村上春樹の結婚スピーチ。
「村上春樹雑文集」より、友人のイラストレーター安西水丸の娘さんの結婚式に寄せたスピーチ。式の行われた2002年当時、村上氏はアメリカに住んでいたので、メッセージを送って代読してもらうという形だったそうです。
かおりさん、ご結婚おめでとうございます。
僕もいちどしか結婚したことがないので、
くわしいことはよくわかりませんが、
結婚というのは、いいときにはとてもいいものです。
あまりよくないときには、
僕はいつもなにかべつのことを考えるようにしています。
でもいいときには、とてもいいものです。
いいときがたくさんあることをお祈りしています。お幸せに。
村上春樹
たったこれだけの短いメッセージですが、いいですね。それこそスピーチの常套句的にいうならば、「3つのS」という感じでしょうか。短くて(short)、シンプルで(simple)、洗練されてる(sophisticate)。
だいたい結婚式におけるお祝いのメッセージは短ければ短いほどよいと言われている。映画「卒業」のダスティン・ホフマンをのぞけば、基本的にみんな新郎新婦を祝いに、(たぶん)忙しい時間を割いてわざわざ駆けつけているのだ。冗長で自己満足的なスピーチで、他人の貴重な時間を奪ってはいけないのである。
かく言う僕も、今まで披露宴は10回近くおよばれしているのだけど、何人かの友人にスピーチを依頼してもらった。もちろん光栄なことだ。別にスピーチが上手いわけでもないし、慣れているわけでもないのだが、おそらく頼んだ別の誰かに急用でもできたのだろうと思われる(ジョークです)。
スピーチを頼まれるケースは20代に多かった。それはとりもなおさず20代で結婚する友人が多かったということ。そんな時の僕は例文集を買ったりして色々と悪戦苦闘しながら、料理ものどを通らないほどドキドキして式に臨んだ。そして終わったあとは、「もっと上手に、自然に、気持ちを伝える言い方があったんじゃないか」と悩んでしまうことばかりだった。
対して、世の中には「スピーチ名人」という人がいる。話の構成、声の張り、ユーモアのセンス、晴れやかさを併せ持ち、およびそれらを披露宴というぶっつけ本番の場において、すっかり最適化されたものとしてアウトプットできる人のことである。あれはたいしたものである。そういう人のスピーチは少しばかり話が長めになろうとも、「芸」を楽しむ要領で許せてしまう。完成度が高いから聴いていて気持ちがいいのである。それは古代における物語の語り部を思わせる。人が話に耳を傾けるためには、それ相応の技術がいるということであろう。つまり話の上手は声そのものやリズム感においても、秀でていなければならなかったはずだ。
僕も年齢的には40代も後半にさしかかっているので(早いものです)、今後は友人として披露宴に呼ばれるケースは非常に少ないように思われる。だが、いつ出席しても晴れがましい席というのはなかなか良い。少なくともみんながいそいそと、誰かを祝いに集まっている場であるのだから、それをピースフルでハッピーな場と言わずして何と言おう。そのような場にこの身を置くことが、悪いことであるはずがない。そう、「卒業」のダスティン・ホフマンを別にすればね。
やぶさかではありません!