画集につけるはずだったあとがき


1 
文章が長すぎた。長すぎるヨネ!?って言いたい。
長すぎるのはわかってるのに削れなかった。
削ればいい所がよくわからなかった。ていうか自分語りが長すぎてけっこうきつい気もする・・・。きつい・・わかってるっす・・・。・これでも半分以上削ったっす・・。

画集といったときに、写真や文章も一緒にのせるかを最初に悩んだ。文章は個展の時には雑多なかんじで机の上に置いて、読みたい人が読めばいいと思っていた。画集にともにのせるということは、良くない効用もあると思った。絵を見る人の想像力の隙間を埋めてしまうかもしれない。
じゃあなぜ載せたかというと、そもそも部数もたくさん刷るわけでないし、これを読ませたいひとたちがいるから、それだけだとおもう。ずるい、、伝えたいことをただ絵で表せばいいのに、絵だけじゃ足りなくて言葉もかいてしまう。
彼らは私に絵を好きにさせてくれたり、ことあるごとに絵から離れそうになる私を絵のそばに置き続けてくれた人たちだ。その人たちのためにこの画集を作ったといってもいい。
何度もしつこいけど、人が苦手で孤独はすきだけど、絵は一人じゃ描き続けられない。
それならもう画集、というより手紙とか作品、という表現の方が近いのかもしれないな、と思った。なので画集という概念を飛ばして写真とかそういうのも全部いれちゃおうと思った。(この決断が後々構成とか校正とかが大変になる要因なのだけど・・・)
まあ、言葉ひとつひとつ絵ひとつひとつは共感できないことはそれはそれで、置いておいて、長いよと思ったら飛ばして読んだり、そのうち忘れたりしてくれればと思う。
ただ私は私の話をしてみたってだけだ。
これが果たして良いかどうかは、まあ、わかんない。

何年にもわたって書いたものを読み返すと、生き方の癖というものがあって、それは下げてあげて、また下げてあげてのような癖な感じがした。
ぐるぐる回ってる。
そして答えもでないことをああでもないこうでもないと、ゆらゆら考え続けてる・・。
やる気なくしてやる気出して天国! 体調崩して、結局絵描いたら元気!みたいな・・・
少しずつは上昇していてほしいものだけど。上昇しているんじゃなかろうか・・・。
回りながらも見えてる景色は変わっているし、だから絵も変わっていけてるじゃないだろうか・・・・。そもそもこの本に需要はあるのか・・・ずっと怖い。
ほら、クレーも日記を描いてたし・・・
いつか万が一死んだ後でも、100年後でもいきなり絵が評価されたときに、この本があれば、100年後の人に、なにか伝えられるかと思った。なんという自信家だろう・・。
だから今は「・・・だろうか・・」とかいって色々断定してない。
現時代に対してあまりに無責任だろうか・・・。
言葉にして残すことに、心が断定的でないことを、断定的に残すことが結構こわい・・。
読む人がなにか決めてくれれば、とかいう余白も、必要なんじゃないだろうか・・・。
とかいって一応絵描きだし、結構絵は描いてきたしもっと載せたい絵もあったりして、やっぱりもっと絵をいれるべきだったか、文章を全部いれるべきだったか・・・そもそもこの構成で良かったのか、だとか、ひたすら、最終稿の前夜まで悩んでいる。(今は最終稿前夜。わがままに付き合い続けてくれたゆりさん本当にありがと・・)
構成からデザインから全て自分でやってみて、文字校もしたけど誤字脱字があったら許してほしい・・。
色はゆりさんが丁寧にみてくれたので、かなり本物に近い感じになってうれしい。

2 
そもそも書くのはいつも書いてるのに話すのが苦手なので、だいたい絵を前にした私は嘘しか言えない。人見知りも激しい。友人のアーティストと話すと彼らの作品についていとも簡単に、とはいえそれは日々考えつくしてるであろう明快な言葉で作品について解説している。「わたしは、こうこうこうで、こういう思いがあっで、世の中にはこういうのがあって」。すごい。全部パクりたい。全部パクっても無駄なのはわかってる。
私もそういう風に話したい。でもできない。
「花沢さんは青がすきなんですね」「あ、あっはあ、へへへ」しか言えない。試しに言ってみる。「悲しいときそらを見上げたんです、そしたらいつもより青がより青く深く、優しく私にふってきたんです。それから私は青をまとっているんです」
ウソだ。完全にウソである。
本当に悲しいとき私は空を見上げる余裕さえなかった。本当に悲しいときの色なんて思いつかない。本当に悲しいときは目をとじて、なにも見ず何も感じず、時間がすぎるのを石のように待つしかない。それが過ぎ去った後の空というのはだいたい、とっても美しいものだ。
だから、絵を前にしてそのとき言えなかったこと、誰かに伝えたいことをこうやって文章にして書いているのかもしれない。文章なら良いか悪いかは置いておいていくらでも書ける。
この画集に乗せた文章は少なくとも、話し言葉よりは気持ちをこめて、嘘のないものだと思う。正直にいたい。けど何年後かに読み返してこれは嘘だったなと思うときもある。でももうそれは、時の波にわたしの言葉は勝てないということなだけだ。
時間ってロマンスカーみたいに(今ロマンスカーにいるからだけど)しゅーっと進んでさっき見た景色、マンションの光とか、病院の名前とか、木の多さとか、そういうのどんどん情報として届けてくる。いちいち覚えてたら頭がパンクしちゃうから記憶は忘れるようにできているんだろう。
記憶は忘れられるから、わたしたちは幸せでいられるんだろう。
だけど、見た、感じた、事実は確かにそこにあって、脳の記憶でなく身体のどこかに保管されているんだと思う。そういうような、意識上では思い出せない記憶。 
そのかけらが絵や文や、写真のどこかに眠ってるといい。


絵は自由だ。だけど、多分身に染みて自由を感じれるのは言葉なのかもしれない。
絵はあこがれだ。だけど私を救いはしない。だからといって言葉が私を救うとも思えない。
だけど描き続けてる。友人のアーティストで絵そのものが彼彼女を救っているであろう人がいる。
彼らにしかかけない世界があって彼らが訴えるものがあるのなら、私にしか描けない世界はあるとしても訴えたいものは大それたことじゃなくて、必要ない気がしちゃう。
それでもやめないのは、ただ描いてたい、書いてたい、それだけなんだと思う。
文中でもかいたけど、最初の頃はなにかと理由をつけて、誰かのために、なにかのために描いてる気がしていた、だけど多分ずっと私は、ずっと最初からわたしのために、わたしがかきたいから、それだけで描いていた。
私は私の絵のなかの者たちが生まれて、存在して、こちらを見ているのを、見かえしたいだけだけかもしれない。そのものたちが存在した瞬間から物語を勝手に生きていくのが、なんだかうれしい。
ただ描き続けていきたいんだ。ただひたすらに、描いていたい、感じていたい。
死ぬときに、ああ沢山描いた、最後に描いたのは良いかもね、とおもって、息を止めたい。
本当のものが描けた、と思えたのは3枚くらいだと思う。えみちゃんの死に顔と、おばあちゃんの死に際の絵は本当のものっぽい気がする。 
あとは、ちょっとわからない。
ちょっとわからないから、これからも描いていくんだとおもう。


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