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「紅葉」:貴女か鬼女か

 小牧山薪能へ行って参りました。
 小牧城の石垣の発掘調査が進み、リニューアルオープン。城への登り道も綺麗に、楽に(笑)整備されています。周囲には何にもないので、犬山城下の賑わいには負けておりますが、広い公園が広がっています。そこを使って、祭の時は賑やかに飾り付けされるのです。今年は、コロナのせいで中断されていた薪能も開催されました!始まる前に、パラパラと雨が降ってきていましたが、なんとか最後まで無事に上演されました。
 
 今回の番組は、観世さんによる、舞囃子『箙』、和泉流『寝音曲』、そして、お能は『紅葉狩』でした。
 今年は(も?)異常な暑さでしたが、ようやく朝晩は少しは涼しいような気がしますね。早く本格的な秋がきて、素晴らしい紅葉狩を楽しみたいものです。そんな思いを掻き立てるような演目であったと思います。


紅葉のプロジェクションマッピング

さて、能『紅葉狩』のストーリーは単純です。

 ある秋の日、信濃の国、戸隠山で高貴な上臈たちが紅葉狩りの酒宴を張っていました。鹿狩りのために山に入り込んだ平惟茂は、邪魔をしないように通り過ぎようとするのですが、女たちが酒宴へと誘います。
 盃を重ね、女たちの美しい舞を見るうちに、惟茂はいつしか眠り込んでしまいます。眠った惟茂を見た女たちはどこかへ消えて行きます。
 夢うつつに、八幡宮の末社の神が現われます。女たちは「鬼」であり、お前を喰おうをしている、目を覚まして鬼を退治するのだ、と言い、維茂に剣を授けるのでした。
 驚いて目を覚ました惟茂を鬼女が襲います。しかし、神から授かった剣を抜き、鬼を切り伏せるのでした。

『紅葉狩』要約

 観世流「鬼揃」とのことで、前半の舞は、シテだけでなくシテツレが交互に舞ったり、後半のシテ鬼は通常は一人だけのところ、他のシテツレも被り物をして登場します。白頭のシテツレ鬼たちが、ぱっと被り物を取り払うと、手に持つのは紅葉の枝。惟茂とシテ鬼が格闘している時には橋掛りに控えます。シテ鬼の赤頭には、彼女らの持つ燃えるような紅葉の力が宿るようにも見えます。いつしか紅葉のほうを応援していたのですが、気の毒にも神剣によって滅ぼされてしまうのでした。
 篝火に輝く女性たちの着物やお面が美しく、なるほど「薪能」にぴったりの演目だと思いました。
 ダイナミックな演目なので、演じている人は大変だったろうな、とも思いました。前半の舞が素敵だったので、早く仕舞で習いたいです。


まだまだ紅葉はしていませんでした

 さて、この能のもとになったと思われるのが
「戸隠山の鬼女伝説」で、長野県長野市鬼無里の村に伝わります。明治時代にまとめられた『北向山霊験記ー鬼女紅葉退治之伝』によれば以下のような伝説であるようです。

 紅葉は、応天門の変で伊豆に流された伴善男の血を引く、伴笹丸の娘。奥州の会津で生まれましたが、やがて都に登り、源経基(清和源氏の祖。平将門の乱<天慶の乱>では活躍しなかったが、藤原純友の乱で鎮圧に貢献。のちに大宰少弐に任ぜられる)に見出されます。経基の寵をうけ懐妊しますが、正妻を呪った、との罪で信濃の戸隠山、水無瀬の里へ追放されます。
 そこで生んだ男児に経若丸と名付け暮らしますが、京の生活を忘れることができず、京を模した宮殿を作るのでした。 
 紅葉は、村の少女たちに裁縫や手芸を教えたり、病のあるものには薬や、呪術(当時は医術は呪術の一種)を施したりしていました。里人はそこを内裏屋敷と呼び、紅葉を崇めていました。
 ところがその財力の源は、略奪によるものだったということでしょうか。紅葉が四天王を従え、暴虐、乱行を欲しいままにしているとの上奏が都に届き、平惟茂に討伐が命じられました。軍を率いてやってきた平維茂ですが、妖術による反撃にあい歯が立ちません。そこで、北向観音に祈願したところ、夢枕に白髪の老僧が現われ、降魔の剣を授けられます。その剣をもち戦ったところ、紅葉を退治することができたのでした。
 それ以来、そこを鬼無里というのだそうです。

『谷の京物語 伝説の鬼無里』より要約

 この時に討伐を命じられた、平維茂が、謡曲『紅葉狩』でワキとして出てくる、余五将軍・平惟茂です。実はこの人物、『吾妻鏡』や『今昔物語』では有名ですが、史実には名前が見えません。中世研究家の野口実氏によれば(『中世東国武士団の研究』)平惟茂と平惟良は同一人物であるとのことで、現在はそれが通説になっています。

 平惟茂(惟良)もまた、<天慶の乱>に関連のある人物です。
 いわゆる「天慶勲功者」である、藤原秀衡、平貞盛、源経基たちは『兵の家』として、後年、武士の祖とされました。
 平惟茂(惟良)は、平貞盛の弟である繁盛の息子、兼忠の子でしたが、貞盛の養子となります。貞盛の十五男となったため、余五将軍と呼ばれ、そして彼はまた、鎮守府将軍とも呼ばれました。
 当時の奥州は、馬、砂金、鷲の羽(弓矢に使う)などを産し、北方の交易(北海道あたり?)で多大な利益が得られる地でありました。中央での昇進よりも実質的に儲かるこちらへ…と希望して赴いたのが、藤原秀郷流と、平貞盛流の人々であったのかもしれません。
 『今昔物語』巻第二十五 第五「平維茂、藤原諸任を罰つ語」は、陸奥国において所領を巡って争っていた両者を調停していた陸奥守・藤原実方の死後、二人が武力で衝突するお話です。一度窮地に追い込まれた維茂ですが、諸任の油断をついて打ち取ります。男は皆殺しにしましたが、妻や下女たちを傷つけることなく、実家へと送り届けた、と『今昔物語』は語ります。
 このお話は、それまで藤原秀郷流に独占されていた鎮守府将軍の座を巡る争いとも見ることができる、と中世研究家の元木泰雄氏は述べておられます(「奥羽と軍事貴族」)。
 史実にみる惟良(維茂)は、坂東で兵乱を起こしたり、府館を焼き討ちにして略奪したり、やりたい放題であるにも関わらず、一旦出された追討は中止となって、ついにその罪は問われることはありませんでした。これは当時の最高権力者、藤原道長との関係があったためです。やがて鎮守府将軍となって陸奥国に居住してからも、道長へせっせと貢物を送っていたようです。

 神の力を借りて、人に害をなす鬼を退治する。勇壮な能で、とてもダイナミックで楽しかったです。
 しかし、背後に潜む物語を調べていくと、叩き伏せられた「鬼」達は、何も語ってはくれません。
 伝説とはこのように「語られないこと」がとても多いので、想像するしかありません。

 後年、平貞盛流の嫡流、直方の娘は、源頼義の室となり、源義家を生みます。
 藤原秀郷流の子孫である藤原経清は、前九年の役で源頼義・義家親子と刃を交えることになります。父・経清を残忍に殺された藤原清衡は、平泉に黄金時代を築きますが、源頼朝の代まで戦いが受け継がれることになるのは言うまでもありません。これを見ると、「兵たち」のほうが、よほど罪深い存在のように思えてならないです。



参考文献

「谷の京物語」 ふるさと草紙刊行会
「対訳で楽しむ 紅葉狩」 竹本幹夫 檜書店
「内戦の日本古代史」 倉本一宏 講談社現代新書 
「平家」 倉本一宏 中公新書
「伝説の将軍 藤原秀郷」 野口実 吉川弘文館
「今昔物語集」本朝世俗篇上 講談社学術文庫

*本文中にカッコ書きしてあるものは、野口実氏のHPよりダウンロードした論文より。