個性とは何か。
理由もなく気分の良い土曜日の朝である。
人の気分というのは読めないもので、何かわかりやすく良かったことがなくても、突然気分が晴れたりする。その逆もしかりだ。あてにならない。昨日はどちらかというとネガに振れる出来事があったのだが、寝る前のウイスキーが良かったのかも。
映画『グリーンブック』を観てから、ウイスキーというとドン=シャーリーを思い出してしまう。彼はツアーの間の毎日、一晩にウイスキーのボトルを一本空けるのだ。毎晩ボトル一本飲み干させるだけの虚無というのもなかなかすごい。まあ、自分は虚無感では酒は飲まないが。
自分が人生の中で何かを為す人間か?という問いがあったとき、おそらくNOだろうという気持ちがある。何しろもう50代だ。昔だったらそろそろ寿命といって差し支えない年齢になっている。先人の多くが語っている通り、人生は短く、早い。そして「何かを為さなければならない」「何か成果を出して人よりも突出しなければならない」という、いわば成功のドグマというのは、世界をパワーゲームと見たときに大勢に肯定される価値観なので厄介だ。厄介というのは、自分はどこか否定したいという立場なのである。なぜなら、この価値観においては一部の勝者は大満足かもしれないが、大多数を占めるそれ以外の多くの人が包摂されない、救済されないからである。
Twitter経由で知った「歌舞伎超TV」が面白いので見るようになっている。「軍神」というすごい二つ名のホストプロデューサーである心湊一希(みなと・いつき)が、その圧倒的推し出しで若いホストたちを育てていく。銀座のホステスだった母の再婚相手であるフィリピン人男性から虐待を受け、マニラのスラム街で暮らした経験もあるという彼だが、日本に戻って会社経営とホストで成功し、歌舞伎町で複数の人気ホストクラブをプロデュースしている。発言には強い説得力があり、孫氏の兵法やメラビアンの法則をパッと引用するなど、いろいろな含蓄が垣間見える。教養的なのである。それにしても「軍神」って誰がつけたんだろう?なかなか絶妙である。
この彼、心湊一希などは先に書いた「成功主義」の突端にいるような存在だろう。企業が設定しなければならないと言われる「ミッション・ビジョン・バリュー」を自らにも設定し、また若いホストたちにもそれを求めていく。大金を稼ぎ、周りの人にも認められ尊敬される。「俗世」などと言われるが、この世は実際俗っぽく、人々は身も蓋もない欲望を本音のところでは求めている…という点で考えれば、成功は必須となる。人生の時間をかけて仕事をしているのだから成功しなければ嘘だろう、という論も説得力を帯びて聞こえる。
と書いてるだけで疲れてくる。
おそらく自分はもう少し「枯れた」世界が好きなのだ。熱量が高すぎると息苦しい。人が生きて仕事をする以上、頂点を目指すべき…というのはひとつの「教義」にすぎない。トリミングされた限定的な世界だ。近代の、高度経済成長以降の、経済効率特化型の戦い方にすぎない。これがすべてだと考えてしまうのは危険だろう。もちろん、それに恍惚を感じる人もいて、そういう人はその世界にコミットする。それだけの話だろう。
人はもっと「負わされて」生まれ落ち、自分から見える世界を見て、ある程度対処的に生きる中で、手応えを感じたり天命を感じたりしながらあやふやに生きていく。そして、決して主体的でない現実を受け入れ、納得したりしなかったりして人生という時間を過ごしていくのである。その静かで凡庸な侘び寂びにこそダイナミズムがあるのだ。
成功幻想みたいなものが自分は今ひとつ気に入らないのは、なんだろうね、おそらく代替可能なものだからではないか。ひとつの型、ひとつのパターンに見える。それは逆説的かもしれないけれど、市井に数多いる凡庸な人々、本当はそれこそが個性的なのだ。世の中で「個性的」と言われているのは「個性的である」というワンパターンに自分を当てはめていった人ばかりだ。ヘアスタイルで言うとわかりやすい。モヒカン刈りは「個性的だ」と言われるが、それは「モヒカン」という特徴的なスタイルに自分を当てはめただけの「無個性」だ。自分ならではのものが何もない。個性というのは上っ面の外見で語られることが多いが、そんなの安易でつまらないと思いませんか?
と、長くなった。本当はもうひとつ書きたい話題があったのだけど(脳内物質についての話である)、また次回に持ち越すことにしよう。
今日明日が、これを読んでいるあなたにとって気分の良い週末になりますように。
それでは。