自己紹介、せねばならぬなぁ
どうも,B面である。noteを始めたての頃に大層なことを言った後,自転車の話しかしていない,ということに今気が付いた。なのできちんとしていなかった自己紹介をしようと思う。A面の話はこちらからどうぞ。
新町圭(しんまち けい)は2人でnote活動している。言語化の上手いA面と,文面をほんのちょっとだけ整えるB面,と言ったところだろう。エラリー・クイーンや岡島二人,ゆでたまごと仲間なのである。ちなみに名前は上げているがそれぞれの著作を読んだことはほとんどない。
ツイッターアカウントの話は出てはいるが,B面が運用部分での気がかりがあるので作成までは至れていない。覚悟が決まり次第作るつもりだ。
B面について
自己というのは生まれながらにして自己である。何が幸せで何が不幸せかを決めるのも自己である。で,今使っているPCが自己を悉く「事故」と変換するせいでややネガティブになりながらこの記事を書いている。
まあ,変換の話は置いておいて,なぜ急に自己の話をこんなに哲学めいて書き始めたかというと,「普通」という社会的合意がいまだによくわからないタイプの人間だからである。私自身は同年代としては恐らく早い段階から発達障害の診断が下されており,早期から告知を受けていた。そのため「自分の常識は世間の非常識」という意識が心の片隅のどこかに常にあり,そのまま「普通」というものがよくわからないままここまで来てしまった。そして,業界としては良くある話だと思うが児童福祉に携わって働いている。
この記事も,自己紹介とか言っておきながら,生まれてからの流れを書くことになると思う。それはただ単に,流れに沿わないと色々と思い出せないという特性の表れでもある。そして,流れに沿うということは,必然的に分量が増えるということであり,これを読んでいるあなたが引き返すなら恐らく今であろう。
右横のスクロールバーを見て,覚悟して読み始めてほしい。
幼少期
ちょっと唐突ではあるが,これを読んでいる人に前提として欲しいことがある。それは「私の生まれた環境は恐らく標準偏差の右側であり,そして私自身もそこまで不自由した経験が無い」ということである。当時の社会を無理やり平均化してしまうと「中のやや上」ぐらいではあろうが,今の日本社会においておそらく同じだけの水準で生活をしようと思うとそれは十分に「上の下」となるだろう。つい30年で社会というものはかくも変わるものである。
私が生まれたのは私鉄とJRによって大都市と接続された中核市であった。両親は大卒の共働きで,今思えば夜遅くまで働きながら,私と姉を育ててくれていた。文化資本という面では本当に恵まれた家で,幼少期に住んでいた借家では,リビングの壁に丸々1面本棚を立てていたりしたし,母親の伝手で歌舞伎やオペラを見に行くなどもしていた。今思えば,両親含めその家系にもそういう傾向のある人が多かったし,両親ともに専門職や技術職に分類されるような仕事をしているあたり,自分は発達障害のサラブレッドなのかもしれない,と思うこともある。
なんにせよ,母方の家系に教育関係者が多かったことがあり,早いうちから「この子は変だ」という話自体は出ていたらしい。結局そのまま小児精神科にかかり,小学校低学年の頃に告知を受け,そこで初めて「ああ,自分って他の人とちゃうんやな」ということを他人から言われたのである。ちなみにこの時の診断名は確か「高機能自閉症」で,当時の診断書にはどちらかしか書けなかったため書かれていなかったと思うが,「ADHDも持っているだろう,と医者に言われた」と高校時代に母に聞いた気がする。
ここで私にとって幸運だったのは「中核市に生まれ」「知識があるものが近くにいた」からこそ早期に医療や療育につながったということである。もしこれのどちらかが欠けていたとしたら,おそらく私は今頃ひきこもりになっていたのではないだろうかと思う。当時は今ほど発達障害がポピュラーではなく,同様に児童福祉や児童精神科も充実してはいなかった。そういった資源にアクセスできる土地であったこと,親がそういったリソースを使うことに抵抗が無かったこと,そして親族に発達障害などの知識を持っている人がいたことが大きかったと思う。
話はそれるがこういう些細な出来事で「たられば」を言わずに済んだ奇跡みたいなものを身をもって感じることが増田を見ているとたまにあり,以下の内容などを読むと彼我の境界を無視してややぐるぐる考え込んでしまうことがある。
就学前
ふり返ってみれば保育所時代はそもそも他者にそこまで興味を持っていたのかは怪しい。家族は確かに重要な他者であったとは思うが,保育所の同級生に対しては,一部の友人を除き「環境の一部」みたいなとらえ方をしていたような気がしている。
当時のことを振り返ってそれっぽいなと思うのは
・左右非対称が気持ち悪くて,戦隊もののロボットに対してもやもやしたものを抱えていた(逆にガンダムはすんなり受け入れられた)。
・朝早起きするのが苦手。休日は10時ぐらいまで寝ていたため,そもそもニチアサなどにお世話になっていなかった。
・分離不安があまりなく,興味の赴くままに動くため,平気で迷子になる(A面曰く「これは今でもそうやろ」とのことである)。
・足に砂がまとわりついて,水で流してもまた砂の上を通った後でしか建物内に入れないがために,砂場での泥遊びが嫌だった。
といったあたりだろうか。
左右対称という観点から考えてみると,小学校時代に折り紙をひたすら追っていたこともなんとなしに納得ができるような気がする。
小学校
学校生活
なんと小学校入学早々,というか入学式当日だったか翌日の夜中から紅斑がでて,無事2週間ほど入院する羽目になった。確か入学式の後に学校に行ったのはゴールデンウィークが開けた後だったような気がする。同級生の中に何人か保育所が同じだった人がいたおかげで何とかなっていた。が,いろいろあっていじめのターゲットになってしまい,また,母の教育方針などもあり,姉ともども中学受験と相成るのである。今思えばこれはとても正しかったと思うと同時に,価値観がごちゃ混ぜになった,いい意味でも悪い意味でも世間の縮図としての学校であったり,高校入試であったりを体験する機会を失ってしまった,とも思っている。
ちなみに入院は2年生の冬にも熱性けいれんをおこして入院している。冬場だったのでインフルエンザ脳症を疑われ,髄液を抜かれ,その後の筋肉痛などに苦しんだ思い出がある。結局原因は不明で,その後しばらくはてんかんの疑いで年1で脳波を取っていた。入眠時の脳波も取っていたので,それなりに寝かかったところで起こされるのが嫌であった。
小学校の間の思い出はいくつかあるが,4年生の時か3年生の時に折り紙ブームがきて,授業中にひたすら折っていて怒られたことを覚えている。今思えば申し訳なさがすごい。
習い事
小学校時代は4つの習い事をしていた。習字,水泳,音楽,塾である。
習字は毛筆と硬筆を習っていたが,今の私の書字を知る人にそれを話すとだいたい嘘だと思われる程度には悪筆である。悪筆を語るエピソードには事欠かず,「母親に『ミミズが腸捻転を起こしたような字』と言われる」「利き手と非利き手で書いた字が同じ程度に汚い」「高校の時に数学のテストにすら『字を丁寧に!』と書かれた」などがある。
ちなみに父親の字も汚いが,姉が小学生の時にそれを指摘したところ「読めない字だからこそ喫茶店で仕事していて覗き込まれたりしても大丈夫だ」と開き直られた,と話していた。悪筆といい,開き直り癖といいどうも受け継がなくていいところまで受け継いでしまったようである。
ついでに話すと,A面の見立てとしては「空間認知の悪さ,特に空間分割の部分が悪いから文字全体のバランスが取れていない」といったところらしい。
水泳は地元のスイミングスクールに通っていた。小学校2年の時にサッカーを習いたいと思って母に言ったらなぜか水泳を勧められ,そのまま中学校卒業までそこに通うこととなった。小さいころから水遊びが好きで,保育園の時から夏休みや冬休みの短い間だけ通っていたりしたこともあり,あまり抵抗なく泳いでいた。ちなみに母親曰く「あんたは本当に水を怖がらずにちゃぷちゃぷ遊んでたから,逆に水が怖いものだと教えるのが大変だった」とのことである。今でも水が排水溝に吸い込まれたりするのを見ているのは好きである。
音楽は電子ピアノを習っていた。正直,あまりまじめな生徒ではなく,音楽理論もそんなにしっかりせずに小4でやめてしまったため,あまり書くことが無い。しかし,この経験のおかげで音程や耳コピは鍛えられ,ガラケーの着メロ作成機能で遊んだり,ベースの簡単なTAB譜起こしなどができるようになった。
塾は前述したとおり,中学受験のために通っていた。当時の得意科目は社会 (歴史以外),理科 (水溶液以外) といった感じで,逆に国語の感じや算数は苦手であった。本当に算数には足を引っ張られていて,志望校別の模試で理科は塾内1位を取るも算数の成績がボロボロで,総合判定がBぐらいにしかならなかったことがあったりもした。ちなみに最終的に進学した学校は当時は傾斜配点をしており,確か国算が120点満点,理社が80点満点の中を合格している。出題内容の相性の良さだけで乗り切ったようなイメージである。
療育
覚えている順に書くと,クリニックで月1回の心理面談 (高校3年まで),大きめの病院でTEACCHベースの集団SST(小4か5の時に1年だけ週1で),任意団体での集団SST (大学時代の途中まで不定期,年4回とか?),といった具合である。正直,当時これだけのことが受けれたのは大都市が近かったからに他ならないと思っている。
クリニックでの心理面談は運がいいことに開始から終結まで同じ先生に担当していただけた。通いたての頃は色々なもので遊んでいたが,しばらくするとひたすらピンボールで遊んでいた記憶がある。目の前に人がいるにもかかわらず,である。時たまUNOなどをしていた気もする。中学以降になると学校のよしなしごとを話したりしていたが,大学進学にあたりそのまま終結となった。個人的には当時のカルテなども読んでみたいとは思うもののもう残ってはいまい。幸いなことに,これ以降今に至るまで医療のお世話にならずに済んでいる,
ちなみに最近近くに行く用事があったためまだ残ってるのか確認してみると,ビルはあったものの立ち退いていた。今調べてみると移転した様子である。
病院でのSSTは今覚えばとてもきれいなTEACCHや療育だったように思える。視覚的構造化,シンプルなキューと場のコントロール,そして自由時間でのトランポリンや運動での感覚統合など,今の知識を持ったまま当時に戻って色々と勉強したいとさえ思う。ただ,逆にそれは環境としてそういったことが行える場だったからこそできた内容なのだろうな,と思う。
活動の内容としては本当に多岐にわたり,毎月のカレンダーづくり,スイカ割りやクリスマス会といったイベントごと,そして,料理を作る練習をメニューの決定,買い出し先までの経路確認,そして買いだして料理をするところまでするなどもあった。生活に根差した内容だったように思う。
任意団体でのSSTは逆に枠がそこまできっちりとしておらず,そういう意味では今の仕事と近い部分もあるように感じる。病院のものと違い,そこまで参加者の条件的統制が取れていないことや,市民会館の部屋を借りてやっていたからだとは思われる。これも一応高校生で卒業し,そのままOB会 (という名前のただの同期会) へと交流の場所は移った。しかし,就労組と進学組の軋轢 (どちらかというと親同士の主義的な問題) や,そのOB会のLineで話されている内容に辟易してしまってやめてしまった。厳密にいうと辞めることを決めたのは母親であり,やめる際に理由は話してくれた。理由については個人的は納得できる内容であったために,辞めさせられたなどとは思っていない。辞めたのが辟易した出来事と同時期であったこともある。
と,ぼろくそに言うものの,たまに皆元気にしているかと思うこともある。連絡を取る気も連絡する方法ももう無いのではあるが。
中学・高校時代
結局,受験で受かった中高一貫の私学で過ごすこととなった。個人的には人格形成において,ここで宗教や性善説的建学の精神にまみれたことはとても意義があったと思っている。日本人は宗教に対して無意識的だなぁ,と思うことがあるが,それもここで宗教を丸っと6年間学べたからだと思っている。
中高一貫校のメリットとしては,環境の変化が少ないこと,特性を分かっている先生が (やめない限りは) 増えていくこと,淘汰圧が少ないことだと思っている。 特に特性の周知に関しては,保健室の先生は基本的にそこまで流動性が高くないことから,逃げ場としての保健室が使いやすいというのは重要だと思う。
逆にデメリットとしては高校受験が無いため,大学受験でややハンデを負いやすい部分であろう。中学受験のテクニックは大学受験ではあまり使えないのである。
まあ,それはさておいて中高一貫校の「受験なしの6年間」というのはとても長い。しかし,だからこそ図書室にこもり,サブカルチャーにうつつを抜かすことが出来た。主にライトノベルとPCゲ―ム,そして部活である。
図書館
通っていた学校の図書室はなぜかライトノベルだけで1つの島ができるほどの量があった。ただ,それは図書室だけで年間予算が確か300万だったか,相当な額が付いており,生徒が出した図書購入申請が通りやすかったからである。高い学費を払ってもらっていただけのことはあると思う。
もちろん,それを使って流行りの作品は一通り仕入れたりした。ちょうど入学したころがセカイ系のブームと重なっており,ハルヒを読み,シャナや護くんといったツンデレ系を少し舐め,友人と「とある」は犬村なのか鎌池なのかを揉め,時雨沢のあとがきを楽しみ,そしてらっきょやスレイヤーズに遡ったころに,川上稔を読み始めた。いや,スレイヤーズは小学生中学年の頃に読んでたし,何ならそれでごっこ遊びしてたわ,客観的にみるとやばい小学生だな。
川上稔はおわクロから入り,境ホラの途中で高校卒業と相成った。そのため,境ホラの途中からは終えていない。ちなみに作品的に好きなのはすんなり終わる「連射王」である。なんせ読みやすいしそんなに量が多くないしね。
高校の途中頃になるとライトノベルがどうも型きり文様に感じ始め,徐々にSFの方に傾いていった,最初は星新一などを読んでいたが,ある日手に取った「戦闘妖精・雪風〈改〉」はとても面白く,そのまま当時の最新刊を注文するまでに至った。ちなみにこの4月に最新刊が発売されたがまだ購入に至れていない。
ライトノベルなどをがっつり読んではいたが,ライトノベルだけを読んでいたわけではない。やや人生を曲げられる本,というのは誰にもあると思っているが,個人的なそのうちの1冊は中1の時に手に取った本であった。
その本は,サイモン・シンの「フェルマーの最終定理」である。
小学校時代,算数は嫌いな部類であった。学校でする内容はなんとなくは解けるが,塾でやる特殊算は解き方を覚えられないし計算はずれやすいし書くのは遅いしでできるというイメージはなかった。しかし,読み物としての算数などは好きで,祖父がくれた「数の悪魔」などを読んでいた。そのため,「よくわからないけどパスカルの三角形はすごいらしい」みたいな耳学問的な先取りなどはしていた。
「フェルマーの最終定理」の話に戻ろう。定理自体の存在は塾の頃には知っており,手計算で反例を求めようとするなどしていた。しかし,そんなこともすっかり忘れて新着図書の棚を見ていた時,その本が目に飛び込んできた。懐かしさから借りて読んだが,証明の詳細は全く分からなかった。しかし,数学という大きな流れの中で思わぬところがどんどんつながり,解かれていく様を読んで,「解けるかはさておき,知識としての数学というのは否定できないもんなんだな」と思うようになった。結局数学は高校に入っても足を引っ張り続け,冗談で「理系に行きたい」などと言って数学教師を顔面蒼白にする程度の成績しか取れてはいなかったが,知識として詰め込んだ部分を大学院卒業後に再体系化できたことで,だいぶんと解けるようになった。詰め込み教育は批判されがちではあるが,勉強の中には意味を理解して進むには重いこともあるのだな,と思わされた経験である。
PCゲーム
我が家には中学1年までパソコンは無かった。そして,パソコンが家に来た後はどっぷりそれにハマっていた。
初めにハマったのはフラッシュゲーム,その次にはXP内蔵のピンボール (またしても!),その次はRed Stoneである。
Red Stone は友人に誘われて始めたものの,結局プレイ時間が友人と会わずソロで続けた結果,初心者マークが外れないうちに中3の途中で飽きて辞めた。この話を姉にしたときに「お前はネットでもボッチなのかよ」といたく笑われたが,そこでの関係性が無かったからこそすんなり辞められたんだと思っている。
中3からしばらくは「ディアボロの大冒険」と「PaperMan」をしていた。前者はローグライクであり,後者はFPSである。PaperManではTavorとDragnovがメイン武器で,特にDragnovはお祈り武器であったため,とても好きであった。信仰心が試されるというのは悪いことではない,あまりにも当たらないとストレスフルではあったが。
その後は「Spesial Force 2」などをしていた。
ちなみに中3の時には「Typing Mania 5 Odyssey」にドはまりして,家に帰ってはひたすらメルトをプレイしていた。タイピングの速さは完全にあそこで鍛えられたと思う。ウェクスラー系を受けるとだいたい処理速度が一番低くなるタイプではあるが,それでもタイピングが早いのはここでドはまりしたおかげである。久々にしようかと思って探してみるともう既にHPが無くなっていた。歳月は無常である。
部活
部活は運動部と体育系文化部を掛け持ちしていた。どちらもフィールド主義的なところがあったため,学外へ行っては調査をしたり,いろいろしていた。小学校の時には父親の趣味で「北斗星」と「あかつき」に乗せてもらい,いろいろと見て回ったが,それとはまた違うフィールドワークをこなすことで,地理的な感覚や動植物に対する知識がそれなりに鍛えられた。これは仕事や生活にかかわらず,とても役に立っている。
また,文化部の方ではデータサイエンスの初歩としてのエクセルや,部誌発行のためのワードなどを教えてくれた。これは大学進学後に大いに役に立つこととなる。
進路選択
さて,高2の途中でコース選択があり,「数学は目も当てられない成績であるが理系に行きたい」なんて小粋なジョークを飛ばしたりもしたが,無事文系社会のコースに進むことが出来た。
そして大学受験も視野に入ってきたころ,何とか成績を頑張って取り (数学以外),下駄として検定やTOEICを受けることで,どうにかこうにか指定校推薦が視野に入ってきた。この時,学部として候補に入っていたのは今でいうデータサイエンス系のはしりのような学部と心理学部であった。
ここで進路をどう選んだかというと,1つは入学後のカリキュラムである。オープンキャンパスなどで話を聞き,数学が足を引っ張らない方を選んだのである。
データサイエンス系の学部は,文理どちらからでも入学は可能であるが,文系の人はだいたい線形代数で苦労する,という話をオープンキャンパスの際に聞けたことが個人的に大きかったと思う。それに対し心理学部では統計がネックになりやすいものの,フォロー体制がしっかりしているということを聞き,心理学部を選んだのである。
ただ,入学して思ったことは「これって下手したら紺屋の白袴になりかねんよな」ということであった。これを読んでいる皆にはぜひとも消極的理由ではなくて積極的理由で進路を選んでほしい。
そしてもう1つの理由は,専門職などのルートを考慮して,である。データサイエンスは確かに興味はあったものの,結局は専門職としてやっていくには民間企業などとなってしまう。自分の特性としてそれに耐えられるような気がしなかったこと,身近に心理職がいっぱいいて,話を聞けたことなどもあって,心理学部に進学することを決めた。
ちなみに身近の心理職に進学先とキャリアプランを話したらだいたいの方から「食えないぞ」と言われたけど本当にそう思う。誰か4千万ぐらい紐のついてないお金を非課税で振り込んでくれないかと考えてばかりである。
大学時代
クソゲーマイスターとなった話や自転車の話は別の場所で書いたので今回は書かない。
おそらく私のような人間が大学入学後にぶち当たる壁は履修登録だと思われる。が,これは姉の力を借りることで何とかクリア。ついでに色々あって教職課程も履修することとなる。
教職課程に関しては一長一短といったところで,教職課程の授業が卒業単位に含まれる学部と含まれない学部があった。心理学部は前者だったので,自由科目をほぼ教職課程でつぶしていけたのはメリットだったと感じている。ただ,教職課程のアナウンスは自分で掲示板に行って確認しなければならないのでしんどい,というのはデメリットである。必要なのは情報を共有できる友人であろう。
教育実習はただただしんどい。今この場で何をするべきか,ということが全くもって分からないタイプの人間なので,何をしていいかわからないし,何をしてはいけないかがわからなかった。しかし,実習の総括で,ある先生がおっしゃった「ここにいる生徒は標準偏差の右側であり,ここにきている君たちもおそらくその世界しか知らない。この実習で経験したことは決してすべてではないし,世の中には想像を超えることはいっぱいある」という言葉は今の仕事をしていても本当にそうだな,と思う。
ゼミはとても楽しかった。入ったゼミが臨床児童心理系のゼミだったこともあり,卒論は複数人で研究チームを作って3本書くこととなった。ここでしでかしてしまったことは今でも本人に謝りたい部分があるのであるが,当の本人が生きているかわからないので悲しい。生きていてほしいが。同じ卒論を書いたうちの私を含めて3人がそのまま院へと進学していった。
ゼミ室にこもって,ホワイトボードとノートで延々と議論と勉強をしていたのもとても楽しかった。ここでの勉強スタイルが後々の資格試験の勉強方法の基礎となっている。
大学院とそれ以降の話
大学院は臨床心理系の学科に進んだ。ここでの学びはいろんな人がいてとても面白かった。臨床と研究はしんどかったけど。そして,ここでA面と出会い,同じ鍋のパスタを食う仲となり,今に至る。
心理実習は大変であった。が,ここでの挫折が無かったら今の天狗具合がもっと広かったであろう。
修論はA面が手伝ってくれなかったらデータ入力の段階で爆発していたと思うのでとても助かった。と言いつつ謝辞で漢字を間違えたのは本当に申し訳なく思っている。
そして,ここで出会った人とのつながりで,今の職場にたどり着いて働いている。
ふり返ってみて
結局恵まれた環境にいて,その中でぬくぬくと育っているだけの話なのではあるが,だからこそできたこととだからこそわからないことが様々あるな,と今の職場で働いていて思う。それはおそらく発達障害の診断などに関係なく,同年代の中ではかなりイージーモードな育ち方をしていたからだろうなな,とこの記事を書いていて感じた。背筋がうすら寒い。