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何も贈らない父の日

2021年6月20日 父の日

おそらく30年間で初めて。いや、もしかしたら40年近いかもしれない。
とにかく記憶にある範囲ではじめて、「父に何も贈らない父の日」を過ごします。

去年の父の日。

私は庭のくさむしりで日焼けをした父のことを記していました。
静かに自分の体の中に居座るガン細胞を静かに受け入れ、共存している父への敬意。そして1年後の父の日に何を綴れるのか?なんて思いをはせたりしています。

電話ごしの父


昨日、病室に行った母に電話をつないでもらい、ほんの数分間 父と言葉をかわしました。

どの程度、わたしと話をしていると認識できているのかを確かめることはできないけど、少なくともわたしは父の声を聞くことができました。

その姿を確認したわけではないけれど、わたしが発した言葉を耳で聞き、頭で理解し処理して、自分の思いを言葉にして伝えるその連携があまりうまく行っているわけではなさそうな父の様子から、普段自分の脳がそれらの一連のことを瞬時に行なってくれているあたりまえの機能を、実はすごいことだよな…と感じ、脳に感謝の気持ちがわいてきたりしました。

3週間前、ちょうど父がホスピスに転院したタイミングで15分だけなら面会してもいいということで、急遽ひとり新幹線に飛び乗り、父に会いに行きました。

ベットで横たわる父は、その日はあまり調子が良くなく、うまく目を動かすことができませんでした。目の前に掌をかざし「この手を見ててね」って言いながら、ゆっくり手を動かして視線を移動させてあげないと、父の視界にわたしを映すことができませんでした。

とはいえ、娘の前でいい格好をしたいという意識が働く父は、必死で体を起こしたいと訴えつつ、意識がここにあったり、どこか遠いところに行ったり。現実とそうでない世界との境界線をいったりきたりしていました。「今一番、何がしたい?」って聞いたら、「早くここを脱出したいなぁ。家に帰りたい」と言いながら、家は大阪なのに自分が育った京都の話をしたりしていました。

その2ヶ月ほど前に母の白内障の手術につき添うために帰省していた時は、ゆっくりでありながらも、自分で歩き、食事をとり、お風呂に入りできていたのに…

変わってしまった姿にわたしは涙腺を止めることができず、マスクを濡らしたまま、たった15分の面会を終えました。


なんだかその後、自分の気持ちを整理しきれず、母とはすぐに別れ、自宅で待つ娘たちに連絡を入れることもないまま新幹線に乗り帰宅。

新幹線の中では、移動中に処理する予定だった仕事に手をつけることも、パソコンを開くこともなくただただじっとしていました。

父の日のプレゼント

父の日に何を贈ろうか…

何か物が役に立つとは思えない。
せめて母の気持ちが晴れるような元気なひまわりのアレンジを贈ろうかな?とネットショップを眺めてはみるものの、枯れた後にゴミとして捨てられるであろうひまわりの姿が頭の隅をちらつき、なんだか命あるものを贈る気になれず、結局なにもしない選択をしています。


簡単に会いに行きづらいこの距離をどうのこうの言っても仕方ないし、面会の自由がなくなっているコロナに八つ当たりしても仕方ない。


おそらくあまり長くない父と娘たちが会話できる場をつくりたいと思っていたけど、病室の窓ガラス越しに見れるだけという話を聞いたら、その姿を想像するだけで胸がつまり、果たしてそれをすることがどういうことなのか?を消化しきれずに、まだ胸の中でいろんな思いが交差するのをただただ受け入れています。


全てのことに答えが存在するわけではないし、こうして思いを巡らせることが大切だと言葉をかけてくれる人がいるのかもしれないけど…


ただただ、じっとしていると、特に古文が好きだったわけでも、そんなに分かっているわけでもないのに…


徒然なるままに日暮らし…と頭に言葉が浮かび、脈絡なく、盛者必衰の理をあらはす…と消えていく。この何をどう消化していいのか分からない現実にしばし身を委ねながら、今日のありのままの自分をここに記し、この想いがどうおさまっていくのか?おさまらないのか?その全てを受け入れてみようかなと思います。


とはいえ…
うん。とはいえ…


出てくる言葉はただ一つ。

お父さん。いつもありがとう。
これまでも、これからもありがとう。


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