目指せ出版! 日本史のセンセイと行く全国制覇の旅22 隠岐諸島と島根県

 続いては二神が三番目に産んだ隠岐島(おきのしま、島根県)について(四国・九州・本州については大きすぎて離島とは言わないので省略しますね)。隠岐と言えば鎌倉幕府の打倒を図った後鳥羽上皇と後醍醐天皇が島流しにあったところ。隠岐は平安時代から流刑の島として知られていたようです。(百人一首に治められている参議篁(さんぎたかむら)の歌、「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣り船」は平安時代に小野篁が沖に流されたときに詠んだと言われています)。隠岐島には人の住んでいる島が4つありますが、ぼくが旅行したことのある島後(どうご)には後醍醐天皇の流されていた場所とされる隠岐国分寺跡があります。後醍醐はその後、島を脱出して京都に復帰しますよね。隠岐にいた期間はおよそ1年、エネルギッシュな天皇だったので、隠岐でも復活の炎を燃やしていたことでしょう。
 後醍醐のエピソードとしては隠岐に流される途中の院庄(いんのしょう、岡山県)での話が有名です。護送されていく後醍醐を救うべく、児島(こじま)高徳(たかのり)という武士が何度もチャレンジしますが、警護がかたくて成功しません。後醍醐が院庄館に泊まったとき、高徳は桜の木を削って十字の詩を刻みました。
 天莫空勾践(こうせん) (てん こうせんを むなしゅうすることなかれ)
 時非無范蠡(はんれい) (ときに はんれい なきにしもあらず)
 警護の武士たちはこの詩を見て、何のことかさっぱりわからない、といった風でしたが、後醍醐はその意味を察してニコリとするのでした。
 勾践は古代中国・越(えつ)の国の王の名前。范蠡は勾践を助け、敵国を滅ぼした忠臣のこと。「天は勾践(=後醍醐天皇)を見捨てない 時が来れば范蠡のような忠臣(=児島高徳やそのほかの武士たち)が助けてくれる」という意味。先ほども書いたように後醍醐は実際に隠岐から脱出して、多くの武士の力を借りて鎌倉幕府を倒すことに成功しました。院庄館の跡は現在、後醍醐天皇と児島高徳をまつった作楽(さくら)神社という神社になっていて、銅像を見ることができます。
【島根県に行ったなら】
 出雲大社と書いて「いずもおおやしろ」と読みます。神の国、神話の国として知られる出雲にはいまもなお古の神社がいたるところにあり、その中心が出雲大社で、「因幡の白うさぎ」で親しまれるオオクニヌシを祀っています。「日本書紀」に記された国譲り神話では、オオクニヌシがアマテラスに国を譲り、その代わりに大社を建てたのが始まりとなっていて、その際オオクニヌシが「これからは幽(かく)れたる神事を治める」と発言。この「幽れたる神事」とは目に見えない縁を結ぶことであり、そのために毎年旧暦10月(神無月)に全国から神々が集まり(このため出雲では神在月という)、人と人の縁を結ぶご利益になったとされているんだ。だから出雲大社の神さまは「縁結びの神」。神在月の観光客は夏休みの観光客より多いそうです。それだけみんなご利益を求めてるんだね。
 60年に一度修理される本殿の高さは24mと日本最大級の高さを誇っているものの、上古の時代(飛鳥時代ころ)には32丈(1丈は約3m、つまり96m!)の高さがあったと言い伝えられてきた。「雲太、和二、京三(うんた・わに・きょうさん)」という言葉がある。「出雲の大社が太郎(一番大きい)、大和の東大寺大仏殿が二郎(二番目)、京都の大極殿が三郎(三番目)に大きい」という意味だ。長らくこの神殿は伝説上のものとされてきましたが、2000年の調査で、どうも巨大な神殿はあった可能性が高いという遺構が発見され、これからの研究が待たれているところです。

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