達谷巌毘沙門堂
2023年の夏に、平泉へ旅行した際に達谷巌毘沙門堂を訪れました。
『吾妻鏡』第九巻の文治五年(1189年)九月二十八日の記事にはこのように書かれます。
また、建立縁起として、次のような伝説が伝わっています。
『吾妻鏡』では鞍馬寺を模したとありますが、この毘沙門堂の形は、舞台づくり。そこまで案内してくれたタクシーの運転手さんによれば、「清水の舞台」を模していると言われているようです。何回か建て替えられているようなので、だんだんと形が変わっているのかもしれません。
見ると、確かに清水の舞台にそっくり…清水寺といえば坂上田村麿と深い関係がある寺です。能『田村』は、まさに清水寺の創建の由来を、シテである田村麿の霊が語ります。ただし、こちらの能は、千手観音様の加護を謡いますが。また、平城天皇の宣旨を受けて、鈴鹿の鬼神退治をした話ですから、桓武天皇の時代よりも後ですね。田村麿、いろいろな神様に加護されていますね。
建立の翌年、延暦二十一年(802年)には、別當寺として達谷西光寺(天台宗)が創建され、広大な寺領を治めたそうです。
*別當寺:神仏習合の過程で成立した、仏事をもって神社に奉仕する寺院。
ご本尊はもちろん、毘沙門天(私は寅年生まれなので、しっかりお参りしてきました)。真言はオンベイシラマナヤソハカ。左右には、坂上田村麿公と桓武天皇もお祀りされていました。
前九年後三年の役には、源頼義、義家が戦勝祈願のため、寺領を寄進しています。その後、藤原清衡、基衡は、七堂伽藍を建立し、奥州藤原氏が保護しました。その寺を、再び源家の頼朝が保護することになる…なんとも時代の流転を感じさせます。
戦国時代を通し、勢力を誇ったようですが、天正の戦火はここ奥州にも及びます。岩に守られた毘沙門堂をのぞき、塔堂楼門は悉く焼失したと伝えられます。慶長二十年(1615年)伊達政宗により毘沙門堂は立て直され、以後伊達家の祈願寺として寺領を寄進されました。
その後も火事による焼失があり、現在のお堂は創建以来五代目のようです。
明治の神仏分離により、寺と神社が切り離されてしまったようですが、現在も、あくまでも毘沙門堂が主体であり、お寺での弔事があれば鳥居が潜れなくなるため、お寺には檀家さんが一軒もないのだそうです。神事がとても多く、大変だなあと思います。
ところで、この伝説にある悪路王。蝦夷の頭で、坂上田村麿に征伐された…と聞くと似たような話を思い出します。そうです、阿弖流為です。
しばしば悪路王と阿弖流為は混同されるようですが、どうもそれは近年の俗説のようで、中世の伝説では同一視したものはみられないそうです(『歴史人 2024年3月号 「奥州藤原氏の栄華と没落」』)。そもそも、藤原利仁は10世紀の人で、時代があわず(阿弖流為は8世紀の人)伝説的なものにすぎないといいます。
東北の人にとっては、坂上田村麿は中央からやってきたいわば征服者。土地の人(蝦夷)たちを「征伐」して、支配下におくために遣わされた人のはず。その田村麿が祀られている、というのは少し不思議な感じがするのも確かです。
高橋克彦氏の小説『火怨』、そのドラマ化、舞台化などから、阿弖流為ファンが増えていると聞きます。コアな阿弖流為ファンは、清水寺の阿弖流為石碑のみならず、阿弖流為首塚があったという枚方市牧野公園内へも足を運ぶのだとか。
『神社のひみつ』(祥伝社黄金文庫)というご本を書かれた岡田桃子氏によれば、この公園内にあった首塚を整備し、現在ある『阿弖流為・母禮の塚』の石碑を建てたのは、有志の人たちだったそうです。これには地元の小中学生だけでなく、東北の方たちも協力されたそうで、また、石碑に刻まれた文字は清水寺の貫主が揮毫されたのだといいます。
阿弖流為たちが東北の人達の「誇り」になるとともに、悪路王への思いも変わってきているかもしれないですね。今、高橋克彦氏の東北歴史シリーズを読んでいるところですが、負けたもの達が語るのを許されなかった過去と比べると、敗者や悪人とされた人達の真実の歴史を語ることができるのは素晴らしいことだと思います。
敷地内には大磨崖佛が岩壁に刻まれています。前九年後三年の役で亡くなった敵味方の霊を供養するために源義家が馬上から弓張で彫り付けた…と伝わっていますが、高さは16m、顔の大きさだけで3.6mあります。ちょっと馬上からでは無理では…おそらくは当時の一級の腕を持つ人達が祈りを込めて彫ったのでしょう。明治に一部崩落してしまったそうです。後世に残すために、大事に保護をして欲しいと思います。
東北の地は、古代には征服、中世には戦乱、さらには、近世には体制に反対するものとしての一方的な鎮圧…苦難の歴史です。
中尊寺金色堂は、奥州藤原氏清衡が平和を願って建てたものでした。しかし、その都も、源頼朝により滅ぼされました。
能『遊行柳』は奥州街道の宿駅として栄えた那須町芦野の「朽木の柳」の精が回向を願う夢幻能です。かつて西行がここで歌を読み、西行を敬愛する芭蕉が「奥の細道」に書きました。奥州へと旅をした西行や芭蕉は何を見たのでしょうか。能楽師、安田登氏は、芭蕉の旅は、鎮魂の旅であったのだろう、と述べています(『奥のほそ道』謎解きの旅 ちくま文庫)。現代の東北を旅することで、今こそ世の中に遍く平和を、と願わずにはいられません。
今、東京国立博物館で開催されている『中尊寺金色堂展』では、普段はガラス越しにしか見えない仏像を見ることができるようです。ぜひとも行きたいと思っています。