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上から目線のダイバーシティ  新見正則


マイノリティといわずにダイバーシティといってみる

マイノリティといわずに多様性(ダイバーシティ)と言い換える人は知識人に多い印象です。僕にはどちらでもいいことで、僕の理解は、ひとはそれぞれマイノリティの部分を多かれ少なかれ持っているということです。

他人と自分はどれだけ違うの?

僕は人に迷惑を掛けて生きるのがいいと最近思っています。作家の塩野七生さんと文藝春秋の計らいで数時間にも及ぶ対談をしてふと思ったことです。人に迷惑をかけている自分に気づけば、人からかけられた迷惑もそんなに気にならなくなります。不思議なものです。

高飛車な目線に気づかず生きている

自分のなかのマイノリティに気づけば、他人のマイノリティを許せるようになります。「許せる」という高飛車な目線ですが、実際そうなのです。自分は違うと聖人君子を演じていても、実は内心は「高飛車な目線」でマイノリティを捉え、それをダイバーシティと言い換えて、「高飛車な目線」を消しているんじゃないかと僕には思えます。

読字障害を隠すために平家物語を暗記する

僕はどもりがあり、発語障害がありました。読字障害といった側面が強かったです。教科書の字を音読できないのです。暗記していればしゃべることはできました。平家物語の音読が中学生の頃にあり、僕は字を読めないので、すべて暗記して、目を閉じて音読を演じたこともありました。

やりたいこと、やれることが見つかれば

そんなどもりで、読後障害もあったので、教科書を読む学校の先生は無理。法律の文章を公判で語る法曹関係も論外。もちろん放送関係はあり得ない。大きな会社はプレゼンがあるからたぶんダメ。そんな消去法でしたが医者ならなんとかなるかなと思ったのです。法医学の医者とかになれば読後障害でも生きていけるかなと18歳の頃、なんとなく思いました。

どうしても隠せなくなってカミングアウト。

人は自分にマイノリティの側面を感じると直感的に隠したくなります。僕もそうでした。でも大学時代のある日、どうしても隠し通せなくなり「どもりだけど、それを隠さずに生きていこう!」と決心をして楽になりました。その後は、だんだんとどもりが減ってなくなり、読後障害も最後には消えました。運がよかったと思っています。

ひとから見ればほんの些細なことだった

マイノリティを感じると人はそれを隠し通すか、カミングアウトを選びます。自分が感じているマイノリティの部分が本当に大きく思えるのです。実は人にとっては僕のどもりなど大したことではないのです。しかし、本人には、子どもの頃は、人前で話してどもると、地球がひっくり返るほどの一大事だったのです。

ひとにはどうしても言いたくないことがある

できるならカミングアウトすることが楽になる最良の方法です。しかし、実はカミングアウトできない負の側面を持っているひとが多いことも知っています。身体的なこと、精神的なこと、性的嗜好のこと、出自の問題、子どもの頃万引きをしたとか、警察の御世話になったことがあるとか、いろいろです。

マイノリティは特別じゃない。僕も、きっとあなたも。

そんな自分のマイノリティの部分を知って、当然に人にも同じようなことがあると体で理解して、また将来、自分がアクシデントでマイノリティに属するかもしれないという想像力をもって、人と接すれば、特段マイノリティを受け容れようとか、ダイバーシティに賛成とかいちいち声を上げなくても、当然の帰結として、マイノリティを許せるようになりますよ。すると高飛車な目線ではなく、同じ目線でマイノリティを感じられるようになります。マイノリティ議論は、そんなあたり前のコトに僕には思えるのです。

西洋医の漢方処方はマジョリティになってるよ!


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