「考える」とは何か?〜『読書について』を読んで〜
こんにちは!
シンノスケです。
今回はショーペンハウアーの『読書について』を読んで、「考える」とは何か?と考えたので共有します。
皆さんも人生で1回ぐらいは「考える」とか「思考」って何なのか?って考えたことがあるかと思います。
今回は僕なりに考えて、言語化してみたいと思います。
「考える」についてはいろんな方向の思考ができますので、ゴールは「自分の思考」とは何かを定義すること、としたいと思います。
読書は他人の思考を取り入れること
『読書について』の中では読書は「他人の思考を取り入れること」と表現されています。そのため、多読しすぎると他人の思考のみが入って「自分の思考」がなく、自分に根差したものではなくなってしまう。ということを言っていました。
そこで疑問に思ったのが、「自分の考え」は何を指しているのか?です。
人間は社会的な生き物で、常に誰かしらから影響を受けています。
僕がこの文章を書けているのも、日本の学校教育を受けているからです。学校教育ではいろんな文章を読まされるし、メディアからいろんな情報が入っています。他の人の思考に影響を受けていない人はいません。
純粋な自分の思考って何なのでしょうか?
考える内容
いきなり自分の思考とは?を考えるのは難しいので、普段自分が考える内容から整理したいと思います。
大人になって考えることは「仕事」「自分の人生」についてが大きいと思います。他にも抽象的なことや社会問題などについても考えます。
「仕事」では主に利益を得るためにどのような戦略を取るべきか、どのようなアクションをするべきか。を考えると思います。
「人生」については自分の理想とは何か、何がしたいのか、そのためにどうするべきなのかを考えます。
抽象的なことや社会問題ついて考える際も、何かゴールがあって、そのために考えるかと思います。
上記を振り返ると、考えるとは何かアウトプットがあることはセットなような気がします。もちろんアウトプットが出る前にやめてしまうこともあるかと思いますが、アウトプットの想定が全くないまま考えることはできないのではないかと思います。
「考える」は経験から引っ張ってくること?
仕事では過去の経験や知識からアウトプット(施策や戦略)を生み出し、選択し、判断する、ということがメインになってくるかと思います。
考えるとは、「その人の頭にある膨大な経験や知識から使えそうなものを組み合わせて、アウトプットを生成する」だと考えます。なんかAIっぽいですね。
そうすると『読書について』で言っていた、多読で他の人の思考ばかり使用するのはその人の思考ではない。と言っていたことは、少し違うのでは?と思います。読書も知識の一部でその人の頭で取捨選択し、組み合わせてアウトプットを生成しているのであれば、多読は考える材料が多くなり、むしろよりよりのでは?と思います。
逆に多読して取捨選択もせずに、「〇〇ならXX」というように、その考えを適応する状況の判断や論理の組み立てもなく、「そう書いてあったから」というものは自身の考えではないように思います。「論理的ではない考え」は、直感ですよね。意見ではあるかもしれませんが、考えではない気がします。
「自分で考える」とは
僕の中では「自分で考える」とは「アウトプットを出すために自身で論理を組み立てること」と定義したいと思います。
つまり、考えるための土台(知識や経験)は別に自分のものでなくてもよく、論理を組み立てるということを自身が行っていれば、それは「自分の考え」です。
最後に
めちゃめちゃ抽象的なことを考えたのですが、本筋からずれるということで今回は「考える」についての他の思考はカットしました。
とても面白い問いだったので、今後も抽象的な問いについて考えたいと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
ではまた!
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