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麻布にある3つの「更科そば」も気になって…

更科(さらしな)は、江戸の蕎麦屋の老舗で、「藪 (やぶ)」や「砂場(すなば)」と並び、蕎麦御三家の一つに数えられています。

そして、東京の麻布という地域に「更科」と名乗るお蕎麦屋さんが徒歩5分程の範囲のなかに3つもあるので、ちょっと気になったので少し調べてみました。

麻布にある3つの更科そばとは?

「更科」の歴史

信州出身の八代目堀井清右衛門(現・「更科堀井」初代布屋太兵衛)は、「信州更科蕎麦所 布屋太兵衛」を創業した。堀井家は、信州高遠の保科松平家の御用布屋で、信州特産の晒布を背負って保科家の江戸屋敷に出入していた。初代は堀井清助(布屋太兵衛)といい、江戸では麻布1番通り竹屋町にあった保科家屋敷内の長屋に滞在を許されていた。堀井清助は、1693年(元禄6年)の秋ここで世を去った。八代目堀井清右衛門のとき、領主である保科兵部少輔から、そば打ちがうまいのを見込まれ、布屋よりも蕎麦屋の方が良いのではと勧められ、麻布永坂町の三田稲荷(高稲荷)下に「信州更科蕎麦所 布屋太兵衛」の看板を掲げたのが「更科」の創業とされています。

「更科」の屋号騒動

1941年(昭和16年) :金融恐慌等により、七代目堀井松之助「麻布永坂更科布屋太兵衛」廃業。
1942年(昭和17年) :麻布永坂町13番地「麻布永坂更科布屋太兵衛」、第二次世界大戦で店舗焼失。
1947年(昭和22年) :料理屋・馬場繁太郎、廃業した商号使い、「永坂更科製麺部開亭」開業。
1948年(昭和23年) :そば屋・馬場繁太郎、商号を変え、「永坂更科本店」を開店。
1949年(昭和24年) :七代目堀井松之助、玩具店・小林勇他、合資会社「麻布永坂更科総本店」開業。
1950年(昭和25年) :そば屋・馬場繁太郎、商号を変え、「麻布永坂更科本店」開店。
1959年(昭和34年) :玩具店・小林勇、新規に合資会社「永坂更科布屋太兵衛」開業。
1960年(昭和35年) :八代目堀井良造、大学卒業後、「永坂更科布屋太兵衛」入社。
1961年(昭和36年)
小林勇、合資会社2社を合併、株式会社「永坂更科布屋太兵衛」代表小林勇に、同時に商号登録。
小林勇、類似商号の使用禁止を求め、馬場繁太郎を訴え、原告小林勇敗訴。
馬場繁太郎、勝訴により、「麻布永坂更科本店」の「永坂」と「更科」の間を離すことで和解。
「永坂更科布屋太兵衛」に24年間勤務した、専務取締役・八代目堀井良造、会社を退職。
八代目堀井良造、商号「信州更科布屋総本店」の店舗を、麻布永坂更科20年ぶりに再開。
小林勇、類似商号「布屋」の使用禁止を求め、八代目堀井良造を訴え、原告小林勇勝訴。
八代目堀井良造、敗訴により「布屋」を使用できず、「更科堀井」に商号変更。

まとめ

1984(昭和59)年12月に、江戸時代創業の血筋である、8代目の堀井良造が総本家を開店することになったらしいです。本来はこちらが布屋太兵衛の子孫ではあるのですが、商標登録は他の2店が持っていたため「布屋太兵衛」をお店の名前には使用できず、姓の堀井を冠した「総本家 更科堀井」になったとのこと。これを聞く限り、こちらが正真正銘の寛政元年創業の布屋太兵衛の血筋を引くお店らしいです。

興味を持って少し調べてみて、初めて「麻布永坂更科布屋太兵衛」の屋号を巡って様々な経緯があったことを初めて知りました💦

ちなみに、個人的には麻布にある3つの「更科そば」のお店のどこが格上で、どこが格下であるという比較することはできないと思っています。

要は、利用者や愛用者が好きなお店を利用すれば良いのだと・・・


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