責任でしょう。それでも残るなら、風当たりが強いときは家から出ないで、身を守るしかないでしょう」
彼はダメ押しのように続ける。
「水野さん、外務省志望ですよね? 在外公館は、現地で拘束された邦人の保護もさせられるんですよ。忙しいとき、自分勝手な連中のために、余計な仕事を増やされるのをどう思います?」
ミナさんが、小さく息を吐く。
「あんた、いい官僚になるわよ」
「光栄です」
朔くんは、口角をきゅっと押し上げ、大皿から追加のキンパを取り分ける。
「すみません、おかしな話になってしまって……」
私は取り繕うように2人を交互に見る。
「実は、私の亡くなった大叔父の親友に、日系アメリカ人二世がいるんです。彼が日本に来た時、アメリカに来たら彼を訪ねるよう言ってくれました。その人と大叔父は大学で親友だったのに、第2次世界大戦では敵味方に別れて戦わなくてはなりませんでした。大叔父は戦死してしまいました。だから、私の代では日米関係が良好であってほしいと思います」
ミナさんが思いついたように尋ねる。
「ねえ、富士美ちゃんの彼氏、アジア系入ってるよね? もしかして、彼はその人のお孫さんか何か?」
「ええ」
「なるほどね。いま、日米で戦争が起こったら、ロミオとジュリエットになっちゃうわけか」
「そんな大げさな……」
想像したことはなかったが、もしそうなったら祖母が悲しむだろうと思った。祖母の吊るしていた風鈴の音が胸の奥でこだまする。
★
後味の良くないディナーの余韻を引きずり、朔くんを下まで送る。ロサンゼルスの夜空は明るく、天を仰いでも星があまり見えない。
「じゃあ、また明日ね。気を付けて帰って」
踵を返そうとしたとき、意外と強い力で腕を掴まれる。心臓がびくりと跳ね上がる。
「もう少し、付き合ってくださいよ。煙草1本吸い終わるまで」
彼は煙草にライターで火をつけ、カバンから携帯灰皿を取り出す。煙草の匂いが鋭く鼻をつく。服や髪に匂いがつくのが嫌で、さりげなく距離をとる。
カリフォルニア州は喫煙に厳しい。気をもんでいる私に、彼は乾いた声でつぶやく。
「建物から6メートルほど離れれば吸ってもいいんすよ」
彼は煙草を口から離すと、私にかからない方向にゆっくりと煙を吐き出す。
「水野さん、もうすぐ誕生日ですよね?」
「何で知ってるの?」
「授業の後、シャキルや英絵さんたちと話してたじゃないですか」
「聞いてたんだ」
「誕生日、ディナーごちそうしますよ。その後、ドライブでもどうですか。グリニッチ天文台から夜景と星空を観ましょうよ」
「ありがとう。でも、彼と過ごすから……」
「つれないなあ。そんなに、アメリカ人がいいんすか。アメリカ人のデカいチンコより、俺のほうがいいと思いますよ」
「私がそんなことばかりしてると思ってるわけ? もう行くから!」
風向きが変わり、彼が吐き出した煙が、私の身体にまとわりつくように漂う。
「待ってください、口説き方を変えます。俺となら、日米関係なんか意識しないで、普通に楽しく恋愛できますよ。水野さん、あいつと会ってるとき、戦闘態勢みたいに気を張ってるでしょう」
「そんなことないよ」
「そうすか? 俺、キャンパスで2人を見かけた時、水野さんが戦場にいくような顔してると思いました」
「英語を話すから緊張してるの。早く、彼にふさわしい女になりたいし」
「俺となら、日本語で話せますよ。普段は英語で話してるんだから、彼氏といるときくらい、日本語で話したいでしょう? それに、奴とは1年でおさらばでしょう? 俺となら、一緒に帰国して、ずっと付き合い続けて、結婚できるんですよ」
「は、結婚? みかん農家の娘があなたに釣り合うはずないでしょう」
「あ、そこまで意識してくれてるんすね。水野さんは容姿端麗だから連れ歩くのに問題ないし、学歴も釣り合ってる。何にも問題ないじゃないですか」
「もう、そういうのやめて。私たち、友達でしょう」
彼は煙草をもみ消し、ふっと小さく息を吐く。
「そうです、友達です。友達は一緒に食事に行きますよね? じゃあ、誕生日の次の週末にディナーしましょう。名付けて、友情ディナー」
暗闇で表情が読み取れないが、彼は閉口する私を面白がっている気がする。断固拒否で通そうかと思ったが、完全に拒否すれば、気まずくなってしまう。
「わかった。美味しいものごちそうしてね」
彼は小さく口笛を吹き、軽やかな足取りでバス停に去っていく。