仕事の見つけ方、紆余曲折
土曜日のきょうは、朝から夫の職務経歴書やスキルシートの準備にかかりっきりでした。
50歳代後半のロシア人ソフトウェアエンジニアである夫は、40歳代までは業務縮小とかなんとかで仕事を失ってもすぐ次の仕事を見つけられていたのですが、50歳にはいってからは、日本語があまりできないことも大きく、仕事が見つかりません。
一旦会社にはいりこめば、ソフトウェア開発環境では業界用語がもともと英単語なことが多く、仕事を進められるのですがそこに入り込むまでが難しく、また
「このくらいの年齢、経験、実力であればクライアントと話し合ってプロジェクトマネジャーができるくらいでないと」
と言われたりします。
日本人であれば、、、日本語さえできれば、、、どんな仕事に就くこともできたろうに。と思うことも多々ありました。生活がひっ迫したときには、「工事現場にでも行く」
とまで言っていましたが、そもそも、日本語できないじゃん。
いや、来日した25年前よりかはだいぶ上達はしているのですが、簡単な日常会話の域を出ないのです。数年日本にいて、いまは在米のサーシャのほうがビジネス日本語できる。
日本語ネイティブで英語がちょこっとだけできる娘との会話も、簡単なやりとりは直接できるけれども、複雑な話になるとわたしが通訳しなければなりません。
「それは、奥さんが甘やかしてるからだよ」
と、たくさんのひとに言われましたが、いろんなひとをみていると、語学に優れているひと、そうでないひとが明らかにいて、夫は語学に能力を割けないひとだなと感じています。
だからといって、生活かかってるんだから必死に日本語習得させんかい!と言われたらそれまでで、そこが「甘やかしている」と言われる所以なのでしょうが…。
「ご主人は、たいへん優秀なエンジニアです。けれど、いまの日本では、そこまで深くできなくていいから、徹夜を2日も3日もできる若者が求められているのです」
とは、業務縮小で職を失うことになったとき、事情説明をききに求められて同行したわたしにそこの社長が言った言葉です。
以来、よく言えばフリーランサー、実情を言えばほぼ無職で、夫は家にいてたま~にフリーランサー用の仕事を請け負ったりしています。
すごく有難いなと感じているのが、旧ソ連人の強さなのか、もともとの性格なのか、そのような状態でもニコニコと毎日、平板な精神状態でほぼ一日中PCに向かってブログ読んだり、ゲームしたりして過ごし、食器洗いと洗濯機かけと洗濯物干しは完全にしてくれます。洗濯物干しに関しては、某大手の洗濯試験業務に従事した経験がある身としては、ダメダメなところ大いにありですが、それはしてもらっているのだから、何も言いますまい。
これまでも正社員の求人をわたしが見つけてきて応募した結果、職を得られたことも多く、いまでも彼の代わりにしょっちゅうネットで検索したり、あちこちに登録したりして、望みのありそうなところに応募しては玉砕…というのを懲りずに繰り返しています。
お互い2回目の結婚で、それぞれ前の結婚で子どもが一人います。夫のほうは、ロシアの元奥さんが育てており、わたしのほうは、その子が家を出る19歳くらいまで、4歳から一緒に住んでいました。
申し訳ないなあと思うのですが、自分のこころのどこかで「所詮、継子だろ」という気持ちがあったのですが、こないだ来たサーシャにも、上の子のことを「上の子」と、自分の娘のように話していてくれ、また、いまは家庭を持って隣の市で暮らしている上の子も、夫のことを「パパ」と呼んで先週、夫のお父さんが亡くなって以来、たいそう心配してくれて、また、
「とある企業が、シニアの採用にも積極的だってニュースがTVであったよ」
と、その企業の、我が家ちかくの求人を検索して知らせてきてくれました。
そこに応募してみたところ、すぐに登録依頼の連絡があり、登録用の書類を用意している現状です。正直、これまでもたくさん、登録して面接してダメだったこともありますが、それでも可能性にかけてやっていくしかありません。わたしが応募した面接や登録に、にこにこと出かけてくれる夫にも感謝です。
月曜日に登録にでかける予定で、うまくいくことを祈りつつ、いま大学4年生である下の娘も就活で苦戦しております。
ある程度名の知れた私立大学で、これまで毎期、成績優秀者に贈られる給付型奨学金をゲットしており、就職活動も問題ないかと思っていたのですが、最初に登録していた会社、全滅したようです。
筆記試験、性格試験、面接…「なにが悪かったのかわからない」とは本人の言。
成績は優秀であるものの、サークルや部活は一切していないし、そこがあかんと思われたのかなあ…性格試験で、甘ちゃんのへたれなのがバレたのかなあ…あるいは、こちらは意識していないものの、記事などでみかけるハーフへの差別があるのか、、、
「わたしがデブだからかしら」
とまで、本人は言っています。
うう~ん正直、わたし自身、大学は休学、留年しまくり、子連れで24,5のときに卒業まぎわに行き当たりばったりの就職活動をして
「25歳で子持ちのおばさん」
といまで言えばセクハラ、パワハラな態度をあちこちでとられた末、縁があって正社員で拾ってもらい…けれどその会社でいまの夫と知り合ってあっという間に妊娠退職で、そのあとパートやら派遣社員や契約社員を経ていまようやく正社員、といってもこのご時世、待遇的には契約社員と何ら変わらないところで働いているという状況で、まっとうな就職活動をしたわけではないのでなんにも言えまっしぇん。
ただ、自分の経験から「世間のレールに沿った人生歩まなくてもいいんじゃないかな」とは言えます。
あれこれの身分でいろんな仕事場を渡り歩いてきました。超零細企業でこれは無理と思い、派遣で仕事を探した際に、得意の英語を使って、と思いましたが当時は「英語を使う仕事は難しいです」と言われ、仕方なく英語とまったく関係のない職場に派遣社員として働きはじめましたが、そこでの経験や人間関係は、とても勉強になりました。
その後、直接の上司と問題があり(いま思えば、自分自身にも問題があったのですが)そこを辞めることになりました。それまで、「英語がある程度できる」と言っても、目に見える形での証拠はとっていなかったのでTOEICを受けたところ、925点取れました。「この年で、転職は無理よ~ わたしはここで頑張るわ 不満は多々あるけれど」という仲良しの同僚もいましたが、環境的にとてもいられないと思いましたので、今回はあきらめないと思って英語関係の仕事に特化して就職活動をしたところ、数年前とちがい、英語を使う事務の需要が増えていました。
いくつかの職に応募した結果、縁があったところに派遣社員として就職しました。英語を使って事務を行うところです。そこでも得ることが多く、またお世話をした方々にも感謝していただき、不親切だった案内冊子の全面改訂やシステムの改善も行い、大変やりがいのある職場でした。
3年ほどすると、しかしいい加減慣れてきて新しい環境が欲しくなりました。お給料も安いものだったので、もうすこし多いのがいいなと思っていたところ、これもまた縁で英語を使って事務を行うとあるポジションを提示してもらえ、そちらに就職しました。
そこでのあれこれもいろいろと大変でしたが、それに続く5年間に役立つ、とてもよい経験でした。
2年ほどで就職先がお取りつぶしとなり、その部署が所属する組織の事務部に誘っていただきました。そちらに移ったあと、事務部長であらせられた先生によると「あの難しい先生の秘書をやってられたんだから、打たれ強いだろうと思って」。と、これには笑いましたが、案外、仕事ってそんなことで決まっていくものですよね。
その後の5年間は、その事務部で主に英語を使ってのあれこれに携わりました。また、副業として、通訳や翻訳などの仕事にも従事しました。
5年が過ぎて、法律の改正で「5年以上勤務した者は、本人が希望すれば無期限雇用としなければならない」というのにひっかかり、
「ごめん、その予算ないねん」
とあっさり切られたのが昨年の3月。
ただ、上司も慮ってくれて、その前年末にはそうなることを知らせてくれていたので、あれこれに動けました。
結果として、4カ月くらいは失業保険を享受したわけですが、退職前の手続きでも、企業内手続き担当者が非常に親切に対応してくれて、業務上、やりとりのあったそのひとに自分としてはきめ細かく対応していたつもりだったので、それを覚えてくれていたのかなあと、うれしく思いました。
いくつかの会社に応募して、縁があっていまの会社で働いているわけですが、わたしのこれまでの経歴、能力、臨機応変に対応できる力を評価してもらい、また英語を使ってのさまざまな案件に携われて非常にやりがいのある毎日です。さいきん、直接の上司にあたるひととのトラブルがあったのですが、社長も非常に心配してくれて、出張先からも細やかに連絡してくださって有難いです。
そのことから、この会社でわたしを必要としてもらえているかな、と思え、もうちょっと頑張る気持ちになっています。
夫と娘の就職先も、決まるといいなあ~。
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