ソーシャル向きな人、不向きな人
ちょっとぐらいのイリーガルならば…という人は時々いる。
そこまで真っ白にしていては、何もできないじゃないかというわけである。ちょっとぐらいの違反、ちょっとぐらいの背徳、ちょっとぐらいのハラスメントまがいのコミュニケーション…。
だがこの時代、それはやはり分が悪いと言わなければならない。
なぜか?
それは今がネット時代だからである。もっと言えばソーシャル時代だからだ。
ソーシャルという場においては、個人がコミュニティの縛りなしに、ほとんど自由闊達に意見を述べることができる。述べるとは、その人の中だけに閉まっておくのではなく、何らかの形で表に出す、顕在化させられるということだ。その点でリアルでの対話というのは実は結構不自由で、基本的には相手との関係、話の流れの中でしか、思っていることは述べられない。その時にふと思った自分の思考を、文脈とは無関係に書ける(言える)というのはソーシャル、特にTwitterの大きなポイントだ。
さらに、その発言はネットにアーカイブされる。その場で蒸発するように消え去ることなく残るのである。つまり、
相手と文脈を選ばない
アーカイブされて残る
ということはどういうことか。
より多くの人の目に触れて、検証される可能性が高いということだ。
ここで話は冒頭の件に戻る。
ちょっとぐらいのイリーガルならば…という人は、ネット以前の「オフレコ」という約束事を信じている人だと言えばいいだろうか。
つまり、その場だけの発言として、おおっぴらにされないだろうから多少は大丈夫、という侮りがあるのではないか。
それはとりも直さず、外に漏れるとまずい話だと本人もわかっているはずのことではないのか。
ネット時代はマジメであること、嘘のないことが求められると言われる。そういう世界は生きづらいとは確かに思う。しかし、経済がそうであるみたいに、社会の大きなうねりは人為的にはなかなか変えられない。ネット社会は時代が求めたものとも言えるのだ。
そして、
相手と文脈を選ばない
アーカイブされて残る
というネットの特性は、僕にとっては実はやりやすい、快適な世界であるというのが20年近く過ごした実感であり、正直な感想なのだった。