三重歴史紀行(1):関宿
秋晴れの中、三重県に行って参りました。三重といえば、伊勢・志摩、あるいは熊野がメジャーどころですが、今回はマイナー地域(すみません)でもある、関、津、松阪へ。この地域はガイドブックでは取り上げられないことが多いのですが、日本の歴史上では重要な役割を果たした地であります。それが伊勢国でありました。
関宿、地蔵院。天平13年行基が地蔵を安置したのが始まりと言われています。
お堂の前の鹿の像は「鈴鹿」の地の由来となった「鹿」に因んで造られたもの。壬申の乱で大友皇子を討つために吉野をたった大海人皇子は鈴をつけた鹿に導かれて関に到達したという逸話をもとにしています。
古代三関(不破関、鈴鹿関、愛発関)のうちの一つである鈴鹿関は重要な関所でした。「関」の名もこれに由来したものです。
江戸時代には、東海道五十三次の47番目の宿場町として栄えました。
関には、伊藤本陣と、川北本陣の二つがありました。よほど大きな宿場町だったんですね。
旅籠の中を巡っていると、往時の賑やかな息遣いが聞こえてくるようです。ここで旅の疲れを癒しながら、また次の宿へと旅立って行ったのでしょう。
車も、電車もない時代。旅はとんでもなく大変で、場合によって命懸けであったでしょうが、それを上まわる楽しさがあったからこそ、たくさんの人たちがこぞって東海道を歩いたと思うと、羨ましいですね。
奥の土蔵には、歌川(安藤)広重の本刷りの浮世絵が飾られています。
関宿を歩いている時に、福蔵寺、というお寺を見つけました。
「織田信孝菩提寺」と書かれています。織田信孝は、織田信長の三男。信長が本能寺の変で亡くなった後、次男信雄と仲違いをし、かの源義朝(頼朝の父)の最期の地、野間大坊で(秀吉に)切腹させられました。家臣であった大塚俄左衛門長政が、彼の領地であった神戸(かんべ:三重県鈴鹿市)に葬るために首を持ち帰ったものの、戦乱のために果たせず関に葬り、かつては境内に首塚があったと伝えられています。福蔵寺は、信孝自身が、父信長の菩提寺として建立していた寺でした。
福蔵寺は長唄や日本舞踊の「関の小萬」の墓の方が有名かもしれません。
父を騙しうちで殺された娘、小萬が、生まれてすぐに母も亡くした後、関宿の山田屋(会津屋)の主人の協力で女流剣士となり、天明3年、見事に父の仇討ちを果たします。
様々な歴史を見つめてきた街道を今また歩くことができるのは素敵ですね。
とんでもなく美味かった…
三重歴史紀行(2)へ続きます。