「鬱蒼とした森」と「リノリウムの床」が恥ずかしい
コロナ禍で、以前にも増して本を読むようになった。
働きながら読む本は事前に評判だったものに絞っていたけれど、時間ができた今は、学生の頃のように雑多な種類の本を読んでいる。
その中で、「鬱蒼とした」という表現が多用される小説に出会ってしまった。あまり読み慣れていない表現で、つい引っかかってしまう。個人的に、「鬱蒼とした」は、陰の力が強くて、繰り返しの使用に向いていないと思う。
「鬱蒼とした森」の言語体験がないことも、この言葉に対する拒否反応を強める。森へ行く時は大体ハイキングや山登りなど楽しい気分なので、そこで森を見ても鬱蒼としているな、と感じたことがない。森はいつ見ても気持ちの良い緑だ。
「鬱蒼とした森」に対する拒否反応の内には、若干の気恥ずかしさも含まれている。
なぜかと言うと、私も初めて書いた文章には「鬱蒼とした森」と言う表現を用いたのだ。当時思春期だった自分は、この言葉が猛烈に格好いいと思っていた。明るい文章でも暗い文章でも関係なく、「鬱蒼とした」という表現を多用した。自分の文章をより良くする表現だと信じて疑わなかった。
ところが、数ヶ月経ってその文章を読み直すと、それがあまりに不格好で驚いた。もちろん、「鬱蒼とした」という言葉自体に罪はなく、その言葉の使い方の下手さに驚いたのだ。どれだけ優れた言葉でも、書き手が拙ければ輝かない。自分の手に収まっていない言語表現を、むやみやたらに連発しても格好悪いことに気がついてしまった。
同じ経験をした言葉に「リノリウムの床」もある。初めてこう書かれた小説を読んだときは、そのクールさに衝撃を受けた。それから自分の書く文章には「リノリウムの床」と書きまくった。どんな場面の床もリノリウムにできないか考えたし、登場人物にはもれなくスリッパでその床を歩いてもらった。
数ヶ月経って自分の文章を冷静に読み直すと、やっぱりその言葉だけが浮いていた。書き手としての拙さをまじまじと見せつけられたような気がして恥ずかしかった。強い言葉、印象的な言葉は格好いいけれど、書き手の能力が低いと格好悪くなる諸刃の剣であると気付かされた。
強い言葉を多用する表現者に、かつての自分の失敗を思い出し、赤面することがある。
SNSやネットニュースはそのような表現者たちの宝庫だ。書き手の拙さをそのまま全世界に伝えてしまっていいのだろうか、と勝手に心配してしまうことが多い。匿名なら笑い飛ばせるけれど、中には実名を出して発信するものもあるから恐ろしい。私が過去に自分で書いた文章を読んで恥ずかしがるように、彼らもいつか後悔する時が来るだろうか。
強い単語は、短い文章で他者の目を引き付けるための戦略かもしれないけれど、拙い書き手に優秀な読み手はつかない。
そう思ってはみるけれど、私も他人に口出しできるほど文章がうまくない。
だから、内省の意味を込めて、自分の書く文章にはなるべく強い言葉を使わないようにしようと決めている。
これから能力の向上を感じるときがあれば、改めて「鬱蒼とした森」という表現を使いたい。リノリウムの床の冷たさを足の裏で感じながら。
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