【新町真之介】中学、高校と公式戦未経験で野球人生が終了。チームに必要なピースを目指し、なるために「全う」した6年間の野球人生
これまで中学高校と同じ野球歴の3人のことは書いてきたのに自分のこと書いてないじゃんと思い、著者である自身のことを書いてみたいと思います!
【野球歴】
晴海アポローズー世田谷西シニアー都立総合工科
■野球が好きかわからず、年月経つ事にどんどん野球が好きになっていった
自身もなぜ野球を始めたのかはわからないんですけど、いつの間にかユニフォームを着用して、グラウンドへ行く土日が日課になっていました。上手くなりたいかと思ってやっていたのかもわからず、特に心ここにあらずって感じで練習していたように思います。とにかく小学生の自分でも、理不尽で怒られるのが本当に嫌だった。なんでこんなことで怒られるんだ?って思っていたと思います。途中で始めたミニバスも楽しかったし、小学生であれこれ心が動きながらも結局は最後まで野球を続けて、中学校では世田谷西シニアへ入団を決めました。決めては指導者だったと思います。
世田谷西シニアへ入学してからどんどん野球が好きになりました。
自主練習もするようになったし、もっとうまくなりたいと意識が変わったことが本当に良かったと思っています。
世田谷西シニアでは上級生だから試合に出れるようなことはなく、完全実力主義。メンバーには入りましたが、主要な公式戦には出場することなく中学の野球人生が終了することとなりました。
■ついに高校でも公式戦未経験のまま野球人生が終了。背番号「20」が一番似合う男でいるために
進学した都立総合工科では自身を含めて世田谷西シニアから河西大樹、芦田大介、高橋海大の計4人で進学。全員個性がバラバラなので、いい4人が進学したなと思いました。関係性も仲良しだし、河西に関しては野球部でも主将を務めました。
この4人で必ずメンバー入って甲子園へ行くぞ!と誓いを立てて高校野球人生はスタートしました。学生スポーツが年月経つのはあっという間。
その中でも立ち位置はそれぞれで他3人は試合出場を果たしており、自身は秋の大会で夏の練習試合の活躍を認められて初めて背番号をもらうことができました。それが「20」です。とにかく大人になってもこの番号は大好きで今でも使っている。恩師がくれた「20」ですから。
けれど腰痛になってしまい自身は4人の中で、いや同級生の中で一番早く選手を引退することにしました。ここまで野球を続けさせてくれた親に申し訳ない気持ちもありつつ、もうこれ以上痛い思いをしたくないし、自分の実力では試合出場も難しいと理解できた。自分を客観的に見れることが大人だと恩師はずっと言っていました。
「新町、残念なこと言うんだけど試合出場は諦めてほしい。ただ春と夏の大会で背番号20はお前でいくと決めている。俺の教え子で一番似合う20番になってほしい」
そう言われ三塁ベースコーチと有馬監督専属のシートノック時のボール渡しで最後まで戦い抜きました。チームが勝利するために働くってことを決断して、高校野球人生を終えることができました。
ついに高校でも公式戦出ることなく、野球人生が終了してしまい親に試合出てるところ見せられなかったなあという気持ちも当然あります。高いお金払って強いシニアへ入れていただき、甲子園監督の下で野球をやらせてもらいました。本当に好きな野球を続けさせていただいたのは親のおかげです。
野球に関してはこういう役回りだったのかもしれません。
大人になっても野球オタクだし、暑くても寒くてもグラウンドにいることが全く苦ではありません。これもある種、自分の才能なのかなと信じています。
(写真提供:古郡英明)