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ある課長の告白。
数年前の4月の夜、僕は西麻布にある「かおたんラーメン」に夕食を食べに行った。「かおたんラーメン」は青山墓地の近くにあり、僕の勤める会社からも徒歩で行ける。およそ10分くらいかな。歩くのにちょうどいい距離と、夜風がさらさらと吹き、確か桜も咲いていた。青山墓地は桜の名物だからね。夜の散歩がてらとしては悪くない。ラーメンを食べよう。食べたらまた歩いて会社に戻り、仕事の続きを少しだけやろう。
久しぶりの「かおたんラーメン」はそこそこ混んでいて、僕は奥のテーブルで他の客と相席することになった。まあ、そうは言っても屋台に毛の生えた、と言っては失礼だが、とにかくカジュアルな店ではあるので、相席といってもそれは非常に自然な感じがした。僕は5〜6人の見知らぬ団体客と同じテーブルに座り、ビールと、ラーメンを注文した。そしてバッグから文庫本を取り出し、ビールをちびちびと飲みながら待つことにした。一人の時の時間つぶしは本でも読むに限るのだ。
その団体客はみな30代以上のように思われた。女性も2人ほどいたんじゃなかったかな。僕は時々ビールを口に運びながら、時おり笑い声の混じる彼らの会話をBGMとして、黙って本のページをめくっていた。ふと、相席の団体客の談笑が止んだ。中でも一番年配らしき「課長」と呼ばれる男性が、それまでとは少し調子を落としたトーンで、「実は俺さ」と話し始めたからである。
相席なので僕の2メートル以内に課長はいる。僕もついつい聞いてしまう。
「実は俺さ…」
「なーんですか課長、あらたまって」
「声が暗いなあ」
「…いや、実はちょっと大事な話なんだ」
「えっ、大事な話って…」
「まさか」
一同が息をのむ。ごくり、という喉の鳴る音が聞こえるかのようだった。
僕は本を読むフリこそしていたが、もはやいわゆる「耳ダンボ状態」で、課長の告白に耳を傾けていた。
「…ちょっとちょっとやだなあ課長、やめてくださいよー」
「そうですよ一応お花見の席なんですから」
ここで思い出した。やっぱり青山墓地には桜が咲いていたのだった。お花見シーズンと言われる季節の夜だったのである。
「…うん、わかる、でもいい機会だし、こんなにみんなが集まってるというのも貴重だしな、実は…俺は会社を辞める事になった」
「ええっ」
ざわめき。思わず僕も「えっ」と声を上げそうになってこらえた。
課長、辞めちゃうんですか?知らない人だけど。
「課長、辞めちゃうんですか?本当に?」
「ちょっとそれ悪い冗談ですよ、今のプロジェクトどうするんですか」
「もちろん今すぐにじゃない、引き継ぎはちゃんとやる、でも、それほど先じゃないよ、もう決めた事なんだ」
「…課長!」比較的若いと思われる女性が少し大きめの声を上げた。
「課長!私たちはみんな課長について来たんですよ!」
「そうですよ!」
「こんな中途半端な時期に辞めるなんて、困るし、第一、嫌です!」
「すまん」謝る課長。
「冗談じゃないですよ、課長、辞めないでください」
「辞めないでくださいよ」
僕からも辞めないでください、と言いそうになるのをこらえる。
「…すまん」
課長が口をひらく。みんなが黙って課長の次の一言を待った。
「すまん、実は…嘘だ」
「えっ」
「嘘?」
「嘘なんですか?」
「だって今日は四月一日じゃないか」
そうだった。この日はエイプリルフールだったのである。にわかに面々に安堵の表情がこぼれる。途端に弛緩した空気がラーメン屋内に横溢する。
「なあ〜んだ〜」
「いやーびっくりしましたよー」
「一本取られましたよ課長!」
「課長も人が悪いなあ」
「いやーすまんすまん、こういうことができるのも一年に一回だからなあ」
課長が人の良さそうな笑みでワハハと笑うと、一人だけ見知らぬ男の混じったテーブルは、ふたたび柔らかい空気に包まれた。さっき誰かが言っていたように、このメンバーは皆この課長を慕っているらしかった。
それにしても、と僕は思った。それにしてもこんなベタなネタをリアルで聞くのは久しぶりだな。
僕はこのメンバーを密かに「チーム課長」と名付けすると、いつの間か食べ終わったラーメンの丼を置いて、音もなく相席のテーブルを後にした。背後からはまだチーム課長の談笑が聞こえる。
夜も更けた。外には春の夜風と白い夜桜が舞っているのだろう。だが勘定を終えて「かおたんラーメン」の扉から覗きこむ外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりであった。
僕の行方は、誰も知らない。
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