【動画資料】荻野吟子
動画本体
年表
嘉永4
俵瀬村の名主である荻野綾三郎のもとに生まれる。吟子は幼い頃から聡明で、勉強好きであった。10歳の頃には四書五経や小学を読んでいた。
四書五経とは、儒教の書物の中でも特に大切な4つの書と5つの経をまとめたもの。4つの書とは、「論語」「孟氏」「大学」「中庸」であり、5つの経とは「易経」「詩経」「書経」「春秋」「礼記」の5つ。
この年は、ペリー来航の2年前に当たる
明治元年
川上村の名主、稲村貫一郎と結婚。しかし、この結婚は1年程度で破綻。原因は、貫一郎に淋病をうつされたこと。
淋病は、淋菌によって感染する性感染症。症状は男性なら淋菌性尿道炎、女性では子宮頚管炎を発症する。進行すると、子宮内膜炎や卵管炎などの症状を起こすことがあり、発熱や下腹痛、自覚症状となる。後遺症といて不妊症が考えられる。
大学東校(東大医学部)に入院。女性患者と接する中で、男性医師から診察を受けることへの羞恥と、それが嫌で受診をできずに亡くなる人がいることを知る
→女医の必要性を感じる
明治5年
幕末の有名な儒学者寺門静軒が妻沼村で開いていた両宜塾に通う。
寺門静軒は既に亡くなっており、松本万年に師事する。彼は寺門静軒に漢学を学び、医療も納めていた。また公許女医2号となった、生沢クノなどの女性教育にも力を入れた人であった。
明治6年
父が亡くなると、22歳で上京。国学者で皇漢医の井上頼国が開いていた私塾の神習舎に入る。
井上頼圀は、國學院大學の前身となる皇典講究所の創立に関わった人物。
吟子の和歌は、頼圀以上の出来であった。
国学は、多くの女性の生徒がいた。賀茂真淵は、門弟の3分の1が女性であったと記録されているし、本居宣長の門弟にも数多くの女性がいたと記録されている
明治7年
甲府に女性私塾の設立を目指す内藤満寿子に要請され、同じく頼圀の教え子だった田中かく子と共に甲府へ行く。しかし、内藤が病気のため、再び東京へ
明治8年
11月に東京女子師範学校(お茶の水女子大学)に一期生として入学
地理・物理・歴史・化学・数学・博物学・経済学・教育論・簿記法・養生法・唱歌・体操など様々なことを学び、吟子は優秀な成績を収める
明治12年
試験を受け卒業が認められる。この時卒業ができたのは18名だけだった。
卒業に際して、幹事の永井久一郎に女医になる意志を伝えたところ石黒忠悳に紹介される。石黒は後に赤十字社の社長となる人物。
石黒の紹介で宮内省侍医の高階経徳が経営する好寿院への入学が認められる。これは当時一流の民間医学校で、大学で教鞭をとる一流の教師陣が講義をしていたため、大学で学ぶのと変わりない授業を受けることができた。
この時、吟子の他に数名の女性が在籍したが、卒業できたのは吟子のみ。吟子は在学中も、複数の家庭教師を兼ねていた
明治15年
医術開業試験の願書を東京府に提出。しかし、女性の前例がないということで却下。
明治16年
東京府と埼玉に提出するが再び却下
内務省にも提出するが却下
石黒のもとに助けを求める。石黒は、内務省衛生局長(医師制度の管理をしていた)の長与専斎に「女が医師になってはいけない」という条文がない以上、及第すれば開業させるべきと伝える。
また、頼圀に紹介状を書いてもらう。その際、令義解には女性医師の存在が記されている。
またすでに医術を学んでから出願してきたのは、吟子が初めてであった。そのため、十分な知識があれば試験を受けさせて構わない
令義解とは、天平宝字元年に制定された養老律令の解説書のことで、養老律令内の医疾令という規定の中に女医を取ったとの記述。これは、官戸と呼ばれる賤民の女性から知性のある人に産科、外科、鍼灸をやらせたという記録が残っている。定期的に試験も行われていたと記録されており、相当な熟練者が起用されていたと考えられる。
続日本紀によれば、722年に初めて設置された
これらを伝え、受験資格を獲得する
明治17年
医術開業試験規則
医術開業試験。この年、女性は吟子含め4名が受験したが合格したのは吟子のみ
明治18年
後期テストで、内科学、外科学、産科学、眼科学、薬物学、臨床実験の専門試験。
合格者は、132人中24人
本郷三組町に医院を開設。
この頃母親が亡くなる。母は、周りの人々が反対する中、彼女の成功を信じて応援し続ける人物であった。しかし、親の危篤にも関わらず、彼女の医院は患者で溢れていて、暫くの間帰省する余裕さえなかった。
明治19年
本郷教会で洗礼を受ける。
東京婦人矯風会に参加。
この東京婦人矯風会は、明治19年にアメリカの禁酒運動を勧めていた世界女性キリスト者禁酒同盟の特販員が来日したのをきっかけに結成された。
キリスト教的な保守思想に基づいて純潔・禁酒・平和を目標に掲げた。廃娼運動や禁酒運動に取り組んだ。
明治20年
大日本婦人衛生会を設立
明治23年
衆議院の婦人傍聴禁止の撤回運動。
明治23年に公布された「集会及び結社法」に婦人の議会傍聴を認めないという条項があったため、婦人の議会傍聴禁止に対する陳情書を作成し、これを撤回させる運動を繰り広げた結果、婦人の議会傍聴が許されることになった。
キリスト教の伝道師の志方之善と再婚。この時、吟子39歳、之義26歳だった。
彼は、同郷(熊本)でキリシタンの大久保慎次郎の紹介で知り合った。彼らはいずれも女権論者で、キリシタンであったため意気投合した。また、一人の女性として孤独を感じていたためか、二人はすぐに深く愛し合ったという。
公許女医第一号で、すでに活躍していた吟子の再婚に周りは大反対。大久保は、吟子の人柄は之義には惜しいとして二人の結婚に反対し、媒酌人を辞退している。また、吟子に洗礼を施した海老名牧師もこの結婚に反対だった。
その結果、二人の結婚式は教会外でするしかなくなった。
結婚生活は之義の実家の熊本でする予定だったが、彼女たちの理想論的な考えが受け入れられずに東京に戻っている。
之義には、キリスト教の理想郷を建設するという理想が在り、ともに実現することに
明治24年
この年政府は北海道後志国利別原野に土地を提供して開拓者を募った。之義の先輩で同郷の田中賢道が、二人に北海道伝道と異形の必要性を説いて、移住を勧めた。
まず、之義は、単身で北海道に渡る。
瀬棚郡利別原野(今金町神丘)に土地を借り、ここを神とともにいるという意味のインマヌエルと名付ける
この頃吟子は、麹町の明治女学校で校医兼税理衛生の講師を努めていたが、この頃学校の舎監を務めるようになった。
明治27年
吟子も北海道へ渡る
明治29年
国縫に移住。土地の返還を求められ、キリスト教徒以外も来るようになったため
吟子はこの地で医院を開設
明治30年
瀬棚村(せたな町)に移住
医院の傍ら、淑徳婦人会や日曜学校で奉仕活動に勤しむ
明治36年
之義が同志社に通うために、北海道を離れる
この間、吟子は病に臥せって実家に身を寄せる
明治38年
之善が伝導のために北海道に移ると吟子も無理して同行。
しかし、之善の体調が悪化し死亡
その後3年間は、北海道に留まった
明治41年
墨田区に医院を設立
大正2年
脳溢血で63歳で亡くなる