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『遠野物語』と貞任伝説

 昨年の夏に遠野に行きました。遠野市立博物館で「呪術展」なるものが開催されていたので、それを見に行きたかったのですが、見事に休館日でした…
 
 気を取り直して、『遠野物語』の世界へレッツゴー。

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 遠野の町に山々の事に明るき人あり。もとの南部男爵家の鷹匠なり。町の人綽名して鳥御前と云ふ。さて遠野の町と猿ヶ石川を隔つる向山と云ふ山より、綾織村の続石とて珍しき岩のある所の少し上の山に入り…ふと大なる岩の影に赭き顔の男と女とが立ちて何か話をして居るに出逢いたり。…

『遠野物語』柳田國男 大和書房
続石


泣石


弁慶の昼寝場

 誰もいない狭い山道は、とんでもなく静か。蝉の声すら聞こえない。かなりきつい勾配と、不安定な足元のために、ゆっくりと進みます。子どもたちははしゃいで先に走って行ってしまったけれど、私はなんだかずっと誰かに見られている気がして、何回も後を振り返りながら歩いていました。
 そんな中、親子と思われるお二人が(お父さんと小さな娘さん)が音もなく道を下りてきた時には、悲鳴をあげそうになりました(すみません…慣れていらっしゃるようでしたので、地元の方なのでしょう…)。

 岩や木の一つひとつだけではなく、森、山自体に神、あるいは、人間とは違う「何か」を感じるのは、根源的な感覚なのだと思います。自然が人間に対して何かを働きかける(災害や天候)時だけではなく、そこにあるものに畏れを抱く。畏れゆえに、無理に科学的な説明を加えることなく、アンタッチャブルな存在として祀りあげることで、「ひと」と「何か」との境界を守ってきた土地が遠野なのかもしれません。


荒神神社

 遠野、というと、ポスターなどで有名なこの風景が思い浮かびますが、「荒神」というのがどういう神様なのかはよくわかりませんでした。権現様が祀られてるそうですが、他の神様の耳を食いちぎったと伝えられる荒ぶる神様とも言われます。昔はたぶん、他の場所にも、このような神社がたくさんあったのではないでしょうか。

 遠野といえば、妖怪のふるさとでもあります。町中にも「カッパはいます!」という看板の立っているこの地ですので、ぜひとも「カッパ淵」で、カッパをつってみなければなりません。

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 川の岸の砂の上には河童の足跡と云ふものを見ること決して珍しからず。雨の日の翌日などは殊に此事あり。
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 遠野の河童は面の色赭きなり。佐々木氏の曾祖母、稺(おさな)かりし頃、友だちと庭にて遊びしありしに、三本ばかりある胡桃の木の間より、真赤なる顔したる男の顔見えたり。これは河童なりしとなり。

『遠野物語』柳田國男 大和書房

 「カッパ淵」に行くには常堅寺というお寺の境内を抜けて、裏手から回ります。

常堅寺

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土淵村大字土淵の常堅寺は曹洞宗にて、遠野郷十二ヶ寺の触頭なり。

*東磐井郡大原町の長泉寺末で、延徳二年(1490)の建立。阿部氏の菩提寺で郡中の古刹として知られている。「遠野郷十二ヶ寺の触頭」とは、曹洞宗十二ヶ寺の筆頭の意であろう。

『遠野物語』柳田國男 大和書房
境内

 境内を抜けて裏手に回ると、カッパ淵へつながっています。

カッパ淵

 実は今、高橋克彦氏の『炎立つ』を読んでいます(*2024年2月25日現在、まだ3巻目)。読む前は、奥州藤原氏4代のお話かと思っていたのですが、「前九年の役、後三年の役」のお話でした。
 平安時代に実質的に陸奥国奥六郡を治めていたのは、安倍氏でした。金山、良馬を産する豊な土地がありながら、俘囚(蝦夷)と蔑まれた彼等は、中央より派遣された陸奥守に服従を強いられます。両者の緊張関係は安倍頼時がなんとか保っていたのですが、燻り続けていた火種は、源頼義の任期が切れる直前に燃え上がります。前九年の役の勃発でした。
 12年にも及ぶ、安倍氏棟梁、安倍貞任と源頼義、義家親子の争いは清原氏の参戦により、安倍氏滅亡で終わりを迎えます。貞任は殺され、弟の宗任は四国へと配流されます。当時、やはり中央から下向していた、藤原経清は平将門を討った藤原秀郷の子孫ではありましたが、安倍氏の娘を妻に迎えており、戦いが始まると、安倍氏へと走ります。貞任とともに果てた彼の血筋は、奥州藤原氏初代、清衡へと伝えられていきます。『炎立つ』の第一から三巻は貞任と経清が血肉の通った存在として書かれています。
 
 なぜこれが関係するかというと、「カッパ淵」のすぐ近くには、安倍屋敷跡、と言われている場所があります。ここはかつては土淵村、というところだったようです。
 旅行した当時は、ふーん…としか思っていなかったのですが(勉強不足…後から知って、もっとちゃんと見てこればよかった、と大後悔)、『遠野物語』の中には安倍貞任の記述がたくさんあります。

安倍屋敷
安倍屋敷跡
周りは田んぼ

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 早池峯は御影石の山なり。此山の小国に向きたる側に安倍ヶ城と云ふ岩あり。険しき崖の中程にありて、人などはとても行き得べき処に非ず。ここには今でも安倍貞任の母住めりと言い伝ふ。雨の降るべき夕方など、岩屋の扉を鎖す音聞ゆと云ふ。
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 同じ山の腑馬牛よりの登り口にも亦安倍屋敷と云ふ巌窟あり。兎に角早池峯は安倍貞任にゆかりある山なり。小国より登る山口にも八幡太郎の家来の討死したるを埋めたりと云ふ塚三つばかりあり。
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 安倍貞任に関する伝説は此外にも多し。土淵村と昔は板野と云ひし栗橋村との境にて、山口よりは二三里も登りたる山中に、広く平らなる原あり。其あたりの地名に貞任と云ふ所あり。沼ありて貞任が馬を冷やし所なりと云ふ。貞任が陣屋を構へし址とも言ひ伝ふ。景色よき所にて東海岸よく見ゆ。
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 土淵村には安倍氏と云ふ家ありて貞任が末なりと云ふ。昔は栄えたる家なり。今も屋敷の周囲には堀ありて水を通ず。刀剣馬具あまたあり。
…安倍の子孫は此外にも多し。盛岡の安倍館の付近にもあり。厨川の柵に近き家なり。土淵村の安倍家の四五町北、小烏瀬川の河隈に館の址あり。八幡沢の館と云ふ。八幡太郎が陣屋と云ふもの是なり。
 
*貞任の末と伝える土淵村の安倍氏は南部氏時代には代々肝煎となり、維新後も暫く総代を務めたという。

『遠野物語』柳田國男 大和書房

 その地で死んだ人達の魂は何処に行くのか。その地に宿る「何か」と一体になって留まり、子孫を見守っていく存在となる。遠野の人達はそう信じたのかもしれません。

 奥州を支配する藤原氏は、地上の極楽浄土を目指して、平泉に都を作り、仏教国としました。
 清衡から100年の時を経て、奥州は源氏により支配されます。その将は、安倍氏を滅ぼした源義家の子孫である源頼朝でした。
 奥州藤原氏の滅亡の契機になったのが、源義経を自害に追い込んだ衣川の戦いです。義経が自刃したと言われる高館義経堂は、安倍貞任と源義家とが邂逅した衣川柵とは、衣川を挟んでほぼ反対側で、間には中尊寺があります。どちらの行く末も衣川が見守っていたのでしょうか。

高館義経堂から眺めた北上川
衣川は北上川から分岐し、
中尊寺と衣川柵の間を流れる

参考文献

岩手県江刺市が発行している『奥州藤原の郷 江刺 歴史と風土』が、めちゃくちゃ詳しいです。  

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あとは『陸奥話記』を手に入れて、読みたいです。