『遠野物語』と貞任伝説
昨年の夏に遠野に行きました。遠野市立博物館で「呪術展」なるものが開催されていたので、それを見に行きたかったのですが、見事に休館日でした…
気を取り直して、『遠野物語』の世界へレッツゴー。
誰もいない狭い山道は、とんでもなく静か。蝉の声すら聞こえない。かなりきつい勾配と、不安定な足元のために、ゆっくりと進みます。子どもたちははしゃいで先に走って行ってしまったけれど、私はなんだかずっと誰かに見られている気がして、何回も後を振り返りながら歩いていました。
そんな中、親子と思われるお二人が(お父さんと小さな娘さん)が音もなく道を下りてきた時には、悲鳴をあげそうになりました(すみません…慣れていらっしゃるようでしたので、地元の方なのでしょう…)。
岩や木の一つひとつだけではなく、森、山自体に神、あるいは、人間とは違う「何か」を感じるのは、根源的な感覚なのだと思います。自然が人間に対して何かを働きかける(災害や天候)時だけではなく、そこにあるものに畏れを抱く。畏れゆえに、無理に科学的な説明を加えることなく、アンタッチャブルな存在として祀りあげることで、「ひと」と「何か」との境界を守ってきた土地が遠野なのかもしれません。
遠野、というと、ポスターなどで有名なこの風景が思い浮かびますが、「荒神」というのがどういう神様なのかはよくわかりませんでした。権現様が祀られてるそうですが、他の神様の耳を食いちぎったと伝えられる荒ぶる神様とも言われます。昔はたぶん、他の場所にも、このような神社がたくさんあったのではないでしょうか。
遠野といえば、妖怪のふるさとでもあります。町中にも「カッパはいます!」という看板の立っているこの地ですので、ぜひとも「カッパ淵」で、カッパをつってみなければなりません。
「カッパ淵」に行くには常堅寺というお寺の境内を抜けて、裏手から回ります。
境内を抜けて裏手に回ると、カッパ淵へつながっています。
実は今、高橋克彦氏の『炎立つ』を読んでいます(*2024年2月25日現在、まだ3巻目)。読む前は、奥州藤原氏4代のお話かと思っていたのですが、「前九年の役、後三年の役」のお話でした。
平安時代に実質的に陸奥国奥六郡を治めていたのは、安倍氏でした。金山、良馬を産する豊な土地がありながら、俘囚(蝦夷)と蔑まれた彼等は、中央より派遣された陸奥守に服従を強いられます。両者の緊張関係は安倍頼時がなんとか保っていたのですが、燻り続けていた火種は、源頼義の任期が切れる直前に燃え上がります。前九年の役の勃発でした。
12年にも及ぶ、安倍氏棟梁、安倍貞任と源頼義、義家親子の争いは清原氏の参戦により、安倍氏滅亡で終わりを迎えます。貞任は殺され、弟の宗任は四国へと配流されます。当時、やはり中央から下向していた、藤原経清は平将門を討った藤原秀郷の子孫ではありましたが、安倍氏の娘を妻に迎えており、戦いが始まると、安倍氏へと走ります。貞任とともに果てた彼の血筋は、奥州藤原氏初代、清衡へと伝えられていきます。『炎立つ』の第一から三巻は貞任と経清が血肉の通った存在として書かれています。
なぜこれが関係するかというと、「カッパ淵」のすぐ近くには、安倍屋敷跡、と言われている場所があります。ここはかつては土淵村、というところだったようです。
旅行した当時は、ふーん…としか思っていなかったのですが(勉強不足…後から知って、もっとちゃんと見てこればよかった、と大後悔)、『遠野物語』の中には安倍貞任の記述がたくさんあります。
その地で死んだ人達の魂は何処に行くのか。その地に宿る「何か」と一体になって留まり、子孫を見守っていく存在となる。遠野の人達はそう信じたのかもしれません。
奥州を支配する藤原氏は、地上の極楽浄土を目指して、平泉に都を作り、仏教国としました。
清衡から100年の時を経て、奥州は源氏により支配されます。その将は、安倍氏を滅ぼした源義家の子孫である源頼朝でした。
奥州藤原氏の滅亡の契機になったのが、源義経を自害に追い込んだ衣川の戦いです。義経が自刃したと言われる高館義経堂は、安倍貞任と源義家とが邂逅した衣川柵とは、衣川を挟んでほぼ反対側で、間には中尊寺があります。どちらの行く末も衣川が見守っていたのでしょうか。
参考文献
岩手県江刺市が発行している『奥州藤原の郷 江刺 歴史と風土』が、めちゃくちゃ詳しいです。
あとは『陸奥話記』を手に入れて、読みたいです。