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中津川宿と天狗党

 先日中津川宿へ行って参りました。馬籠、妻籠宿は、観光客用に当時の街並みが再現してありますが、中津川宿はごくわずかに面影が残るのみ。しかし、資料館が面白い、と聞いたので楽しみにしていました。

 以前に訪れた鵜沼宿と同じ、中山道の宿場町。ぎふ17宿のひとつです。
 中山道は東海道のように大きな川や、船の渡しが必要なく、また往来もそれほど多くなかったため、別名「姫街道」とも呼ばれました。1861年の皇女和宮の降嫁行列は有名ですね。

中山道の一つ


本陣跡
脇本陣 上段の間
脇本陣 庭
庄屋跡
庄屋跡
立派な卯建をもつ

 しかし、この中津川宿が関係する江戸末期の大きな事件というのは、「天狗党」に絡むものでした。

 1853年ペリー来航以来、水戸藩では藤田東湖による尊王攘夷の思想は高まっていました。そんな中、水戸藩士を中心とした彦根藩主井伊直弼の暗殺事件(桜田門外の変)が起きます。一部先鋭化した攘夷派のものたちと、それに対立する門閥派とで、水戸藩内での権力争いへと発展していきます。

 その中で藤田東湖を父にもつ、藤田小四郎は、徳川斉昭(水戸藩9代藩主)の息子である鳥取蕃主、岡山藩主、また長州蕃ともはかって、江戸幕府に攘夷を迫るべく、兵をあげることにしました。それに賛同した水戸町奉行田丸稲之衛門を大将に日光を目指して筑波山から兵が進みます。これが「天狗党」でした。

 思想を同じくするものたちが、どんどんと加わり、大軍となっていきます。当然、軍資金が必要になるわけですが、それを街道筋の商家から、半ば恐喝で巻き上げます。さらに、若手の田中愿蔵が率いる一派は、人殺し、火付けなども行い、傍若無人に振る舞います。このため、百姓たちは「天狗党」を恐れるようになっていきました。
 看過できなくなった水戸藩は天狗党を拒絶し(門閥派が主権を握ったことによる)、正式に幕府からの追討命令が下ります。
 水戸藩主の代理で事態収拾を任せられた松平頼徳は、藩内の権力闘争に巻き込まれて切腹させられ、頼徳側についていた武田耕雲斎(斉昭の腹心)も、天狗党と行動を共にすることになります。目指すは、京都の一橋慶喜。徳川斉昭の七男で、攘夷思想に理解がある。この方に口ききを頼もう。彼等はそう考えたのです(しかし、慶喜はまったくそんなつもりはありませんでした)。
 大将が武田耕雲斎となってからは、天狗党は統制がとれ、厳しい規律にしたがって進みますが、幕府から追討令が出ているため、どこの藩からも「うちの領地をさけて間道から抜けてください。そうすれば軍資金をお渡しします」と言われます。それに従い進軍中、中津川宿に到着したのでした。

町並みに当時の面影が
脇本陣の側には、歴史資料館がある

 中津川宿では平田国学が盛んで、水戸の国学にも理解がありました。そのため、天狗党の人達を暖かく持てなしました。
 横山藤四郎折綱は、戦死した息子の首を大事に運んでいましたが、自分たちをもてなしてくれた中津川宿の人達に首を埋葬してくれるように頼んだそうです。賊軍となった武士の埋葬。それは大変なことでしたが、このお墓はずっと守られ、今でも毎年慰霊祭が行われているのだということです。 
 出立の際に、感謝の意を込めて、田丸稲之衛門は鎧の片袖をちぎって置いて行きました。資料館に、展示されています。

 資料館には、島崎藤村の『夜明け前』の原稿などが展示されており、天狗党についての物語が長く語られてきたことを想像させます。実はこの有名な作品はまだ未読なので、いずれ読もうと思います。

資料館で購入できます

 天狗党は鵜沼宿まで進んだ後、先に待ち構える藩の連合軍を避けるために山越えをしますが、新保で降伏し捕らえられます。加賀藩預かりとなりますが、頼みの綱であった慶喜は何もすることなく傍観し、身柄は彦根藩へと引き渡されます。
 首謀者であったものたちは、その家族(妻、子、3歳児にいたるまで)ともどもすべて斬首、獄門、引廻し。許されたものたちも一部(遠流や寺で保護された)を除いて、ほとんどが水戸藩の牢屋で獄死しました。

 「夜明け前」の前に、その命を散らしていった人たちが最期に暖かい食事をとれるようにしてくれた宿場の人達、そして、その話や墓を守ってくれた人達がいるというのに少し救われる思いでした。