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【音楽の可能性】濱島祐貴×山本一輝×篠村友輝哉「音楽人のことば」第14回 後編

(前編はこちら

──音楽の「謎」

濱島 少しテーマからは逸れるんだけれど、古典であれ現代であれ、作品のこの部分がどうしても腑に落ちないということがあったとして、その疑念を払拭できないままステージに立たなければいけないことってあるよね。でも、演奏家には何らかの形でそれを納得させなきゃいけないっていう信念があると思うのだけど、お二人はどんな風にそこをクリアしていますか?

山本 それは本当によくあって、全くない曲の方が少ないくらいです。本当に最後まで分からなかったこともある気がする。カルテットだと、メンバーの誰かが確信を持ってくれていることがあるので、それを信じてしまうというのもアンサンブルとしてはありだと思う。でも、無伴奏ではそうはいかないので、一番やってしまうのは、譜面に書いていないことをしてしまうことですね。テンポとかの時間的なことや、ダイナミクスとか、書いていない表現を入れてしまう。それは作曲家の意図したことではないし、作品を歪めてしまうことにはあるけれど、そうしないと自分が納得して弾けないから、結局そうしてしまうんです。

濱島 反抗するわけだ(笑)。でもそれは一つの手段だよね。

山本 そうじゃないと弾けないし、聴いている人にもよくないかなと。

篠村 僕は山本くんとは対照的です(笑)。そのわからなさを受け入れてしまうというか、その時の自分が理解できる範囲で表現するという感じで、無理にわかろうとはしないんです。これは他の人の演奏を聴いていて思ったことですが、隅々まで理解している隙のない演奏って、意外と心動かされないんですよね。その明晰さに感心はするんですが、全てをわかっていることが必ずしも演奏を豊かにするわけではない。謎や神秘が残っている方がいいこともあるような気がしています。

濱島 音楽の一番大事な要素って謎なんじゃないかと僕も思っていて。プログラムノートに書いたすべてのことが表現されていて、それ以上でもそれ以下でもないというのは、コンポジションとしては成功かもしれないけれど、音楽としてはどうなんだろうと思う。自分の作品も、仕事ぶりが粗いということはもちろんよくないけれど、自分には掴み切れないものが作品の中にあるということも、作曲をしているなかではそれを自分の力量不足だと感じるとしても、大事なことなのかなと思う。逆に、まだ若くて成熟しきっていない部分があるから、反抗したくなったり受け入れられないこともあるけれど、そのことも今出せる自分のベストだったりすることもあるよね。

──音楽の存在意義

篠村 確かに僕は日々音楽によって救われているわけですが、芸術としての音楽を聴く、受け取るって、やっぱりある程度、いや相当程度エネルギーの要ることでもありますよね。僕自身も、心が参っているときは、どんなに素晴らしい音楽を聴いても、ただ流れて行ってしまって受け止められない。今、社会全体が疲弊していて、人々の余暇も限られているなかで、芸術を受け止めるだけの余裕がないくらい苦しんでいる人たちも大勢いると思うんです。芸術が、人の苦しみに寄り添うものであるなら、そのとき僕たちはどうあるべきなのか。このことを折に触れて考え込んでしまいます。

山本 それは考えてしまいますよね、本当に。仕方のないことなのかもしれないですけど…。音楽の力ってすごいものだけど、誰かの生活を直接的に支えるものではない。精神活動の部分が大きいから、非日常としての役割はあると思うんですが、それって音楽じゃなくてもできることで。そうではない、僕たちが感じているような音楽の尊さは、やっぱり贅沢な話なのかもしれない。楽器がうまく弾けるだけで自分のことを偉いと思っているような人が僕は嫌いです。そんなの、世の中の人からしたら「だから何?」という話だと思う。
 できないのだけれども、何ができるのかと考え続けることが、唯一のできることなのかもしれない。音楽やることそのものが大変だから、忘れてしまうこともあるけれど、世の中にどう貢献していくかっていうのは、自分が食べていくことよりも音楽家として重要なことだと思います。

濱島 今回の演奏会にあたって、(そういうことも含めて)結構いろいろなことを考えました。僕にとっては久しぶりに観客を入れての演奏会の企画だったのだけれど、配信とかもできるなかで、「生でやる意味」というのを自分のなかでずっと探していました。今開催するというのはリスクがあるけれど、自分の中にどうしてもやらなきゃいけないっていう漠然とした必然をずっと感じていて。そこで今回のプログラムでこだわったことは、「生で聴いてほしい作品」ということ。生の演奏会で得られる感動、生音に触れられる感動っていうのを、昨年僕自身もこのパンデミックで改めて体感して、それを反映させたものにしたかったんです。ハイドンのカルテットから新作初演、聴きやすいショートピースと、プログラムとして一貫性があるかと言われたら微妙なところだけど、僕たちみたいに芸術音楽を愛している人にも満足してもらえて、かつ普段音楽を聴かない人にも楽しんでもらえるものにしたかった。それから、カルテットの音が出る時の、絶対にピアノとかには出せない音の出方や音圧とか、カルテットで作る和音の美しさとか、単純かもしれないけどそういう物理的なことにも音楽の感動の側面はある。音楽の感動する色んなポイントにアプローチしたくて、こういうプログラムになった。音楽は懐の大きいものだから、芸術音楽で社会に貢献できることって、そういう単純なところにも意外とあるんじゃないかと思う。音楽にできることはたくさんあると、今はポジティブに捉えています。

篠村 自分が持ち出した話題なのに無責任ですけれど、僕はいつも矛盾を抱えている人間なので、こういう問いに対して楽観的な気持ちと悲観的な気持ちの両極があって、その時々で揺らいでいる感じです。ただ一つ揺らがないのは、音楽は、人と人の間に境界線を引くものではなくて、そういうものを埋めていくものなのだという思いです。音楽の中では、聖も俗も、光と闇も、それぞれの色を失わないまま融け合うことができる。それは他方で危険性もあるわけですが(話が混み入るのでここでは深入りしませんが)、音楽のその部分には大きな可能性を感じています。
 あと、僕にとって、音楽とか芸術って、「居場所」なんですよね。何かの手段というよりは、自分を受け入れてくれる世界だなと感じています。「表現する」って言うと、「これを伝えるんだ」とか、何か目的がないといけないように感じてしまいますが、必ずしも目的は必要ないんじゃないかと最近は感じ始めました。目的などなくても、ただ耳に響いている音をそのまま表現すれば、その世界にしか居場所を見つけられない僕のような人たちのための居場所ができるんだと思うんですね。自分の実存を支えてくれる、音や言葉というものは、そういうものなのだと信じています。

──信じること、問い直すこと

篠村 今、何気なく「信じる」という言葉を使ってしまいましたが、僕は結構懐疑的な人間で(笑)、信じるということが苦手なところがあります。それがいいように働くこともあるんですが、他の音楽家たち、特に演奏家の方の話を聴いていると思うんですが、彼ら彼女らは信じる力というものを強く持っているんです。意識的にというより、ある意味で本能的に。それに対して、私は常に「本当にそうだろうか?」とどこかで考えてしまう。だからこうして対話の場を設けたり、文章を書いたりといった活動をしているとも言えるのですが、音楽家としては、もっと素直にいろいろなことを信じられたらなと思うことがよくあるんですね。お二人は「信じる」ということに関して何か考えていることはありますか?

山本 僕も、何に対しても「本当にそうなのかな?」って思ってしまう方です。でも結局、そうすることでしか、真実というか、物事の核になる部分は見えてこないんじゃないかな。やみくもに信じ込んでしまうと、核心に辿り着かずに終わってしまう。一回こうだと思っても、本当にそうだろうかとまた考えることも必要だと思うし、それが出来ない人の演奏は、だんだん嘘になっていくと思う。疑う余地が多いほど、作品として奥行きがあるのだと思います。

濱島 僕自身も作曲をするからかもしれないけど、他の作曲家の作品、特に新作に触れるときはかなり疑って聴いてしまっている。演奏家って、「作曲家の言うことが絶対」みたいなところがあると思うんだけれど、自分は作曲家でもあるから、二胡奏者である自分と作曲者を対等に見ていて、これはコンポジションとしてどうなのか、とか考えてしまうところがすごくある。だからフレキシブルに作品を受け入れている演奏家を見ると、僕とは対照的で、すごいなと思う。でも、自分の作品を、演奏家に何も言わずに「はい!」と受け取られると、違和感があって、いっくんは積極的に質問をしてくれるけれど、そういう方がありがたい。信じるって、一歩間違えるとすごく怖いことでもある。僕にとって理想の演奏は、作品の「再現」ではなくて「代弁」。演奏家の持っている「声」があってこその表現だから、作曲家と本来対等な位置にあるべきものだと思う。批判的であることは、ある意味基本的な姿勢でもあるのかなと思います。

篠村 どんなに迷ったり、問いを抱えていても、いざ表現する段になったら、信じなければいけませんよね。最後の一歩は、無条件に踏み出さなければならない。でもそのときに、何も問わずに信じるのと、一度問うてから信じるのとでは、信じる深さが違う。何度も問い直し、何度も信じる、これを繰り返すことで、本当に信じることができるようになるのかもしれないですね。
 根本的な問題だけに語るのが難しいテーマだったかと思いますが、真摯にお話しくださって、とても嬉しく思っています。ありがとうございました。

(構成・文:篠村友輝哉)

《併せて読みたい》
「孤独ゆえの輝き──濱島祐貴の二胡協奏曲「Altair」」(篠村友輝哉) https://note.com/shinomuray/n/nadfcbfce297e
【想像力をめぐって】濱島祐貴×篠村友輝哉  「音楽人のことば」第6回 前編 https://note.com/shinomuray/n/nc585bb1dc4a4
【想像力をめぐって】濱島祐貴×篠村友輝哉  「音楽人のことば」第6回 後編 https://note.com/shinomuray/n/n1541013a1988
【音楽のロマンを探って】山本一輝×篠村友輝哉  「音楽人のことば」第8回 前編 https://note.com/shinomuray/n/n3b13fbdaa454
【音楽のロマンを探って】山本一輝×篠村友輝哉  「音楽人のことば」第8回 後編 https://note.com/shinomuray/n/n87fc6f04ec7b

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濱島祐貴(はまじま ゆうき)
東京都出身。幼少よりピアノを習い、11才で二胡、17才で作曲を始める。
第13回長江杯国際音楽コンクール民族部門、および第11回大阪国際音楽コンクール民俗楽器部門に第2位(1位なし)入賞。2015年、台湾にて劉天華の生誕120周年を記念した演奏会にゲスト出演。2016年、上海にて行われたカンファレンス「造就Talk」に出演、演奏はライブ中継で全世界に発信された。2018年、東京にて初のソロリサイタルを開催。2019年、富山にて、山下一史指揮 桐朋アカデミー・オーケストラとの共演で自作の二胡協奏曲《Altair》を初演、自らソリストを務める。
桐朋学園大学音楽学部作曲専攻卒業。同校研究生を経て、桐朋学園大学院大学音楽研究科演奏研究専攻(修士課程)修了。第25回奏楽堂日本歌曲コンクール作曲部門第1位。第36,37,39,40回桐朋学園作曲科成績優秀者による作曲作品展に出展。2014年、韓国ソウルの韓国芸術総合学校で開催された “Nong Project 2014”に派遣生として参加し、研鑽を積む。そのほか学内選抜により、調布国際音楽祭(2015年)、桐朋学園オーケストラ定期演奏会(2016年)、音大作曲科交流演奏会(2017年)にそれぞれ出品。作曲家グループ「きりぽんてる」のメンバーとして、2015年より同人主催の「7人の作曲家展」にて定期的に作品を発表し、これまでに4度の公演を実施。2020年、全音楽譜出版社刊行「発表会のための名曲ライブラリー スタジオジブリ曲[初級]」および「同[初中級]」に、編曲作品4曲の譜面が掲載される。
作曲を石島正博、二胡を許可(Xu Ke)、ピアノを吉田真穂、岡田博美、鶴見彩の各氏に師事。Lei Liang、Stefano Gervasoni、Tambuco Percussion Ensemble、野平一郎各氏のレッスンを受講。
現在は東京を拠点に、二胡奏者として慰問演奏から新作初演まで幅広い演奏活動の傍ら、作曲・編曲活動にも精力的に取り組んでいる。作品と演奏は、YouTubeとSoundCloudにて視聴可能。
公式HP▶︎ http://yukihamajima.mystrikingly.com

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山本一輝(やまもと いつき)
5歳よりヴァイオリンを始め、18歳よりヴィオラに転向。クァルテット・インテグラのメンバーとして第8回秋吉台音楽コンクール 弦楽四重奏部門 第1位。併せて、ベートーヴェン賞、山口県知事賞を受賞。キジアーナ音楽院夏期マスタークラスにてクライブ・グリーンスミス氏に師事し、最も優秀な弦楽四重奏団に贈られる"Banca Monte dei Paschi di Siena" Prizeを受賞。第41回霧島国際音楽祭に出演し、堤剛音楽監督賞及びに霧島国際音楽祭賞を受賞。フィリアホールや札幌コンサートホールKitara、サントリーホールブルーローズ等、各地で演奏を行うほか、堤剛、山崎伸子、練木繁夫、亀井良信各氏との共演でも好評を博す。ソリストとして、横浜交響楽団とのバルトークのヴィオラ協奏曲を、水星交響楽団とヒンデミットの白鳥を焼く男を共演。またリサイタルでは新曲の初演にも意欲的に取り組んでいる。NHK Eテレ「ららら♪クラシック」、NHK FM 「リサイタル・パッシオ」、テレビ朝日「題名のない音楽会」等に出演。これまでに、ヴィオラを佐々木亮氏に、弦楽四重奏を磯村和英、山崎伸子両氏に、ヴァイオリンを木野雅之、森川ちひろ両氏に、作曲を石島正博氏に師事。サントリーホール室内楽アカデミー第5,6期フェロー。公益財団法人松尾学術振興財団より助成を受ける。

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篠村友輝哉(しのむら ゆきや)
桐朋学園大学音楽学部卒業、同大学大学院音楽研究科修士課程修了。
在学中、桐朋学園表参道サロンコンサートシリーズ、大学ピアノ専攻卒業演奏会、大学院Fresh Concertなどの演奏会に出演。また、桐朋ピアノコンペティション第3位、ショパン国際ピアノコンクールinASIA(大学生部門)銅賞、熊谷ひばりピアノコンクール金賞及び埼玉県知事賞、東京ピアノコンクール優秀伴奏者賞など受賞。かさま国際音楽アカデミー2014、2015に参加、連続してかさま音楽賞受賞。
専門のピアノ音楽から室内楽、弦楽器、オーケストラ、歌曲、コンテンポラリーに至るまで幅広いジャンルで音楽・演奏批評を執筆。東京国際芸術協会会報「Tiaa Style」では2019年の1年間エッセイ・演奏批評の連載を担当した。同紙2021年8月号から新連載「耳を澄ます言葉」が開始。曲目解説の執筆、演奏会のプロデュースも手掛ける。エッセイや講座、メディアでは文学、映画、美術、社会問題など音楽以外の分野にも積極的に言及している。修士論文はシューベルト。
演奏、執筆と並んで、後進の指導にも意欲的に取り組んでいる。
ピアノを寿明義和、岡本美智子、田部京子の各氏に、室内楽を川村文雄氏に師事。
https://yukiya-shinomura.amebaownd.com/

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