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名古屋能楽堂『三月特別公演』

 名古屋能楽堂に行って参りました。
 今年、能楽堂の屋根の補修工事に入るので、4月から10月までは能楽堂が使用できないそうです。未確認ながら、トヨタ能楽堂も今年からメンテナンスに入るらしく、今年度の愛知県の能楽公演はしばらくお預けになるかも。その前の貴重な機会です。

 昨年度から、大河ドラマテーマで演目が選定されているらしく、3月は昨年度ドラマ『どうする家康』と、今年度ドラマ『光る君へ』のちゃんぽんラインナップ?のようであります。
 本日の能は『玉葛』と『是界』、狂言は『骨皮』でした。

 『玉葛』はご存知、『源氏物語』からのお話ですが、漢字が違いますね。これ、観世流以外の流派では、『玉葛』の字を当てるそうです。このように流派によって内容は同じでも、曲名が異なることが割とあり、統一されることなく今まできているようです。秘曲とされて、その流派でしか演じないものもありますし、なんだが伝統芸能って、宗教と似てますよね。

玉葛


 さて、本日の能の『玉葛』。 
 能は現行能といって、過去に創られ現在まで演じられ続けているものは全部で235曲あり、その中でも『源氏物語』を原作にしたのは10曲があります。
 この『玉葛』は、『源氏物語』が原作といっても、内容は玉鬘十帖と異なります。最近話題になっている「原作改変」は600年前から普通にあったようです。むしろもっと大胆に。「原作は紫式部だけど、舞台作者は違う人」。
 もっとも作者の紫式部はとっくに亡くなっていますし、著作権なんてない。それどころか作者を主人公にした話まであるし…当時の2.5次元創作の自由な創造環境よ…それにしても、私の『源氏物語』の解釈は違うし!って人はどうしたんですかね?


ある時、旅の僧が初瀬詣に初瀬川を訪れたところ、小舟に乗る一人の女に出会います。不思議に思った僧が彼女に声を掛けると、彼女は僧を二本杉のところへ案内します。女は、玉葛が早船で筑紫から逃げ出し、初瀬詣で右近と巡り合った時に歌に詠んだところであると語ります。そして、僧に玉葛の為に祈って欲しいといって消えて行きます。僧はその女性が、玉葛の霊であったと知ります。

恋わたる、身はそれならで玉鬘、いかなる筋を訪ねきぬらん
尋ねても、法の教に遇はんとの、心引かるる一筋に、
其ままならで玉鬘の、乱るる色は恥ずかしや
九十九髪
九十九髪、われや恋ふらし面影に
立つやあだなる塵の身は
払へど払へど執心の
長き闇道や
黒髪の
飽かぬやいつの寝乱髪
むすぼほれゆく思かな

「元雅と禅竹」能を読む③
角川文芸出版

 なんと玉葛は、恋の妄執のためにこの世をさまよっているのです。一体誰に恋してた?玉葛よ!

 『源氏物語』の玉鬘十帖の中の源氏って本当に、キモチ悪い中年男だな!て気がするのは私だけでしょうか?親友だった頭の中将とは、息子、夕霧と雲居の雁の恋の行方のことで仲違いしてから、ちょっとギクシャクしています。でもだからといって、頭の中将の娘である玉葛を自分のところに住まわせてしまうのってどうなの…いつまでも忘れられない昔の女(紫の上と逢う前の話だから、と言い訳しながら)の忘れ形見を、自分の傍において眺めているうちに、手を出したくなって添い寝って…そして、それをまんざらとも思っていない玉葛…紫の上にしてみたら、自分もまったく同じことをされていますから、気が気ではなかったと思います。

 この能は金春禅竹作だと言われていますが、彼の書く玉葛が「妄執」を抱いているのは、源氏に対して、なのでしょうか。

あるひは湧き返り、岩漏る水の思ひに咽び、
あるひは焦るるや身より出づる、魂と見るまで包めども、
蛍に乱れつる、影もよしなやはづかしやと

「元雅と禅竹」能を読む③
角川文芸出版

 蛍を仕込んで兵部卿の宮に見せたのは源氏でした。でも結局、源氏が「兵部卿もな~」と言っているうちに、玉葛は右大将(髭黒)と結婚して源氏のもとから去っていくことになります。そこには、彼女の意志はまったく感じられなく、仕方なく自分の人生を受け入れて従ったのではないか、と思ってしまいます。源氏は彼女を自分のものにしたいけれど、紫の上が怖くて(?)手が出せなかった…というか、紫の上の機嫌を損ねてまでも迎え入れるつもりはなかったのでしょう。賢い彼女はそれがわかっていたはずです。かといって、実の父親の思惑通り、天皇の后として宮中に入るのも地獄だったでしょう。
 果たして源氏に対して彼女は「恋」をしていたのでしょうか。私にはとてもそうは思えないのですが。「恋」という名前をつけてしまえばわかったような気になりますが、もっと根源的な苦しみを感じていたのではないか。彼女の苦しみは、女として生きるがゆえに生じたものであると私には思えます。

この妄執をひるがへす。
心は真如の玉葛。
心の真如の玉葛。
長き夢路はさめにけり。

「元雅と禅竹」能を読む③
角川文芸出版

 最後には成仏ができたのでしょうか。でも極楽に行って源氏がいたら嫌だろうな…

能の楽しみ


 よく、「能の何が面白いの?」と聞かれます。能が面白いか、と言われるとちょっと微妙で、今回の『玉葛』もそうですが、退屈な時間はすごく長い。前半は、玉葛はほとんど動かずに、坐って何かわからないこと(詞章といわれる台本がないと、謡を聞いているだけでは意味不明)をしゃべっています。ゆっくりした動き(というか、動いていない)は眠りを誘います。やがて後半になりシテが本性を現し、舞を舞うところはぞくりとするくらいすごい。意味はわからなくとも感じる何かがあります。でも、見終わった時に「あー面白かった!!」とあまりならない(時々そういうのもありますが)。ほとんどの場合は、「あれ?これで終わり?」という感じで終わる。解説は何もないので、よくわからないままです。
 私にとって、能の一番の面白さは、実は見ている時よりも、後からもう一度その舞台を反芻した時です。「結局何が言いたかったんだろう…?」と思いながら、詞章を眺め、記憶にとどめている舞を思い出します。謡を見ると、あ、あそこはこういう場面だったのね、とわかる。能の舞台の上は、ほとんど何も置いていないので、観ているのはシテの動きだけ。全部を覚えているわけではないのですが、その中で印象に残っているのは、自分の中のアンテナに引っかかったものでしょう。なんかよくわからんが、もしかするとこういうことがいいたかったんだろうか…?と考える、その時間が楽しい。
 多分、もう一度同じ舞台を見た時にやっと、「主体的に観る」ことができるのではないか、とも思います。それでもやっぱりわからないのでしょう。きっと「わかる」までリピートすると思います。

 とはいえ、能の一番の楽しみ方は「自分で演じること」に尽きると思います。
 それを実践していたのは、戦国から江戸にかけての武士階級でした。能は足利義満に愛好され、観阿弥、世阿弥が大成しました。
 朝倉義景は、足利義昭を一乗谷に招いた折に、配下の武将たちに能を舞わせたといいます。信長は『人生五十年~』の幸若舞で有名ですが、能も舞いました。けれどあまり傾倒しなかったようで、息子たちの能好きを戒めています。
 能好きというと、秀吉が有名ですが、彼が能を愛好したのは、晩年のわずか六年です。もっともその間は耽溺といっていいくらいに熱中し、自分で新作能を作り、それを舞い、配下の武将たちに観劇を強制しました。仲良く(?)家康とも舞大会を開いた記録がたくさん残っています。下手ではなかった…とのことですが、いくら下手でも時の権力者には言えないから、実際のところはどうだったのかは謎ではあります。
 もっとも家康は厭々付き合わされていたか、というとそうでもないらしく、彼自身も能好きで有名でした。今川氏のもとで人質生活を行っている間、下向していた観世十郎大夫から謡などの稽古を受けており、相当の自負があったのでしょう。自分で演じることも多く、その力量は玄人はだしだったと伝えられますが、やはり真実は謎(笑)。没するまで、能を愛好し続けたといいます。
 人質で明日にも殺されるかもしれない時に、何かに一身に打ち込めるものがあるというのは、精神安定に多大なる影響を及ぼしたでしょう。決して性急に成果を求めるのではなく、毎日コツコツとやることの大切さ、どこまでやっても決して完成ということはなく、道半ばであるのが常態といえる能は、彼の人生哲学をも形成したかもしれません。
 当然、息子たちも能好きで、歴代将軍は軒並み自分で能を演じました。やがて、能は武将たちの教養の一つとなり、現在まで各地で続いているのは、そのおかげと言えるでしょう。

『是界』

慶長6年(1601)3月11日・12日 大阪城
関ヶ原の合戦後、家康と豊臣家との関係は一旦落ち着きを見せます。この日の能楽は、数え年五十九歳の家康と九歳の秀頼が揃って権大納言に昇進した祝賀の催し。表向き対等な二人が大坂城で、それぞれに相手をもてなしました(一日目に観世大夫の「天鼓」、二日目に金春大夫の「是界」)。この日も、十四年後の大阪の陣、勝利の宴も、能楽が花を添えたのです。

パンフレットより

 こちらも宝生、金春、喜多は『是界』、観世は『善界』、金剛は『是我意』とばらばら。公演は、喜多さんなので『是界』でした。

唐の天狗の首領、是界坊は、人心を堕落させる目標の国を日本にすることにしました。そこで日本の天狗の首領太郎坊のもとを訪ねます。二人で話し合っているうちに、仏の教えの尊さを思い出してちょっとビビっているのを奮い立たせ(笑)、比叡山へと向かいます。そこへ都へ祈祷のために上京する僧正が車で通りかかります。僧正の車に手を出そうとした是界坊は、僧正の祈りによって現れた仏の眷属たちに懲らしめられ、唐の国に帰っていくのでした。

 途中で出てくる「車」が枠組だけの簡易型で、一人でも動かせて、組み立てると中で人が立てる優れもの!びっくりしました。そして、前半は山伏姿だった、後シテの是界坊の衣装の美しさ。面は天狗、頭は赤頭で、これはおそらくは限りなく、神楽に近いのでしょうね。ストーリーはあってないようなもの。呪術の掛け合いをするのではなく、「見えない」仏の眷属たちとの戦いの舞がメインでした。
 そういえば『天鼓』も中国の話です。
 慶長6年の大阪城の能楽の催しは、金春さんと観世さんの舞台での、いわば能合戦。お二流とも、さぞや胃が痛かったことでしょう…

 私も能で一番楽しいのは、演じる時だと思います。もっとも権力者でもない限り、プロの謡や囃子をつけて舞うのは大変。過去も同じでしょうから、そこで、仕舞や謡、のようなものができてきたのではないでしょうか。
 一部を取り出して、ハイライトだけを演じる。そのためには、ゆっくり、分かりやすく舞う必要があり、だんだんと動きがゆっくりになっていったのかもしれません。
 今回は、プロの仕舞も見ることができて感動しました。一つひとつの動きに無駄がなく、神経が末端まで行き渡っています。自分でも同じように動いているつもりなのに、全然違うんだよな…

参考

『源氏物語』と能

 本日、偶然ながらも、朝日カルチャーセンターのオンライン講座『「源氏物語」と能』を聴きました。源氏能の中でも、最高傑作といわれる「野宮」を読み解いていくという講座だったのですが、その導入のお話がとても面白かったです。
 講師は、能楽研究の泰斗、松岡心平先生です(先生を能楽の道へと向かわせた観世寿夫氏の舞台は、それを観たどの方もすごいと言っていて、できれば私も観たかったなあと思います)。
 『源氏物語』に因んだ能は、現行能では10作品ですが、廃曲になったものや、作詞だけされたもの、数回の上演だけで終わったものなどを含めると、おそらくは100曲を軽く超えるのだそうです。ところが、世阿弥は「源氏物語」を題材に曲を書いてはおらず、唯一『浮舟』の作曲を行っていますが、作詞は別の人物:横越元久です。
 松岡先生は、おそらく世阿弥は、『源氏物語』の完本(五十四帖)を手元に持つことができなかったのだろう、とおっしゃられていました。当時は、上流階級の人間でなければと持つことのできなかった本なのですね。
 また、政治的な理由もあったのではないか、とも。世阿弥のパトロンであった足利義満は、自分を光源氏になぞらえて北山(「若紫」の舞台)に邸宅を持っていました。そんな『源氏物語』ガチ勢の義満がいては自由な創作ができなかった…のかもしれません。
 時代が下って、娘婿の金春禅竹の時代になると、禅竹は『玉鬘』『野宮』を作ります。作中『源氏物語』の本文を直接引用しているところがあるため、彼は原本を隣において作品をつくることができたと思われます。そのテキストは、正徹という臨済宗の歌僧から借りたのではないか、と松岡先生はおっしゃっていました。

 『源氏物語』が日本の文学界のみならず、政治、その後の歴史にどれほどの影響を及ぼしたのかを考えると、紫式部は本当に人間だったのか?と後世の人が考えたのはなんとなくわかる気がします。
 そして、一つの完成した「物語」を題材にして別の芸術を作ることができるのは、おそらくは、「物語」の原作者と同じくらい、あるいはそれ以上の天才だけである。そんな気もします。