三重歴史紀行 (3):斎宮跡発掘記
三連休の中日は、秋晴れの太陽が照りつける中、斎宮跡の発掘調査現地説明会に参加してきました!盛大に日焼けしましたわ!!
飛鳥時代には、地形に合わせるようにして建てられていたのが、奈良時代になると東西の方位に合わせて建てられるようになります。少なくとも、2回以上は取り壊しをして、同じところに作り直しをしているのがわかったとのことです。斎王が変わる度に立て直しをしていたのでしょうか?
発掘により、飛鳥、奈良時代の斎宮宮殿は塀で囲まれていたことがわかりましたが、平安時代の斎宮には塀はなく、外部との境界はありません。何か根本的なところで、変わってきたのかもしれませんね。
発掘現場の一部から平安時代の土抗が見つかり、中から土師器の杯、高台(足つきの杯)などたくさん出土しました。それらは何らかの儀式後の掃除ででたゴミを、その穴に捨てたのかもと考えられているそうです。
平安時代には、斎宮はこの場所から東に移転しており、この地は儀式のみに使われた可能性があるそうです。なぜ、移転したのかはわかっておらず、天皇の系統が変わったからなど、いろいろ考えられているようです。
他にも須恵器、緑釉陶器、灰釉陶器などもみつかっています。分析によれば、猿投や三好などからの土で作られているものが多く、須恵器の土は美濃産!だとか。
どこの土がよいかなどは調査、研究する人がいたのでしょうか?これが、誰それのこだわりの土!とか。古代の人達の並々ならぬ熱意を感じますね。
飛鳥、奈良時代に斎宮跡があったこの発掘現場は、地形的に斜面の一番高いところにあるため、水はけがよく、景勝地でありました。
また、川(当時は櫛田川)に近いことで、斎宮の建設に使用する重い木材、儀式で使う大量の割れやすい器を、猿投、三好、美濃などからの運搬には便利だったと考えられます。
地盤は礫層で、調査によれば、井戸は2~4個のみであったようで、地下水が豊富であったと考えられます。
このような理想的な場所にありながら、9世紀の平安時代には、現在の斎宮の位置へ移転しています。その地は水のくみ上げには苦労したらしく21個の井戸が掘られており、そんな不便な地に、なぜわざわざ移転したのかは謎になっています。
それについて、現地で説明をしてくださったおおかわさんという方が面白い説を教えてくださいました。
日本に仏教が伝播し、聖武天皇により国を挙げての信仰が押し進められると、伊勢神宮にも神仏習合が導入されるようになり、神宮寺が設置されました。正式な発掘調査はされていないようですが、逢鹿瀬廃寺と呼ばれる寺が文献上で見られるようです。
現在、伊勢神宮はお寺の方は僧形のまま入ることができないと聞きます。伊勢神宮と仏寺が混合している時代があったとは知りませんでした。
奈良時代、称徳天皇の時代には、斎王が派遣された記録はなく、斎宮跡に寺院(逢鹿瀬廃寺)の瓦と全く同じ瓦や、仏具が見つかっており、斎宮の地に仏殿が置かれていた可能性が高いのだといいます。
しかし、称徳天皇が亡くなった後、仏殿が置かれた地を穢れたものとして移転したのではないか、と考えられるとのことでした。
これは、非常に面白いお話だと思いました。
https://shimane-kodaibunka.jp/wp-content/uploads/2023/02/ookawa.pdf
『仏教の浸透からみた古代伊勢の宗教世界』
斎宮歴史博物館 大川勝弘さんの論文
聖武天皇の娘、三姉妹のうち、姉は天皇(孝謙・称徳)、妹の一人井上内親王は斎王でした。姉妹二人で国家の宗教を担ったというのも天皇家に生まれた宿命なのでしょうか。
斎王というシステムは、ある意味、一人の女性の一生を犠牲にして成り立っているようなものですから、選ばれた人は気の毒だなあ、と思ってしまいます。
そんな中で、宗教は仏教者に任せておけ、とばかりに仏教に帰依し、斎王を送らなかった称徳天皇に、なんとなく親近感が湧きました。そして彼女もまた、斎王と同じく、独身を貫き、子供はいませんでした。国に身を捧げるのは、天皇たる自分だけでよいと思ったのかもしれません。
しかし、称徳天皇が亡くなった後は井上内親王の娘、酒人内親王が再び斎王として送られます。女天皇は称徳天皇後は嫌がられるようになり、血筋からは遠い光仁天皇を即位させた後、平安時代が始まります。
斎宮移転とは、この称徳天皇期の「反省」から改めて斎王システムを構築し直したためかも、と勘ぐってしまいます。
斎王は、後醍醐天皇の時代まで延々と続くことになるのでした。
称徳天皇期の神宮寺がどのような規模で、どんな構造だったのか、発掘調査で明らかにされると面白いなあ、と思いました。
帰りには斎宮歴史博物館に立ち寄りました。充実した常設展と、企画展が素晴らしかったです。
三重歴史紀行(4)に続く。