目指せ出版! 日本史のセンセイと行く全国制覇の旅8 宇佐八幡神託事件

 まず最初に紹介するのが宇佐八幡(大分県)。現在の名前は宇佐神宮と呼ぶことが多いんだけれど、本殿は国宝に指定されていて、大分県の観光スポットナンバーワンだといえる。豊前(ぶぜん)国の一宮で、全国にある八幡神社の総本宮。一宮とは、かつて薩摩国とか尾張国とかのように分けられた、日本全国六十六か国(壱岐と対馬を入れて六十八か国と数えることもある)のそれぞれに所在した、その国のもっとも格式の高い神社のこと。国司が任命されて現地に赴任した後、まず最初にお参りしなければならなかったという。今でも多くの人が全国の一宮を参拝しているよ。

 そんな宇佐八幡でもっとも有名なのが「宇佐八幡神託事件」。どういう事件か確認してみよう。奈良時代、称徳天皇(この人女性で2回天皇になっている。1回目のときの天皇の名前は孝謙天皇)の病気を治したことから信頼を得た僧の道鏡が、政治に介入することが多くなった。そんな状況の769年、豊前の宇佐八幡に神託が下った。
「道鏡を天皇にすれば天下は泰平となる」
というものだった。このとき称徳天皇は、その神託が本当かどうかを確認するため、和気清麻呂(わけのきよまろ)を宇佐八幡へ派遣したんだ。清麻呂はそこで
「天皇と臣下の間柄ははっきりと分けられている。不届き者を排除しなさい」
という神託を得た。実は清麻呂、出発の際に道鏡に呼ばれて「いい神託を持って帰ってきたら出世させてやる」と言われていた。つまりこの神託事件がデッチアゲだったということなんだけれど、奈良に帰って報告をしたところ当然のように道鏡は激怒。和気清麻呂という名前を取り上げられて別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられて大隅国(鹿児島県)に島流しにあってしまった。その後称徳天皇が崩御(天皇が亡くなること)すると道鏡は下野薬師寺(栃木県)に左遷され、清麻呂は政界に復帰することができた、という事件だ。その後天皇の信任を得た清麻呂は、平安京を造営する中心人物として活躍しました。宇佐神宮の近くには清麻呂が神託を得たという大尾山という小高い丘に護皇(ごおう)神社という小さな神社が今でもまつられている。そして京都の御所の近くにも護王(ごおう)神社(「おう」の漢字が違いますね)という清麻呂をまつった神社があります。

 万世一系の天皇の地位を守った忠臣として、戦前は非常に人気のある人物だった和気清麻呂。だから戦前はお札の肖像画として採用されていたんだ。もちろん顔の絵は残っていなかったので、明治の三傑の一人である長州の木戸孝允をモデルにお雇い外国人が肖像画を作りました。また今でも皇居の東御苑のすぐ近くに、清麻呂の銅像が建っています。

 なお清麻呂をまつった護王神社などの神社には、狛犬(こまいぬ)ならぬ狛イノシシがいます。これは清麻呂が大隅に流される際、ピンチの時にイノシシが現れて清麻呂を助けたという伝説にちなんでいます。カッコイイのでぜひ見てみてくださいね。

【大分県に行ったなら】
 大分県と言ったら文句なく日本一の温泉県として有名。別府温泉や由布院温泉など、どの温泉につかっても日ごろの疲れを取ることができるでしょう。なかでもオススメは別府温泉の「竹瓦温泉」。大正・昭和の雰囲気を残す建物と上質のお湯は、一度体験する価値があります。

 歴史スポットを紹介するなら竹田市の「岡城跡」でしょうか。1185年、壇ノ浦の戦いの後に兄・源頼朝と不和になった源義経を迎えるために築城された山城。戦国時代になって豊臣秀吉が島津氏と争い九州平定しようとした際に、島津軍の攻撃を3度も撃退したことから「難攻不落の城」と呼ばれました。江戸時代には岡藩が置かれ、城の大改築も行って栄えたましたが、1871年の廃藩置県により城を破却。その後、廃城となった岡城の跡を見て「荒城の月」を作曲したのが瀧廉太郎。瀧はこのほかにも「花(春のうららの隅田川~)」や「お正月(もういくつねると~)」などを作曲した明治の作曲家。音楽室の作曲家肖像として必ず飾られていたメガネのお兄さんです。
 岡城の見どころは、やはりほかの山城と同じでその石垣にあります。多様な技法が用いられて造られた石垣、特に見ておきたいのが三の丸の高石垣。この城は石の城と言ってもいいくらいに石垣が整備されているので、各所で石垣の美しさを堪能してもらいたい。ゆっくり見て1時間半。そのすごさを理解できると思いますよ。

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