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恋の修羅道
楽しみにしていた『第45回 名古屋金春会』へ行ってきました。
今回は、能は『竹生島』と『清経』の二本立て。狂言は『口真似』でした。大抵、娘と一緒に行くのですが、彼女は能の時はすやすや寝ていて、狂言の時は楽しそうにしています。今回も、「狂言面白かった~能はクライマックスだけ観てた。楽しかったよ」とのこと。
能をよく観られるという方でも、居眠りすることはあると言っていらっしゃるので、演者の方々には何卒許していただけますように…
『竹生島』はお詣りもし、また最近、仕舞のお稽古でやりましたので、前回観た時よりも、謡や舞の躍動感をそのまま感じることができて楽しかったです。
衣装がとても素敵でした。
さて今回の目玉は『清経』です。世阿弥作の修羅能で人気曲です。
平清経は『平家物語』巻第八の「大宰府落」でちらりと出てきます。
小松殿の三男左中将清経は、もとより何事も思ひいれたる人なれば、
「都をは源氏がためにせめおとされ、鎮西をば惟義がために追ひ出される。網にかかれる魚のごとし。いづくへゆかばのがるべきかは。ながらへはつべき身にもあらず」とて、月の夜心をすまし、船の屋形にたちいでて、横笛ねとり朗詠してあそばれけるが、閑に経よみ念仏して、海にぞ沈み給ひける。男女なきかなしめども甲斐ぞなき。
この能のメインは残された妻のやるせない恋心です。清経は、戦に行く前は「必ず帰ってくる」と妻に約束していたと思われます。妻は、戦に行くのだから帰れないこともあろう、と半ば覚悟をしながらも、「戦いの中ででも、私のことを思ってくれていれば、どんな形で帰ってきてもよい」と哀しみを抑えながら夫を送り出したことでしょう。ところが、清経は「自分の名誉のために」自死した、のです。
清経の遺髪を彼の家臣が妻のもとへと持っていく時に、妻は夫の死のあり様を知らされることになります。
ところで、よくこんなお話を考えついたな、と思ったのですが、『平家物語』というのはたくさんの類本があり、その中の一つに遺髪をめぐる妻の話があるようで、世阿弥はそれを参考にしたようです。
さて、夫が身投げしたと知らされた妻は、「必ず帰ってくると約束したのに。討死や病死ならまだしも、身投げとは」と怨みを述べます。夫の遺髪を見ていると辛いので…と宇佐八幡宮へと送り返してしまい、せめて夢に出てきてくれれば…と悲しく独り寝をするのでした。
今回の『清経』は「恋ノ音取」と小書きのある、ちょっと特別なもの。これは笛方が吹いては止め、吹いては止めするのに合わせて、シテが歩いては止まり、歩いては止まりを繰り返しながら、橋掛りをゆっくりと舞台へと移動してきます。
妻の夢の中に引き寄せられてくる夫の亡霊が、だんだんと近づいてくる、という演出です。
笛方もシテも大変だろうな…と思います。笛方の演奏が始まる前には、後ろにもう一人の笛方が控えます。最初「なぜ笛方が二人も?」と思ったのですが、おそらくこれは、役者さんでいう後見(何かあった時にすぐに交代できるようにする控え)なのだ、と思い至りました。
ゆっくりと歩むシテには、なんとなく『道成寺』の乱拍子を思い出してしまいました。
夢の中に現れた夫に喜びながらも、「なぜ身投げをしてしまったのか。私に嘘の約束をするとは」と怨みを述べる妻。しかし、それをさえぎって、清経は「それなら自分も怨みがあります。せっかく形見を残し、それを傍に置いて欲しいと思ったのに、返してしまうとは」と、妻を責めます。
妻が「形見を見るたびに思いが乱れるのです」と言い、「わざわざ贈ってやったのに」と清経が言う。二人の想いは平行線です。
あまり現代的な感性で考えてはいけないかもしれませんが(私は女性の立場ですから余計に思うのかもしれません)、妻の言っていることに強く共感します。
「きっと帰るよ」と言っておきながら、「辱めを受けたくないから」と身投げする。本人はその気はなかったかもしれませんが、自分の意志で妻のもとに戻ることを断念したわけですから、結果的に妻に嘘をついたことになります。それを申し訳ない、と思う気持ちはこれっぽっちもないように感じます。ラブラブ夫婦だからという甘えでもあるんでしょうか。妻は俺にベタ惚れだから何があっても許してくれる、とか?残されたほうはたまったものではありません。
『平家物語』の残された女性の代表は勿論、建礼門院でしょう。彼女は身投げしたものの助けられ、一人生き残り、出家して大原の里に籠ります。そこに後白河法皇が訪れる「大原御幸」では、生きながらにして六道の地獄を見た、と語るのです。
この妻のこれからもそれに近いものになるでしょう。それに対して、夫は、最後に極楽往生するのを喜びながら消えて行くのです。
清経の妻:聞くに心もくれはとり、憂き音に沈む涙の雨の、怨めしかりける契りかな。
清経:言ふならく、奈落も同じ泡沫の、あはれは誰も、変わらざりけり。
清経:さて修羅道にをちこちの、
地謡:さて修羅道におちこちの…
と、修羅道のあり様を謡います。
これまでなりや真は最期の、頼みしままに疑ひもなく、げにも心は清経が、げにも心は清経が、仏果を得しことありがたけれ。
しかし、これは妻が、夫恋しさに、修羅道から自分の夢へと夫を呼び戻したために起こった邂逅でしょう。本来は、清経は一人でひっそりと成仏すればよいだけだったのです(何しろ清経は自分の唱えた念仏で成仏することができたので、妻に供養を頼む必要はない)。
そう考えると、これはむしろ、清経の妻の「恋の修羅道」の物語なのかもしれない、とそうも思うのです。
彼女の魂は誰が救ってくれるのでしょうか。