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【動画資料】荻野吟子

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年表

注 文中でこのように引用欄に記しているものは、吟子の生涯に関する制度史、女性史です

天平宝字元年 女医史
令義解に女医の記述がある
 令義解とは、天平宝字元年に制定された養老律令の解説書のことで、養老律令内の医疾令という規定の中に女医を取ったとの記述。これは、官戸と呼ばれる賤民の女性から知性のある人に産科、外科、鍼灸をやらせたという記録が残っている。定期的に試験も行われていたと記録されており、相当な熟練者が起用されていたと考えられる。
 続日本紀によれば、722年に初めて設置された

江戸時代
 野中婉や度会園女という女医がいたという記録が残っている
 シーボルトの娘の楠本イネは明治4年に開業した後、宮内省御用掛となる。
 江戸の後期には、番付表という相撲の番付に見立てて、あらゆる者を順位付けして遊ぶというものが流行っていた。
 大阪医師番付集成という本の中に、寛政から明治までの大阪の医師番付45点を確認することができるが、その中で初出は弘化2年出版の「当時流行町請医師名集大鏡」に老松という町名とともに女あだちと記録されている。この女医は内科医であった。
 また、寛永5年に書かれた「浪花当時発行町請医師名集」では女医は4名に増え、これらはいずれも名医であったと記録されている。彼女たちは、ウサギ針と呼ばれた小児専門の鍼灸医や按腹という妊婦への施術が専門だったことがわかっている。
 また、女医であることを記録していることから、患者にとって女性医師であることが重要であったと推測される。鍼灸や按腹だけでなく、内科の診療においても女性患者にとって女医であることは魅力であったのだろう。
 また、この数年後にも同様の女医が記録されていることから、彼女たちの活動が長期にわたって受け入れられていたことがわかる。
 しかし、明治になると、番付から女医という分類が消え、女医が活躍した鍼や按腹という診療科もなくなり、漢法、洋法、整骨科という新たな近代的診療科目で分類され、女医の名はなく、男性医師の名のみが並ぶようになる。近代の医療制度の改変が江戸時代までの上位の活動や社会的地位に大きな打撃を与えたのだと考えられる

嘉永4
 俵瀬村の名主である荻野綾三郎のもとに生まれる。吟子は幼い頃から聡明で、勉強好きであった。10歳の頃には四書五経や小学を読んでいた。
 四書五経とは、儒教の書物の中でも特に大切な4つの書と5つの経をまとめたもの。4つの書とは、「論語」「孟氏」「大学」「中庸」であり、5つの経とは「易経」「詩経」「書経」「春秋」「礼記」の5つ。
 この年は、ペリー来航の2年前に当たる
 

明治元年
 川上村の名主、稲村貫一郎と結婚。しかし、この結婚は1年程度で破綻。原因は、貫一郎に淋病をうつされたこと。
 淋病は、淋菌によって感染する性感染症。症状は男性なら淋菌性尿道炎、女性では子宮頚管炎を発症する。進行すると、子宮内膜炎や卵管炎などの症状を起こすことがあり、発熱や下腹痛、自覚症状となる。後遺症といて不妊症が考えられる。
 大学東校(東大医学部)に入院。女性患者と接する中で、男性医師から診察を受けることへの羞恥と、それが嫌で受診をできずに亡くなる人がいることを知る
 →女医の必要性を感じる

明治5年
 幕末の有名な儒学者寺門静軒が妻沼村で開いていた両宜塾に通う。
 寺門静軒は既に亡くなっており、松本万年に師事する。彼は寺門静軒に漢学を学び、医療も納めていた。また公許女医2号となった、生沢クノなどの女性教育にも力を入れた人であった。

明治6年
 父が亡くなると、22歳で上京。国学者で皇漢医の井上頼国が開いていた私塾の神習舎に入る。
 井上頼圀は、國學院大學の前身となる皇典講究所の創立に関わった人物。
 吟子の和歌は、頼圀以上の出来であった。
 国学は、多くの女性の生徒がいた。賀茂真淵は、門弟の3分の1が女性であったと記録されているし、本居宣長の門弟にも数多くの女性がいたと記録されている

明治7年
 甲府に女性私塾の設立を目指す内藤満寿子に要請され、同じく頼圀の教え子だった田中かく子と共に甲府へ行く。しかし、内藤が病気のため、再び東京へ

明治8年
 11月に東京女子師範学校(お茶の水女子大学)に一期生として入学
 地理・物理・歴史・化学・数学・博物学・経済学・教育論・簿記法・養生法・唱歌・体操など様々なことを学び、吟子は優秀な成績を収める

明治8年 制度史
 医術開業試験は明治8年に東京大阪、京都の三都市で実施された。

明治9年 制度史
 日本全国で医術開業試験が行われた。
 しかし、試験問題が県によって異なったため、難易度に差があるという問題が生じた。

明治12年
 試験を受け卒業が認められる。この時卒業ができたのは18名だけだった。
 卒業に際して、幹事の永井久一郎に女医になる意志を伝えたところ石黒忠悳に紹介される。石黒は後に赤十字社の社長となる人物。
 石黒の紹介で宮内省侍医の高階経徳が経営する好寿院への入学が認められる。これは当時一流の民間医学校で、大学で教鞭をとる一流の教師陣が講義をしていたため、大学で学ぶのと変わりない授業を受けることができた。
 この時、吟子の他に数名の女性が在籍したが、卒業できたのは吟子のみ。吟子は在学中も、複数の家庭教師を兼ねていた

明治12 制度史
 この時内務省が医術開業試験の問題を作り、全国に配布するという方式に変更された。しかし、これは郵送の手間がかかった。
 また、この当時受験資格は医学校の卒業生か、内科や外科を2年以上学んだ人であり、必ずしも学校を出る必要はなかった。
 もしくは、外国の医学校を卒業している、官率の医学校を卒業している場合、無試験で開業できた。

明治12
 大阪の朝日新聞に増重てるという女性が、開業38年の礼のために料亭で関係者を集めて宴会をしたという記事が載っている。

明治14 女医史
 明治11年には東京都が内務省宛に「婦人にて医術を修養せし者は試験の上相成りて然るべきか」との問い合わせがあった。これに対して「当分の間は議論に及び難い」と返している。
 また、明治14年に長崎県から「佐賀病院医学場に就学して、卒業後は試験を希望している女子に試験を受けさせていいか」との問い合わせに対して、当分は厳しいが何らかの指令に及ぶと返していた。
 内務省衛生局では判断ができなかったため、中央衛生会に審議を依頼した。そして、1881年に女医を許可するという結論も出されたにも関わらずこの結論は衛生局に留め置かれていた。これが3年の月日を経て、明治17年6月20日に正式に女性の医術開業試験の受験が認められた経緯である。
 中央衛生会は内務省衛生局の諮問委員である。
 この中央衛生会の審議の際、代表だった細川は「物事の筋道を考えると、男女が学ぶこと、また業務を行うことについて、場所を限定することは良くない。医術のようなものは男女が共に学び、共に行を行うべきである。
 男性医師は男の病気、女性医師は女の病気を治療すべきである。女性は羞恥心があり、男性医師に治癒されるなら、死を選ぶものすらいる。女医が女の病気を治癒すべき理由はここにある。
 女性の能力と性質が男性と異なることを持って、医師となることを認めない人がいるが、もし医師となるなら、試験を受けているはずであり、その試験は非常に厳しく滞りなものを防いでいる。卑しくもその試験に合格する者はその学術の至る所を明らかにしているなぜ男女を分ける必要があるのか。
 そもそも、町中には女性の医者がいて、それをみんな知っているじゃないか
といった演説を行っている。
また、ここでも令義解の女医について触れられている。

明治15年
 医術開業試験の願書を東京府に提出。しかし、女性の前例がないということで却下。

明治16年
 東京府と埼玉に提出するが再び却下
 内務省にも提出するが却下
 石黒のもとに助けを求める。石黒は、内務省衛生局長(医師制度の管理をしていた)の長与専斎に「女が医師になってはいけない」という条文がない以上、及第すれば開業させるべきと伝える。
 また、頼圀に紹介状を書いてもらう。その際、令義解には女性医師の存在が記されている。
 またすでに医術を学んでから出願してきたのは、吟子が初めてであった。そのため、十分な知識があれば試験を受けさせて構わない

 令義解とは、天平宝字元年に制定された養老律令の解説書のことで、養老律令内の医疾令という規定の中に女医を取ったとの記述。これは、官戸と呼ばれる賤民の女性から知性のある人に産科、外科、鍼灸をやらせたという記録が残っている。定期的に試験も行われていたと記録されており、相当な熟練者が起用されていたと考えられる。
 続日本紀によれば、722年に初めて設置された
 これらを伝え、受験資格を獲得する

明治16 制度史
 すべての官立及び府県立の医学校の卒業生は無試験となった。これは、全国統一になった結果地方では不合格者が増え、医師不足が懸念されたためとされる。
 しかし、これらの公立医学校は女子の入学は認められていなかった。

明治17 女医史
 従来開業女医が医籍に登録されている。明治22年に出版させた「日本医籍」には、明らかに女だと分かる名前の医師が62名登録されていた。
 こうした女医は、上述の大阪の他にも能登で整骨医を務めていた三野カス井、千葉県の石田そよ、奈良県の榎本スミなど、数多くの女医が存在した。
 このような幕末以前から、家伝の療法や薬方を伝えられ、営業する女性が数多くいたことがわかっている。

明治17年
 医術開業試験規則
 医術開業試験。この年、女性は吟子含め4名が受験したが合格したのは吟子のみ

明治18年
 後期テストで、内科学、外科学、産科学、眼科学、薬物学、臨床実験の専門試験。
 合格者は、132人中24人
 本郷三組町に医院を開設。
 この頃母親が亡くなる。母は、周りの人々が反対する中、彼女の成功を信じて応援し続ける人物であった。しかし、親の危篤にも関わらず、彼女の医院は患者で溢れていて、暫くの間帰省する余裕さえなかった。

明治19年
 本郷教会で洗礼を受ける。
 東京婦人矯風会に参加。
 この東京婦人矯風会は、明治19年にアメリカの禁酒運動を勧めていた世界女性キリスト者禁酒同盟の特販員が来日したのをきっかけに結成された。
 キリスト教的な保守思想に基づいて純潔・禁酒・平和を目標に掲げた。廃娼運動や禁酒運動に取り組んだ。

明治20年
 大日本婦人衛生会を設立

明治23年
 衆議院の婦人傍聴禁止の撤回運動。
 明治23年に公布された「集会及び結社法」に婦人の議会傍聴を認めないという条項があったため、婦人の議会傍聴禁止に対する陳情書を作成し、これを撤回させる運動を繰り広げた結果、婦人の議会傍聴が許されることになった。

 キリスト教の伝道師の志方之善と再婚。この時、吟子39歳、之義26歳だった。
 彼は、同郷(熊本)でキリシタンの大久保慎次郎の紹介で知り合った。彼らはいずれも女権論者で、キリシタンであったため意気投合した。また、一人の女性として孤独を感じていたためか、二人はすぐに深く愛し合ったという。
 公許女医第一号で、すでに活躍していた吟子の再婚に周りは大反対。大久保は、吟子の人柄は之義には惜しいとして二人の結婚に反対し、媒酌人を辞退している。また、吟子に洗礼を施した海老名牧師もこの結婚に反対だった。
 その結果、二人の結婚式は教会外でするしかなくなった。
 結婚生活は之義の実家の熊本でする予定だったが、彼女たちの理想論的な考えが受け入れられずに東京に戻っている。

 之義には、キリスト教の理想郷を建設するという理想が在り、ともに実現することに

明治24年
 この年政府は北海道後志国利別原野に土地を提供して開拓者を募った。之義の先輩で同郷の田中賢道が、二人に北海道伝道と異形の必要性を説いて、移住を勧めた。
 まず、之義は、単身で北海道に渡る。
 瀬棚郡利別原野(今金町神丘)に土地を借り、ここを神とともにいるという意味のインマヌエルと名付ける
 この頃吟子は、麹町の明治女学校で校医兼税理衛生の講師を努めていたが、この頃学校の舎監を務めるようになった。

明治27年
 吟子も北海道へ渡る

明治29年
 国縫に移住。土地の返還を求められ、キリスト教徒以外も来るようになったため
 吟子はこの地で医院を開設

明治30年
 瀬棚村(せたな町)に移住
 医院の傍ら、淑徳婦人会や日曜学校で奉仕活動に勤しむ

明治36年
 之義が同志社に通うために、北海道を離れる
 この間、吟子は病に臥せって実家に身を寄せる

明治38年
 之善が伝導のために北海道に移ると吟子も無理して同行。
 しかし、之善の体調が悪化し死亡
 その後3年間は、北海道に留まった

明治41年
 墨田区に医院を設立

大正2年
 脳溢血で63歳で亡くなる

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