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目指せ出版! 日本史のセンセイと行く全国制覇の旅25 琉球沖縄
沖縄には独特の文化があるよね。その地理的な特色から、中華帝国とも日本とも関係を持ったし、また独自の言葉や信仰も発達し、現代にもそれは色濃く残っている。終戦後に始まるアメリカの統治も大きな影響があったんじゃないかな。基地問題も解決していない。一方で気候がいいから国内のリゾート地として大人気だ。大八島の一つとして産まれたわけではないけれど、異なる文化を持った日本の一部。つまり沖縄は、好むと好まざるとにかかわらず、日本本土と大きな差異があるということ。これは沖縄への旅行者が700万人を超えて過去最多になっても変わらない事実だよ。そんな沖縄について、日本史のセンセイと一緒に見ていきましょう。
14世紀に琉球王国として成立したころ、沖縄には各地にグスク(城郭)が造られました。ここには聖なる場所として「御嶽(うたき)」と呼ばれる信仰の場が必ずあったんだ。集落を守るための城郭としてのグスクと、聖地としてのグスクを考えたとき、「グスク=日本の城」ではないことが分かります。世界遺産にも指定されている沖縄のグスクは、勝連城、中城城、座喜味城、今帰仁城ですが、どれも立派な石垣でできていて、ここでも日本本土の城とは一味違った様子を見せてくれます。本土の石垣が直線的なのとは対照的に、グスクの石垣はうねるような曲線でつくられています。石造りで築かれたアーチ門もとても成功に造られていて見事そのもの。これはサンゴ礁からできている琉球石灰岩を使っているから、加工しやすかったのです。見事なカーブで構成されている城跡をじっくりと見学してください。
王が住んでいたこともあって沖縄で最も大きな建築物と言えば首里城になります。入口には2000円札にも描かれている「守礼門」があり、額には「守礼之邦」と刻まれています。守礼之邦とは礼節を守る国である、という意味(邦には国、という意味があります)。2019年に首里城が焼失したときもこの門は焼けずに残りました。首里城は焼けてしまい現在修復中ですが、守礼門は多くの人が記念写真を撮るスポットとしてにぎわっています。
沖縄と言えば戦争を避けて通ることはできません。各地に戦争遺跡が残されていて、国内で唯一地上戦が行われたという事実がどれだけ重かったのかを実感することができます。まずは旧海軍司令壕。当時海軍の関係者が1万人いたといわれ、沖縄の各地に壕が造られました。ツルハシなどを使って人間の手で掘られた壕にはトイレがなく、外で用を足していましたが、アメリカ軍が上陸する前後からは外に出ることが危険となり、しかたなく壕の中で用を足したため、悪臭がひどかったそうです。
沖縄の総司令官だった大田実は海軍次官あてに電報を打っています。部分を取り上げて訳すとこうなります。
「沖縄本島に敵が上陸して以来、陸海軍は県民のことを顧みることができなくなってしまった。それなのにもかかわらず男たちは防衛召集に進んで参加し、女たちは看護婦、炊事婦はもちろん、弾薬を運ぶ仕事までした。つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。
沖縄県民はこのように戦い抜いた(沖縄県民斯ク戦ヘリ)。
県民に対し、後世、特別のご配慮を頂きたくお願いする(県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ)。」
涙なくしては読めない文章です。この文章を日本国政府の人は知っているのでしょうか。沖縄に特別の御高配はあったのでしょうか。沖縄に対する負担の大きさを考えるとき胸が詰まってしまいます。
もう一か所見学してほしいのはもちろんひめゆりの塔。施設内に建てられているひめゆり平和祈念資料館も、心揺さぶられる場所です。エントランスを入るとまず私たちを迎えてくれるのは、ひめゆりの生徒たちの集合写真。大きな写真のため、一人一人の笑顔がしっかり見られて、ここから1年であんなに悲惨な出来事に巻き込まれることになるのかと言葉をなくします。多くの作文が残されていて、しっかりと見学するには1~2時間では無理。時間をかけて現在の平和な日本を思ってください。