![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/64618507/rectangle_large_type_2_a3d298b7ce36ddf7e6b1cf93d320281e.png?width=1200)
自由詩の中の秩序
自由詩を、「全くの好き勝手で、けじめもなく、たった一つの形式美さえ求めない言葉や文で構成された作品」と呼ぶのなら、僕は、そんな詩など書くのはごめんだ。秩序のないところに美はない。僕はそう思う。一見でたらめな現象の中にも、ある法則や力学によって数式や簡単な図や図形などに置き換え、単純に説明され得るものが多いだろう(もちろん多少の例外やゆらぎはあるにしてもである)。文学作品も同じだと思う。作品のテーマに基づいた「方向性」や「ある規則」の上で、そこにある言葉や文が意味を持つようになると言えるのではないか。
一つの言葉は、それ単独では本当の意味をなさない。言葉は、隠された意味も含めて多義的である。つまり、一つの言葉に対して、複数の意味が与えられているものが多い。また、それが使われる場面や状況、会話等の文脈などで大方の意味が限定されていくのがふつうである。これは、非常に複雑な言葉と意味とイメージの連鎖と言える。
ならば、詩の中にもテーマに即したコンテクスト(文脈)は当然必要だろう。全くのデタラメでよいわけがない。そのためには、表現の中に一貫した方向性を持たせるための工夫が必要になるはずだ。
そこで、僕は修辞法を使う。しかも、一つの詩の中で、その修辞法を自分なりに規則性をもたせて使うようにする。すると、そこに韻律とはまた違ったリズムが出来上がる。そうしてそこに秩序も生まれる。秩序は美を生み、美は芸術的な表現を促進する。自分でそれが感じられ、「とりあえず、これでもいいかな。」と思えた時、はじめて試作品(プロトタイプ)が出来上がったことになる。あとは、それをネットにアップし、時折読み直しては、必要に応じて修正を加えて、リストラクト(再構成)していくようにしている。
この時使う修辞法は、それほど複雑なものではない。フレーズや文型・文法的な表現の繰り返し、連想語(和歌で言うところの縁語や掛詞のようなもの)、文字数(音数ではなく漢字かな交じり文の見た目の文字数)、空白空行や記号などの挿入・省略、そして各種の比喩表現など。必要に応じてこれらを交えながら、通常の文章とは違った詩的な空間を形成するための工夫をする。こうすれば、韻律上のシバリがなくても、明らかに通常の文章とは違ってくるので、いわゆる「散文詩」というカテゴリーに含まれる作品に仕上げることが出来ると、僕自身は考えているし、実践しているつもりだ。
実際には、こんなことを考えたり、気にしたりしなくても、詩を書ける人は多いだろう。好きで詩を書いている人たちは、意識せずにこれを実行している人がほとんどで、しかも、それが、その人の詩のスタイルとして定着しているということだ。ただし、自分で一からスタイルを確立するよりは、好きな詩人の好きな作品を繰り返し読んで、そのスタイルを拝借して詩を作ってみるほうが、初めてのときはやりやすいと思う。僕も若い頃は、詩を書く練習として、よくそんなことをしていたし、未だにおもしろい詩だなと思ったものは、その形を借りて詩を書いてみることもしている。これは、テーマや内容など詩文自体を真似するのとはわけが違うので、盗作には当然ならないし、練習として書くなら、なおさら問題ないということである。そして、さらに自分なりの修正を加えて、一つの得意な形に仕上げていけばいいわけである。
人間というのは、おかしなもので、自分のオリジナル・スタイルだと思っていたものが、過去の詩人の書いた詩を詳しく調べてみると、既に同じようなことをしている人が結構多くいるものだ。それに気づいた時、その詩人に何か親近感さえ感じられるのは、驚きでもあり、また、嬉しさでもある。