続くこと・終わること。
続けること。そのための仕組みのことを考えると「ペットが飼えない」という結論になる。
今の生活スタイルでは動物を飼うことができない。
私の夏休みは日本に帰っている。で、その間に面倒を見る人がいない。夫も家を空けがちだから戦力外。これでは動物を飼う生活はできない。
イタリアの犬の飼い方で驚いたこと(アメリカでもそうらしいんだけど)は動物の安楽死という選択だ。
ペットがあまりにも苦痛を受けるようだったら獣医のもと安楽死をさせるのだ。 つい先日、そんな感じで知人の老犬が旅立っていったと聞いた。
愛情と安楽死の二つが矛盾することなく両立するのか・という不思議な感じ。動物を飼ったことがないからなのか。それとも文化的な違いなのか。わからない。
この苦しみをペットに続けさせるわけにはいかない、ということで安楽死を選ぶのだろうけど。メンタル強いなーと思う。
人間の安楽死はそれでも多少は本人の意志が働く。でも動物の安楽死って動物の意思が分からないのにかわいそうじゃない?と思うのは私が動物を擬人化しすぎなのだろうか?
この辺りの違いって 文化的なものなのか、環境的なのか分からないけどなかなか理解できない。だからといって、大声で反対を叫んだりはしないけど。
私は犬のことを「畜生」と呼ぶような祖父のもとで育った。
ペットに縁のない家だった。池に放った金魚すくいの金魚は餌をあげなくても勝手に育って勝手に死んでいたくらいだし。
(私が生まれる前の家では食用の鶏を飼っていて。首を切る時の鳴き声を覚えているから、今でも鶏肉が嫌いと叔母は言う。)
犬を見ると、履いていたサンダルを片手に持って威嚇するような祖父だった。野犬が普通にいるような時代を生きて来た祖父には、それが当たり前だったのだろう。
ずっと続くと思っていたことが、いつの間にか過去形で話すことが当たり前になってるのに気づくと切ない。