秋田の城跡
秋田旅行最終日は、秋田市に。
驚くほど都会でした(笑)。海外の方も沢山!夕方には飛行機に乗らなければならない予定で、時間配分を失敗した…と思いました。もっとゆっくり観光したかった…
1871年に佐竹氏により城が築かれ、明治まで270年続いた秋田藩のお城跡です。本来は「秋田城」というべきなのですが、古代柵である秋田城と区別するために、久保田城(久保田にある城の意味。秋田藩は広いので支城が横手と大舘にもある)と呼ばれています。今は千秋公園として、市民の散策コース。休みになるといろいろなイベントが開催され、観光客も多いです。
秋田犬と触れあうイベントがあると聞いていたのですが…5月5日からでした…しかし、ここには城を案内して下さるボランティアの方が待機していらっしゃった!!早速30分コースでお願いいたしました。…ああ、時間がもっと欲しかった…
佐竹氏は、前九年後三年の役で、安倍氏、清原氏を滅ぼした源義家の弟(三男)新羅三郎義光の子孫です。
源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼすために出兵した時に、源氏の旗である白旗を掲げて駆けつけました。感動した頼朝は、「同じ白旗であるとわからないから、扇を紋にせよ」といったとか…ガイドの方によると『鎌倉殿の十三人』に佐竹氏がちらっと出てくるそうですが、すぐ切られちゃうらしい…なんでだろ…?
うん…?なんとなく、『吾妻鏡』の記述だと頼朝冷たいな…佐竹氏の先祖伝来の話はもうちょっと感動的に書いてあるのかもしれん。
佐竹氏は常陸の国で勢力を伸ばし、戦国期には水戸城を持つ大名でした*。
しかし、関ヶ原の合戦に参戦しなかったことをとがめられ、秋田へ国替になります。
石高も54万石から20万石に減らされました。
*関係ないけれど、納豆発祥の地は後三年の役のあった横手のあたりと言われています。水戸で納豆が有名なのは、義光の家来が持って帰ったからなんだろうか…?
藩政時代の現存する唯一の建物。足軽が、門番、警護、火災消火などの役目のために24時間交代で詰めていたそうです。ほぼ月に1回くらいの当直だったみたい。大変だな…
表門を上がると城内に入りますが、これまた広い。
城内には、八幡秋田神宮(源氏の氏神)や、与次郎稲荷神社などがあります。
与次郎は、初代藩主義宣に仕えた、この辺りに住んでいた狐と伝えられます。飛脚狐と呼ばれ、秋田と江戸を六日で往復(!)したとか。しかし、人間の飛脚に妬まれて罠にかけられ殺されてしまったそうです。城を開く時には、そこに住んでいた、主ともいうべき動物たちがいたことでしょう。城内に鷹狩のための特別の小屋もあったそうで、獲物は遠く江戸にも献上されたとか。鶴なども狩ることがあったそうです。鶴って…どんな味でしょうか…あまり食べたいとは思いませんが…
秋田藩は、幕末には奥羽越列藩同盟を離脱して官軍側についているので、戊辰戦争時には庄内藩から攻められたそうです。戊辰戦争については東北の人たちみんなが辛い思いをされているのでなんとも言い難いですが、同地方に住む人たちが代理戦争のような形で闘わなければならなかったのは気の毒だなあ、と思います。戦争をしたがるのは国の上部の人間だけで、苦しむのは民衆だと思い知らされますね。
城内には、彌高神社という神社もあり、平田篤胤と、佐藤信淵を祀っているそうです。なぜ平田篤胤なのかと伺ったところ、彼は秋田出身だからだとか。その思想で、東北の地の修験道がことごとく破壊されたのはなんとも皮肉な気もします…
時間がなくて説明をお聞きするだけになってしまったのが、なんとも残念でした。いずれリベンジします!
もう一つの秋田城
出羽にはもう一つの秋田城跡があります。天平5年(733)出羽柵として、秋田村高清水岡に建設されたもので、後に(760頃)秋田城となりました。
奈良時代から平安時代にかけて出羽の国に置かれたこの城は、地方官庁兼、当時蝦夷と呼ばれた人達への軍事基地として機能しました。もうひとつ興味深いことに、北方貿易、交流のためのおもてなし施設としての役目もあったようです。
昭和になってから本格的に発掘調査されるようになると、豊富に遺物が出土しました。官庁であっため、当時の公的文書も残されており、保存状態のよさにびっくりします。10世紀末頃から官庁としての役割は衰退していったようですが、戦争などで焼けたわけではないため、当時のものがよく残っていたようです。
元慶2年(878)に、蝦夷が蜂起し秋田城を攻めた元慶の乱が起こります。
凶作による飢餓、国司の重税、悪質な交易など様々な不満が爆発しました。当初武力で制圧しようとした朝廷でしたが、とても太刀打ちできず、争乱の平定には懐柔策が用いられたようです。その時に派遣されたのが、藤原保則や小野春風でした。
国内でこの時代の「水洗トイレ」が発掘されているのは唯一この秋田城だけだそうです。トイレの汚物沈殿槽の土から寄生虫の卵が発見され、中でも肝吸虫や有鉤条虫の卵が多かったようです。寄生虫学という学問がありますが、「トイレ学」をご専門にされている方もいるようです。
実は、人間のうんこというのは、当時の食生活、健康状態を知るためのもっともよいサンプルです。近畿地方で有名なのは長屋王や、藤原京のトイレですね。うんこから見つかる果物などの種で、当時食べていたものの種類がわかるのは当然としても、寄生虫の卵から食べたものがわかるのはなぜか。
寄生虫はその種類でどの生き物に寄生していたのかがわかるからです。
サナダ虫(日本海裂頭条虫)ならサケ、マス、肝吸虫ならコイなどの淡水魚。そして有鉤条虫は豚です。つまり有鉤条虫の卵が発見されれば、豚を常食にしている人間がそこでうんこをしたことになります。
古代の人が豚肉を主食としていた可能性も否定はできませんが、食用に育てていた記録はないようですので、おそらくは豚を主食する人が滞在していた、と考えるほうが妥当でしょう。
秋田城の水洗トイレの近くには寺院があったのですが、そこが迎賓館のようになっており、中国大陸、朝鮮大陸からの使者が宿泊していたのではないか、と言われています。
公式の記録によると、渤海国(7世紀から10世紀にかけて中国大陸、朝鮮半島にあった国)からの日本への使者が34回中、出羽国に6回来着しているそうです。秋田城の発掘物の中に朝鮮由来のボードゲームが発見されており、使者のもてなしとして(笑)対戦することもあったのかもしれません。
考古学的な裏付けがあると、文献によるものとは違う、「生身の人間」をより身近に感じることができる気がして面白いですね。
秋田城跡はいろいろなイベントや、研究会、講演会などが盛んにおこなわれています。また、遺跡の敷地内は復元の建物だけではなく、ARなどのバーチャル映像でも観ることができます。ボランティアの方もたくさんいたので、もっと時間が欲しかったです。これからもいろいろなことがわかってくると思われますので、今度来るときはもっと楽しいはず。
秋田の古代の柵:払田柵
実はこの秋田城に勝るとも劣らない規模の柵が、秋田県内でもうひとつ発掘されており、払田で見つかったために払田柵と呼ばれています。
後三年の役のあった金沢柵にほど近い横手盆地にあります。六国記などでは触れられていないそうで、そこに柵があることは長く知られていなかったようです。
明治時代に農作業中の水田から良質の杉の木材が隙間なく埋まっているのが発見されました。理由がわからないながらも、その木材を使って下駄や箪笥が作られるなどされていましたが、それを知った秋田出身の後藤宙外という人物(地方の名士。小説家)が、古代の柵の遺跡ではないかとの論文を発表しました。それをもとに1930年に発掘調査が始まりました。
まだまだ、じっくりと見たいところだらけでした。本当に時間配分を失敗したな…そして、もう少し勉強してから行けばよかったです。
城といえば、戦国期のものを想像してしまいますが、中世のお城、というのがどういうものなのかを知ることができて大変に面白かったです。
現在も発掘や研究が続けられており、「過去」について「最先端」のことがわかっていきます。古代は特に大陸との結びつきが強く、「日本人」というのは、実はごちゃまぜの血や文化を貪欲に吸収してできてきたのだ、とわかります。これまで信じられてきた歴史は、日々塗替えられていきます。まだまだ、過去に学ぶことがたくさんあると強く思います。京都や奈良だけではなく、当時のものを目で見ることができる場所にも沢山の人が行って欲しいです。
最後に、現地でボランティアで案内して下さる方たちに、感謝を捧げます。