見出し画像

じさつとたましい45

いつものように一部屋一部屋病衣を配っていた。

みなさん大分私に慣れてくれて、
挨拶や雑談をしてくれる。

折り紙や、作業療法で作ったキーホルダーを
くれる人もいた。私はそれを名札につけ、
ちゃらりと揺らしていた。

さて次は408号室だ。

山根さんという患者さんの部屋で、
歳は30代前半くらいである。
患者さんの中でも背が高くて
がっちりとした体型だった。
ぎょろぎょろとした目で、会釈だけするのが
彼のコミュニケーション方法だった。

あの、ぎょろぎょろとした目で見られると、
私はどこか、ドキッとするのだった。
どことなく恐怖感もある。
しかし、それ以外のなんとも言えないドキッがあるのだ。
どこか寂しげな、どこか何かにすがるような、
そんななんとも言えないぎょろぎょろの目であった。

「失礼しまーす」

少し身構えながら、部屋に入った。

山根さんは窓の前に正座をしていた。
ラジオから音楽が流れている。

この曲は何であったか。

「山根さん、どうされました?」

山根さんは静かにうなだれている。

ああ、そうだ。この曲は…

「…。アメイジンググレースです」

山根さんが口を開いた。
初めて山根さんの声を聞いたように思う。

「アメイジンググレース…。ぼくを
ゆるしてください…」

静かな声なのに、ぎょろぎょろした目と
同じメッセージ性がある声だった。

「ゆるすって何をですか…」

ドキドキしながらこちらも返すが、
それ以降は返答がなかった。

そっと病衣をテーブルに置いて、
私は外へ出たのだった。

アメイジンググレース。

その日は私の頭の中もアメイジンググレースが
流れていた。

「山根さんは、ずっとあれ言ってるっすよ。
あれはラジオじゃなくて、カセットテープっす。
毎日毎日聴いては、窓の前でゆるしを乞いてるんすよ」

アフロの田中さんが解説してくれた。

「逆にすえちゃん、見たことなかったんすね。
見たことない方がレアっつーか。
あれ見ると俺は何とも言えない気持ちになるっす」

「何でアメイジンググレースなんでしょうか」

「うーん、アニメの全滅シーンとか
なんかそういうところで使われてるイメージっすけど。
讃美歌かなんかじゃなかったっすかねえ」

田中さんが空を見上げ、考え始めた。
前髪のアフロがふわっと揺れたのが、面白かった。

「そうですよ。アメイジンググレースは
讃美歌です。ジョン・ニュートンという
牧師さんが作ったんですよ。
ニュートンは昔奴隷商人で、
後にそのことを激しく後悔すると共に、
そのことすらも赦してくれた神の愛は
何と素晴らしいことかと思って
この曲を作ったそうです」

聞いていたのか、隣にいた岩井さんが
解説をしてくれた。

「へえ、あの曲あんな意味深なんすねえ」

田中さんがうなづき、またアフロが
ふわふわと揺れた。

何となく私は気持ちが沈み始めていた。

「山根さん何か重罪でも抱えてるんですか」

「それはわかりません。
山根さんは何にどんなことをゆるしてほしいのか
決して語らないんですよね。
それでも毎日毎日、ゆるしを求めるあの姿は
やはり迫るものがありますよね」

その日以来、よく窓際で正座をする
山根さんを見かけるようになった。

アメイジンググレースはずっと流れていた。

赦しを得た人の書いた曲だから、
それに乗っかってしまえば良いのに。

山根さんは奴隷商人よりも
酷いことをしたのだろうか。

山根さんを見ているうちに、
私はまた本が読めなくなっていた。

やっぱり…。私も、ゆるされたい…。

心の中で明確にそんな気持ちが
出てきていたのであった。


いいなと思ったら応援しよう!